受動性の問題について
これまで「自己を否むこと」、「自己における死」、そして「死と復活の問題」を論じて来ました。次に問題となるのは私たちの「受動性(passivity)」の問題です。自己を否む、自己にあって死ぬ、などの表現から、しばしば私たちは、自分で率先して神に祈ったり、積極的に求めたりすることは、何か無意味であるかのような印象を得ます。神はすべてをご存知であり、すべてをなすことがお出来になる方であるならば、どうして私たちが求めたり、願ったりする必要があるのだろうか、と感じられるわけです。神は私たちを愛して下さっているのだから、神が私たちの必要を満たして下さることを待っていれば良いのではないか、何も一生懸命に祈る必要などはないと考えてしまいがちです。また仮に祈り求めても、自分から出たものや、自分由来の願いであれば、神に拒否されてしまうとしたら、そんな行為は無駄であるように思えるのです。
このように考え出しますと、神のみ前における自分の無力さばかりがクローズアップされて、とても信仰を持って祈り求めることなどができなくなってしまいます。ああ、神よ、どうぞあなたの勝手にして下さい、といった一種の霊的な無気力状態
(spiritual
apathy) に陥ります。この状態に陥りますと、神との麗しい愛の交わりが成立しなくなって、神から切り離されてしまったように感じられ、また一方でサタンの側からすると、きわめて攻撃し易い状態となります。すなわち、私たちの霊的受動性(spiritual
passivity)は、神との関係においても、サタンや悪霊との関係においても、きわめて危険な兆候と言えるのです。
神との関係で言えば、霊的受動性に陥ると、神からの拒絶感と自己の無力感に苛まれる状態になります。すべての求めや祈りが神によって却下されてしまうような印象を生じるのです。すると私たちのうちには「冷酷な神」のイメージが構築され、その「神」は私たちの上申書に、すべて「不受理」の判しか押して下さらないのです。この症状が現れますと、私たちの内側は神に対して冷たくされ、祈りや願いを捧げることばかりでなく、聖書の追求や、聖徒との交わりも損傷されてしまいます。自分一人が孤立し、神から見捨てられてしまったような感覚を覚えることになります。
サタンや悪霊との関係で言えば、彼らは私たちの思い
(mind)
の内に自分自身の思いを投影できることはすでに述べました(→「霊的戦いについて」)。そして私たちが霊的受動性の状態にある時こそ、まさにその絶好の機会であるのです。彼らは無防備になった私たちの思いの内にありとあらゆる否定的事柄、消極的イメージ、汚れた思いや空想、神への反逆的考えと感情などを、次から次へと注いで来るでしょう。こうして私たちの思いは混乱し、霊的騒音で満ち、神への貞潔さが汚され、神との交わりが阻害され、聖霊の静かな語りかけを聞くことができなくなり、霊的状態は落ちる一方となります。それはあたかも底無しの泥沼にはまるかのような印象を生じます。もがけばもがくほど絶望的な蟻地獄にはまって行くように感じられます。
このように私たちの霊的受動性は、きわめて危険な兆候であって、それはほんの少しの意志の油断によって開始されるのです。上記のような霊的症状を呈した場合、私たちに必要なことは次の事です:
神との関係では、第1に、神が私たちを無条件で愛してくださっていることを信じることです。ご自分の子供を持っておられる方であれば、そのご自分の子供に対する思いや感情を、そのままご自分と神との関係にスライドして考えて見てください。子供たちは確かにその幼さと無知から、親から見たらツマラナイ物を求めるものです。時には危険なものですらあり得ます。しかしそれを求める来る子供に対して、親としてあなたはどのように対応するでしょうか?頭ごなしに「却下」、「不受理」の判をつくでしょうか。違うと思います。親として、子供の益を思えばこそ、子供の願いをそのままに受け入れることができない場面もありますが、その動機は、あくまでも子供に対する愛であるはずです。天におられる父であればなおさらのことです。神との最初の愛に戻る必要があります。
第2に、神に対してその愛を誤解し、自ら背を向けてしまったことを悔い改めることです。悔い改めは神への新鮮な愛を再度よみがえらせてくれます。私たちの思いとか感情は慣性がありますので、すぐに立ち直れませんが、意志は現在この瞬間に神へと向けることができます。普通、意志までもを敵に委ねることはクリスチャンの場合はあり得ませんから、意志はあくまでもあなたのものです。この時こそ、否定的状態にある思いとか感情を否んで、意志を用いて神へと転機すべきなのです。
第3に、聖書にある「受ける」というギリシャ語は"λαμβανω"であって、それは「積極的に受ける」という意味であることを知るべきです。手をこまねいて空を見上げて口を開けていれば、天から良いものが降ってくる、という意味ではありません。積極的に求めて、受け取るのです。あえて言えば「受ける」とは「能動的受動行為」であると言えます。主イエスは「何でも願うものを求めるがよい、そうすれば与えられる。それはあなたがたの喜びが満ち溢れるためである」と励まして下さっているのです!
サタンとか悪霊との関係で言えば、霊的戦いにあって(これから自力で勝利するのではなく、すでに十字架でイエスが勝ち取られた勝利にとどまり、そこに生きることです)、積極的にあらゆる神の武具を身に着け、防御だけでなく、むしろ積極的に敵に対して立ち向かうべきです(ヤコブ4:7;1ペテロ5:9)。「攻撃は最大の防御なり」とは霊的戦いでも真理です(→「霊的戦いについて?」参照)。頭には救いの望みの兜、胸には正義の胸当て、腰には真理の帯、足には平安の福音の靴を履き、信仰の盾と御言葉の剣を取るのです(エペソ6章)。
救いの望みの兜は、あらゆる否定的消極的な敵の思いを遮断します。正義の胸当ては、私たちの良心を責める敵に対して、私たちの義ではなく、キリストの義を宣言し、私たちの良心を守るのです。真理の帯は私たちの重心を支えるのであって、キリストが十字架で成し遂げてくださった御業や勝利を確実に把握し、その事実の上に私の重心を置くのです。そして私たちが立つべき場所は平安の中です。神の人知を超えた平安の中に立ち、そこから敵と戦うのです。そして敵の投げるあらゆる火の矢に対して、イエスと同様に信仰の盾を持って、大胆に「聖書に・・・と書いてある」と、霊の剣である御言葉で攻撃するのです。
「いじめられッ子」には、しばしば、いじめられるに任せてしまう姿勢、すなわち受動性が見られますが、そうであってはなりません。私たちの敵も、声を上げない、おとなしい相手には、かえって過酷に責めるのです。大胆に声を出して敵に御言葉を浴びせましょう!その時、敵は逃げ去ります(ヤコブ4:6)。戦闘にあっては、たとえあらゆる近代兵器で武装していても、それを使わなかったらナンセンスです。武器は積極的に使う必要があり、また使い方に習熟する必要もあるのです。敵の攻撃を受動的に受けるに任せてはなりません。大胆に敵に「NO」とイエスの血と御名をもって宣言しましょう!悪魔に自分の運命を思い起こさせましょう!
私たちは意志を用いて、積極的に神の御旨を求め、積極的に祈りかつ求め、積極的に神の導きに従うのです。イエスですら地上におられた時には、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いを父に捧げたのです(ヘブル4:6)。祈りとはまず神との交わり/対話なのです。私たちもその過程において、自分の意志も徐々に聖霊の取り扱いを受けて、神の意志に一致するようになります。そしてついには私の意志と神の意志が凹凸のようにぴたりとはまる時―私は「信仰の瞬間」と呼んでいます―が訪れます。「私たちの内に願いを起こし、実現に至らせてくださるのは神である」とある通りです。
たとえその願いが自分の何かから出たものであっても、神はすべてをご存知であり、私たちの心を超えて大きなお方であることを信じて、その愛の取り扱いを受けましょう。願いが神によって一見拒否されてしまう時も、それは神の愛によるのです。願いが神によってそのままに受け入れられる時も、それは神の愛によるのです。神が私たちを取り扱ってくださる動機は、まず愛なのです。その愛を信じて、大胆に願い求めましょう!それは神へと栄光と賛美が帰され、私たちの喜びが満ち溢れるためです。そして父と私たちの愛はますます深くされるのです。