イエスの御名の力について
名前とは何でしょうか。例えば、今、あなたの家に「合衆国大統領クリントンから遣わされた使者です」と宣言する人が訪れたならば、あなたはどのように感じるでしょうか。「クリントン」の名前はいろいろなスキャンダルで、若干の傷があるとは言え、少なからず驚かれ、また慌て、緊張することと思います。
なぜでしょうか?名前の背後にはその名前を所有する人格(パースン)が存在し、その人格・地位に付与されている権威が存在するからです。その名前が署名されるならば、ただの紙切れに書かれた内容が批准され、法的な効力を発揮し、強制力を持つようになるからです。その名前は単に個人を指し示すラベル(記号)であるだけではなく、その個人と同一視され、その個人の人格と属性がすべてその名前に付与されるからです。
わたしはしばしば不思議に思うことがあります。実は、今、ビデオで映画「クオ・バディス(Quo
Vadis)」を観たところなのですが、悪名高いネロ皇帝の狂気の沙汰が描かれていました。このような皇帝を持った時代の人々は、クリスチャンだけでなく、みな多大な辛苦を舐めさせられたわけですが、そのような愚かで狂った皇帝であっても、「神聖なる皇帝ネロの名によって」と命じますと、たとえ理不尽なことであっても、人々は従わざるを得ないのです。
どうしてこのようなローマ帝国という偉大にして狂った国家が誕生し得たのでしょうか。いわゆる国家権力とはしばしばこのように、必ずしも優秀かつ高貴な人物ではなくても、そのポジションに納まるならば、ある種の権威を帯びることができます。ではこの権威とはどこに由来するのでしょうか。誰がそれを定義し、誰がそれを認知し、誰がそれに力を付与し、誰が(もちろん見かけ上は為政者ですが)それを行使するのでしょうか。私にとって、国家の成立ということは非常に不可思議な現象に思われるのです。
万物の存在の根源は、ありてある方(YHWH=I
AM)である神に由来することは論を待ちませんが、聖書には「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(ローマ13:1)とあり、また「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」(1ぺテロ2:13)とあります。すなわちこの世のいわゆる統治機構の根拠も神によるものと啓示しております。私は政治哲学などにはまったく疎いのですが、これがいわゆる「王権神授説」の根拠なのでしょうか。
すなわち創造の根源は神にあり、統治の根源も神にあるのです。よってその統治機構における地位・役職に付与されている権威も神によるものであると言えます。しかしながら残念ことに、その地位に納まる人物によって、その神が付与した権威を乱用し、その統治下にある者たちが多大な困難を味わさせられることがよく起きるのです。これが目に見える地上の王国あるいは国家での権威です。
これに対して目に見えない霊的王国も存在します。イエスは言われました、「わたしの王国は地上のものではない」と。またサタンも自分自身の闇の王国を持っています。この二つの王国においても、その統治者である神とサタンの付与したそれぞれの権威の系列が組織化されて存在しております。ただし、サタンは神に反逆しているとは言え、神の認知なしには何もできませんし(ヨブ記1章)、悪霊たちも神のことを恐れおののいているとあるように(ヤコブ2:19)、彼らも神の権威に服する者たちなのです。
闇の王国は、イエスの主権・統治を受け入れない者たちに対して、人間の思いの中へのサタンや悪霊の思いの投影と、囁きによる誘惑という手段によって、この世を支配し、地上において現在のような有り様を展開しているわけですが、それは人間の自由意志を神が犯せないことによるのであって、神の主権と統治は闇の王国にも及んでいるのです。
そしてこのイエスの御名とは、神の権威の系列の最上ランクに置かれており、したがって、アメリカにおいて大統領の名前が最高の権威を有するのと同様に、イエスの御名は神の国とサタンの国においても、同様の権威を有し、それに付与された効果を持っているのです。そして救いをもたらす効力はこのイエスの御名のみに付与されています(使徒4:12)。このイエスの御名のゆえに救いを求めるならば、ただちにイエスの血によって批准され、その御名に付与されている救いの効力を得ることができるのです。
しかしながら神は決してその権威の行使を強制される方ではありません。現在においては、神でさえも人間の自由意志を犯すことはできないのです。したがってイエスの御名に付与されたあらゆる権威を、私たちが信じて、自らの意志を用いて行使する場合にのみ、その効果に与ることができるのです。現在、地上において神の御国が目に見える形で表現されておらず、見かけ上、悲惨な状況であるのは、この人間の自由意志の問題が原因なのです。神は独裁者ではありませんから、決してその統治と支配を強制されません。サタンは恐れによってその支配を強制しますが、神は私たちが愛と信仰によって御旨に応じる分だけ、その統治を私たちの実際の経験として下さるのです。
私たちクリスチャンがイエスの御名によって、神に対しては祈り、願い、求め、サタンと悪霊、あるいは病や問題の山に対しては禁じまた命じ、人々に対しては御言葉を語り出す時、その内容はイエスの御名のゆえに、父なる神によって良しとされ、受け入れていただけ、その効力を発揮します。ですから私たちは、御父の御前に、裸で自分の名によって出るのではありません。イエスの血によって洗われ、イエスを着て、キリストにあって、イエスの名に基づいて、聖霊の油塗りに従いつつ、祈り、求め、願い、禁じ、命じ、語り出すのです(→「レーマの力について」参照)。
ここで認識すべき重要なことがあります。私はボディービルで若干の筋肉はついておりますが、それでも自分の力で走っている自動車を物理的に止めることはできません。しかし、私が警察官の征服を着て交差点に立ち、手を挙げるならば、車は必ず止まります。警察官に付与された権威のゆえです。ここで物理的「力」と「権威」の違いがとても重要になります。警察官には、車を止める物理的「力」はなくとも、車を止める「権威」はあるのです。
同様に、私たちは自分自身の力では決してサタンに対抗し得ません。自分にあってサタンに向かうことは、きわめて危険なことです。天使のかしらミカエルでさえ、サタンに対してはそれなりの敬意を払った態度で応じています(ユダ9節)。しかし私たちがキリストの内にある時、それはすなわちイエスという神の国の制服を着ていることであり、サタンを支配する権威を有するのです。ここでも鍵は「キリストにあって」です。
このポジションこそ宇宙の統治機構において、最も高い権威を有するポジションであるのです。いわば神の権威の行使を代理することだからです。イエスの御名にある力は、私たちの罪を赦し、病を癒し、敵を支配し、人々をキリストへの従順にもたらし、この地上において神の恵によって支配された御国をもたらす力なのです。
イエスの王国とは、個人の自由意志を尊重し、愛と恵みによって統治する王国です。現在、その王国はまず私たちクリスチャンの心のうちに誕生し、着実に育っているのです。そして現在、キリストのからだの地上における表現である教会を通して、目に見える形で部分的にこの世に証しされていますが、来るべき時代には完全なる形で現れるでしょう。
現在、私たちがイエスの権威に服するその度合に応じて、実際的にイエスの御名を行使することができます。私たち自身が神の国の統治機構に服することなくして、イエスの御名の権威を行使することはできません。「服すること」と「権威を帯びること」は、正確に正比例するのです。私たちが、イエスに私たちの心の御座に安息して着座していただいた分に応じて、私たちはキリストにあって得ている権威を実際的にかつ具体的に行使し得ます。イエスがますます私たちのうちで、そしてこの地上でその統治を拡大し、神の国の現れを得られますように。