いのちと賜物について


パウロは、キリストの体である教会には諸々の賜物が御霊によって与えられていると言っています(1コリント12、13章)。賜物とは英語ではgiftsであり、従って「与えられたある種の能力」のことを意味します。パウロのリストによりますと、いやしの賜物、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力などです。これらの賜物は一見派手ですから、私たちの目はついこれらの働き(パフォーマンス)に向けられる傾向があります。そして奇跡的な癒しなどが起りますと興奮し、神の栄光の現れとして、神に叫び、神を賛美します。もちろんこれは素晴らしいことであり、このような形で神の栄光が現されることもきわめて重要です。

しかしながら、御霊はなぜその思いのままに教会のそれぞれの肢体にこれらの賜物を授けておられるのでしょうか。その根本的な目的を見失いますと、私たちは神のグローバルな御旨を見失い、糸の切れた凧になりかねません。賜物の現れ自体の追求はきわめて危険です。すなわち賜物は特定の人の信仰の偉大さを証明するためではなく、からだ全体の益となるために与えられ(1コリント12:7)、その究極の目的はキリストの体である教会を建て上げるためなのです(エペソ2:20-22)。

ここで「教会」と言いますと、よく「どの教会ですか」と問われます。A教会、B教会、C教団、D教団、E派、F派・・・と、いわゆるキリスト教会の中には種々の系列教会、教団、教派が入り乱れております。クリスチャンはイエスの尊いによって贖い取られた存在であり(1ぺテロ1:19)、水のバプテスマを受けた時点でキリストの体の肢体とされました(1コリント12章)。この「教会」と訳されている単語はEkklesiaであって、「召し出された会衆」の意味です。

すなわち「教会」とは、「この世」からイエスの尊い血によって贖い出された会衆なのです。私たち一人一人が教会のある部分なのです。よって「教会」が意味を持つのは、「この世」における文脈においてなのです。「この世」があるから、そこから召し出された者たちとしての「教会」が意味を持つのです。ところがクリスチャンたちはしばしば、教会ので、どこが正統か、どこがもっとも祝福され用いられているか、誰先生の教えが良い、誰先生のは悪い、等々、論じ合います。教団、教派などの団体組織はもともと聖書にはありません。初期の教会は、あくまでも「この世」からイエスの尊い血によって贖われ、召し出された者たちという意味で「教会」であったのです。それ以上でもそれ以下でもありません。現代でも教会は、人間が組織したいわゆる教団・教派の垣根を越えたところに、霊的なキリストの体の地上での表現として存在しております。

少し脱線しましたが、この教会に対する認識がないと、賜物の話は意味を失います。さて、キリストの体である教会は、一人一人のクリスチャンから構成されており、一人一人のクリスチャンは、体の一つ一つの器官です(1コリント12:27)。この体はお互いに有機的に結び合って、一つの機能を果たすことができます。それは頭の司令通りに動くことです。教会の頭とは、すなわちキリストです。このキリストが地上でご自身の意志を実現する媒体として私たち教会は存在します。

よく私たちは聖霊のバプテスマを受けたら、異言を語れるようになったとか、自分の悩まされていた問題から解放されたとか、按手を受けたら長年の持病が癒されたとか証ししますが、そこで満足してはならないのです。諸々の賜物は私個人の益になるためではないのです。キリストの体全体の益になるためなのです!自分の問題の解決のために賜物を求めることは見当はずれです。

そしてここで重要になるのがです。キリストの体は生きている組織体ですから、とうぜん命があります。個々の私たちにも命があると同様に、キリストの体にも一つの統合された命があるのです。私たちの魂が分裂するならば、私たちは分裂病と診断されるでしょう。人格としての統一がなくなり、ついには人格の崩壊に至る精神の病です。自分の体の器官や魂の各部分が、自我の統合中枢と切り離されて、個々ばらばらに機能し出すために、幻聴や幻覚が生じ、制御不能に陥るのです。自分はこれをしたいと願っても、「声」が聞こえてきて、「別のことをしろ」と命じます。それに従うと今度は、「なぜそんなことをした」と責められます。自我の統合は危うくされ、ものすごい不安と恐怖に襲われ、そのまま放置しますと、自我は耐えられなくなってついに崩壊に至るのです。しばしばキリストの体である教会でもこのような事態が観察されます。

キリストを頭とする一人の新しい人が教会です(エペソ2:15)。そこにおいて実現されるべき意志は、誰先生の意志でもなく、誰の教えでもなく、ただ頭なるキリストの意志です。私たちはキリストの体の肢体として、第一義的には自己の幸いを追求するのはでなく、自己の問題解決を追求するのではなく、まずキリストの意志の実現を追求するのです(マタイ6:33)。各器官が自己の意志を持ったら、私の体はどうなることでしょうか。考えるだけで恐ろしいことです。ただし、何か人為的な方法や、ある特定の指導者やその教えを中心として、強制的に「一つ」は実現できません。

そしてそのために欠かすことができないのが、です。私の体にも一つの命が各部分、各肢体に行き渡っているので、私は今ここに私という統一された存在としておれるわけです。もし命が私のある部分に行き渡らなくなるならば、その部分は壊死に至ります。体全体から切り離されてしまうのです。その命が行き渡るのは、血流のお陰です。聖書では命は血にある、とあります。現在、教会に命を行き巡らせるのは御霊です。御霊こそが、個人個人に対して、そしてキリストの体全体へと命を運んで下さるのです。よってまことのぶどうの木であるキリストのうちに住み、この御霊のもたらす滋養分(樹液)を吸収し、御霊の油塗りに服することこそキリストの体の建て上げに必要なことです(ヨハネ15章)。

賜物はあくまでもそのための補助に過ぎません。私たちは派手なパフォーマンスを追求するのではなく、驚くべきしるしと不思議を追求するのではなく、まず第一にはこの命の流れを追求すべきなのです。派手なパフォーマンスや、しるしとか不思議は、福音が宣べ伝えられるところで、それに伴って神がその御国の到来をご自身で証しされることなのです。私たちに分与される個々の賜物は、私たちがキリストの体の成長(注)のために注ぎ出してこそ意味を持ちます。命の流れの中で、命の成長のために、それらは用いられるべきものなのです。
(注)ここで重要なのは霊的なキリストの体である教会をある特定の教団・教派と同一視しておりますと、その特定の教団・教派の成長(いわゆる教勢の拡大)を、キリストの体の成長と思いがちです。確かにその教団・教派を通して表現されたキリストの体が成長するならば、その教団・教派の教勢も成長するでしょうが、逆は必ずしも言えません。すなわち後者は前者の必要条件であって十分条件ではありません。ここでも私たちが何を第一に求めるかが問われるのです。自己の属する教団・教派に思いを置くのか、それともキリストの体に思いを置くのかです。

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