エクレシアとは
エクレシアという訳語のもともとの単語は"ekklesia"であって、「召し出された会衆」という意味です。すなわちそれは神によってこの世から使命を帯びて地的には召し出されたクリスチャンの集合体であって、いたるところで主の御名を呼び求めている人々(1コリント1:1−2)、「キリストの体」、「キリストの花嫁」とも言われ、霊的には「一人の生きている新しい人」です(エペソ2:15)。それはキリストの充満であり、スーパナチュラルな新しい生命体です(エペソ1:22)。よっていわゆるエクレシア堂などの建物などではなく、また宗教法人などの何かの会員団体でもありません。またその概念は、「召し出された者たち」という点において、「対この世」で意味を持つものであり、内向きになって、互いに分裂・対立している現在の諸エクレシアのあり方は正常ではありません。
エバがアダムの眠らされている間にその脇腹の骨から造られたように、エクレシアもイエスが眠らされている間に、その脇腹の傷から流れる血と水によって生み出されました。アダムとエバの夫婦関係は、キリストとエクレシアの関係の予型(タイプ)であり、それは奥義です(エペソ5:31,32)。そして究極的には子羊と新エルサレムの婚姻という形で完成され、神の幕屋がが人と共にある、神と人が共に住む状態が実現して、神の永遠のご計画は完成します(黙示録21,22章)。
このエクレシアは本来キリストの体の地上における表現であって、召し出されたクリスチャンの一人一人は、ユダヤ人とか異邦人とかの区別なく、また人種とか色とか性別によらずみな等しく、キリストの体の肢体であると聖書は啓示します(1コリント12章)。この地上においてキリストの手足として福音を伝えたり、信者を養ったり、証しをしたりして、神の御旨を実行する機能を帯びています。そのあり方は地域的であって、各地においてそれぞれの召命を神から直接に受け、神に対して直接に責任を負いつつ、その地ごとに燭台として輝くべきなのです(黙示録2,3章:→「エクレシア歴史について」参照)。
このようなわけで本来キリストの体であるエクレシア(エクレシア)は一つであり、普通に言うカトリックとかプロテスタントなどの派閥は聖書の中には元来存在しません。これらのいわゆる教派(Denominations)は地上におけるクリスチャンの活動の社会的歴史的経緯の中で人間の都合によって生まれたものであって、現在ではどのくらいあるのか、ちょっと多すぎて分かりません。これらのクリスチャンの集合体はいわば一つのキリストの体の地上におけるある意味で多様な表現とみなされ、それぞれ自分が正しいと思っている聖書解釈に基づいてそれぞれの集会方法や礼拝形態を有しております。
しかし神はその枠組みとしての教団や教派をご覧になるのではなく、その中身である一人一人のクリスチャンのあり方を見ておられ、彼らがそれぞれにキリストにあって真理のうちに建て上げられることが、すなわちエクレシアが建て上げられることを意味します(エペソ2:21-22;5:26-27)。決してある特定の教団・教派の教勢が拡大することを見ておられるのではありません。
こういうわけで、少なくとも教義や聖書解釈の違いによって、本来一つであるべきキリストの体を分裂させることは避けたいとクリスチャンであればみな願っていることです。いわゆる共通信条(The Common Faith)といわれるクリスチャンのアイデンティティーを証する信仰箇条から逸脱したり、それらを否定あるいは歪曲したりするいわゆる異端(注)を除いて、どこに本当のキリストの体の現れが存在するのかについては、私自身はすべて神の判断にお任せしたいと思います(→「命と賜物について」および「エクレシアの合一について」、)。
(注)現在主要な異端としては、統一神霊協会、モルモンエクレシア、エホバの証人が有名です。これ以外にも様々な異端あるいはカルトが生まれては消えていっております。これもイエスの予言どおり、終わりの時代のひとつの特徴です。
(C)唐沢治