エクレシアの合一について


私は自他共に認めるクリスチャンですが、実はクリスチャンになる以前も以後も不思議に感じていることがあります。それはいわゆる「エクレシアの多様性」です。歴史的に見て、カトリックエクレシアからはじまって、宗教改革以降のプロテスタントの諸エクレシア、さらに20紀世紀に入ってからのカリスマ派あるいはペンテコステ派の諸エクレシアというように、同じ神を信じ、同じ主をいただき、同じ御霊を得て、一冊の聖書を得ているにもかかわらず、なぜこれほど多様なエクレシアが存在するのでしょうか?持っているのは同じ聖書であるにも関らず、それぞれがそれぞれのエクレシアの立場や、集会および礼拝形態を同じ聖書から「読み出して」あるいは「解釈して」、自らが正当であると信じるところに従って、それぞれに歩んでおります。しかしながら時として各エクレシアの間で葛藤や争いがあることも事実です。

よく考えてみると、これは実に不思議な現象であり、また未信者の方にとっては時として深刻なつまづきの原因ともなり得る点でもあります。愛、赦し、受容、憐れみ・・・これらの徳を説いているキリストの諸エクレシアが、互いに分裂状態にあり、互いに批判しあい、互いに争い合う状況は、確かに主イエスの祈り:
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにおるように、彼らがみな一つとなるためです・・・それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです・・・それは、彼らがまっとうされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしをつかわされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためであります(ヨハネ福音書17章)

を無にしているかのように見えます。

使徒時代においてはもちろん「カトリックエクレシア」も「プロテスタント諸エクレシア」も存在していなかったわけで、外部者から信徒たちは「ナザレ人の追従者」とか「ユダヤ教の異端」と思われたり、あるいは「その道の者たち」とか呼ばれておりました。そしてある時点から彼らは「クリスチャン」と呼ばれるようになります。そして使徒行伝や諸書簡を見るかぎり、特定の名前のついたエクレシアは存在しておらず、例えばパウロの書簡を見ると、「エペソにあるエクレシア」、「コリントにあるエクレシア」という呼び方が観察されるのみであり、しかもガラテヤの信徒にあてた書簡では、ガラテヤとは都市の集合体である州であるがゆえに「ガラテヤにあるエクレシア(単数形)」ではなく、「ガラテヤにあるエクレシア(複数形)」と呼ばれています。

そこでこの聖書の記述に基づいて、ある人々は「聖書的に見ると、エクレシアは各行政地区ごとに一つづつ存在するだけであり、如何なる特定の名称もつけるべきではない」と結論しています。すなわち「エクレシアの合一」とは各行政区ごとに担保されるべきであると言うわけです。この見解をまともに受け入れるならば、例えば、ある都市Xがいくつかの特別区W1,W2,...,Wnから構成される場合には都市Xの中にあるべき「正統な」エクレシアは「Xにあるエクレシア」ただ1個のみであり、もし各区が独立行政区とされるならば「W1にあるエクレシア」、「W2にあるエクレシア」・・・「Wnにあるエクレシア」とnのエクレシアとして独立すべきであり、したがってその時点では「Xにあるエクレシア」は消滅し、「Xにあるエクレシア」と称されるべきであると結論されるのです!?

そしてそれ以外のいかなる名称を持つエクレシアあるいはキリスト者の集会も、みな「エクレシアの合一」に関する正当な教えに抵触する存在であって、彼らは分裂状態にあると判断されるわけです。上記のような聖書の解釈による「エクレシアの合一」を説く人々から見ると、特定の人物の名前とか聖書の記事に出ていない名称をもつエクレシアあるいはキリスト者の集会はみな聖書の教えから逸脱するものであり、本来一つであるべき「キリストの体なるエクレシア」に分裂を引き起こしていると判断されるわけです(注)

(注)このような「エクレシアの合一観」を有している人々はしばしば「自分たちはいかなる宗派・教派でもなく合一の立場に立つクリスチャンであって、自分たち以外は合一の立場に立たない宗派あるいは教派のクリスチャンである」と宣言します。ただし不思議なのは「宗派」あるいは「教派」の英語はdenominationであって、要するに「名称を有する集合体」の意味であり、したがって「Xにあるエクレシア」などの「名称」をもつ集合体も立派なdenominationに該当するのです。「自分たちは他のクリスチャンとは違う」という意識自体がすでに分裂的です。

イエス十字架にこれから向かわれる直前の緊迫した場面で祈られた先の祈りは、果たしてこのようなことを意図されてのものなのでしょうか?聖書の記事を形式的に受け取って、文字面的な解釈を加え、「キリストのエクレシアの一つ」に関する基準と枠組みを定義し、それを形式的に実行することによって、果たしてキリストにある兄弟姉妹の間の一つが担保され、麗しい交わりが育ち、「キリストの花嫁」としてのエクレシアが整えられ、イエスの再臨の時期が熟するのでしょうか?イエスが最も批判されたのはパリサイ人・律法学者の心の真実の伴わない形式主義であったはずです。

もし「キリストのエクレシアの一つ」に関する正しい基準と枠組みが定義されたとして、それをそのまま寸分違わずに実行している人々が、キリストがご自身の命を投げ出して尊いによって買い取って下さった一人のクリスチャンを、彼が特定の名称を持つ「聖書的でない」エクレシアのメンバーであることを理由として受け入れることができないとしたらどうでしょうか?キリストがご自身の血によって受け入れて下さった存在を「最も正当な聖書の解釈に立つエクレシア」が受け入れないことになります!

イエスの教えはすべて私たちの心に向けられたものでした。実行行為を伴わなくても心の中で殺人や姦淫をすれば、神から見てそれは立派な殺人であり姦淫です。分裂はしばしば形式的に「統一されたエクレシア」にある人々の心の中で育つのです。自分たちの聖書解釈こそがもっとも正当であり、したがってそれにのっとった自らのエクレシアのあり方が最も正統であるとする人々の間で、何としばしば正当な聖書の解釈についての議論とか集会のあり方をめぐってトラブルが多発し、ひいては互いに相手を受け入れることができなくなって、除名事件や分裂騒動が起きたことでしょう!これはすでに歴史が証明しております。

私たちクリスチャンこそが神の愛をこの世に知らしめるべき任務を負っているにもかかわらず、エクレシアの中の醜い出来事によってこの世の人々につまづきを与えているのです。私たちは自らの正当性を主張したり誇ったりするのではなく、むしろ悔い改めるべきです。イエスは白く塗られた墓を最も嫌いました。イエスはまさにそのような形式主義的偽善と戦ったのです。イエスはまず私たちの心のうちの真実を求められたのです。愛、赦し、受容、憐れみ・・・これらはすべて私たちの心のうちの真実であるべきです。そしてその究極にあるのが、私たちの間の一つなのです!それはまず私たちの心のうちに芽ぶき、私たちの心の土壌において育つのです。

すべてをご覧になり、すべてを知り尽くしておられる神は、どこにそのようなクリスチャンの間の麗しい一つがあるのか、どこにキリストの体なるエクレシアの一つが育っているのか、私たちの正当で正確な「聖書解釈」による判断以上に、明確かつ純粋に判断して下さるのです。キリストのエクレシアは私たちの正当にして正確な「聖書解釈」の上に成立するのではありません。ただご自身の命を投げ出してまでその尊い血を流して私たちを贖って下さった岩なるキリストの上にこそ建てられるのです。

そしてキリストは私たちが自分の心を知っている以上に、はるかに深く私たちの心を見抜き、その真実を知っておられるのです。私たちが聖書の正当な解釈に基づいてどんな立場に立つ・立たないとか、あるいは自分の集会にどんな名称を付ける・付けないとかは決して本質的問題ではありません。エクレシアの合一の源はまず私たちの心にあるからです。神はうわべを見ないで、私たちの心を見られるお方です。


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