誘惑の本質について



この世を見るならば邪悪と残虐と不潔と不正に満ちており、とても神がおられるとは思えません。よく人々は叫びます、「神がいるならば、何でこんなことが起きるのか。こんなことを許す神は呪われよ」と。そしてそのことをしばしば自分が神を信じない理由としています。確かに、これらの事柄が起ることを、なぜ神は許されるのでしょう。またそもそもこの世は何故こうであるのでしょう?これはヨブ記の中心テーマでもあります。

しかしながら、神ご自身が人類をそのような悪へと誘惑しているのではありません(ヤコブ1:13−15)。神にその責を帰するのは見当違いです。哲学者、社会学者、歴史学者、文化人類学者、心理学者、精神病理学者などは、それぞれの立場からそれぞの分析手法によって、それぞれの説明を与えるでしょうが、聖書で啓示している理由はただ一つ、人に罪があるからです。そして誘惑する者がいるのです。

アダムとエバはエデンの園で神との交わりの内を生きておりましたが、ヘビを通してサタンの誘惑の言葉に従って、神の命に逆らい、善悪を知る知識の木の実を食べて罪を犯し、神との交わりから切り離され、楽園を追放されました(→「堕落とは?」)。ここで全人類に罪が入り、その結果として死が支配するようになり、現在の有り様を展開しています。ここに見られるサタンの誘惑の本質は、彼の言葉に明確に表れています。その誘惑の言葉を詳細に分析してみたいと思いますが、その前に神の言葉を確認しましょう。
神であるは人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのままに食べてよい。しかし、善悪の知識のからは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:16、17)。

これに対してエバを誘惑する際のサタンの言葉とエバの応答は次のとおりです(創世記3:1−7):

蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」(1)

女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました(2)

そこで蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません(3)あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」(4)。

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く目に慕わしく賢くするというその木はいかにも好ましかった(5)それで、女はその実を取って食べ、いっしょにた夫にも与えたので、夫も食べた(6)

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った(7)

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した(8)

では、神の言葉、サタンの言葉、そしてエバの言葉を擦り合わせてみましょう。神は「どの木からも食べてよい」と言われました。これに対してサタンの問いは「神はどんな木からも食べてはならない、と神は言われたのですか」でした。ひじょうに狡猾な質問です。エバはついサタンの言葉を訂正したいという欲求を起されたのです。サタンはもちろん計算の上です。エバは「園の木の実を食べてよいのです」と応答したまでは良かったのですが、園の中央の木に関して、「神は食べてはならない、触れてもいけない、死ぬといけないからと言われた」と答えました。神は「触れてもいけない」とも「死ぬといけない」とも言われませんでした。神は「食べると死ぬ」と明言しています。

サタンの誘惑の第一歩は、神の言葉に問いかけをして、(1)私たちを彼との会話に引き込むことです。次に、(2)私たちに神の言葉に脚色を加えさせることです。そして最後に、「あなたがは死にません」と(3)直接に神の言葉を否定するのです。この段階ではすでに私たちはサタンの誘導尋問に乗せられていますから、サタンの言葉を否定することは困難です。しかも(4)すでに主なる神のように創造されていた人を、そうではないかのように、つまり不足があるかのように示唆し、神は何か良いものを出し惜しみしておられるかのような印象をエバに与え、実際エバがその木の実を(5)見ると、「食べるのに良く」、「目に慕わしく」、「賢くする木は好まし」く思えわれるのです(注)

(注)ヨハネはこの3要素を、それぞれ「肉の欲」、「目の欲」、「生活ぶりの誇り」と呼んでいます(→「堕落とは?」)。許された木々も食べるに良く、見るに良かったのですが、善悪を知る知識の木はさらに賢くするように「思えた」のです。

ここまで誘導されますと、私たちはサタンの誘惑からほとんど逃れられません。ついに(6)神の言葉を否定する行動に及ぶのです。ここに罪の行為が成立し、その結果は自分の裸を知って恥部を自家製の被いで覆うこと、すなわち(7)自意識取り繕いをもたらし、ついには神を恐れ(8)神から逃避するのです。そして人は神から分離されるならば、自分の肉、この世、そしてサタンに従うことを意味し、当然のことながら、その罪の結果であるありとあらゆる邪悪と悲惨に満ちるわけです。

サタンはまず私たちの肉体的欲求を利用して、罪へと誘います(肉の欲)。ここで重要な点は、肉体の各欲求自体には罪的要素はありません。食欲も性欲も自己保存欲も元々すべて神が備えて下さったものです。問題はこれらの欲求を、神の定めた方法ではなく、自己の方法によって、神から独立して満たそうとすることです。男性ならば、例えばストレスを解消するために、飲酒、喫煙、セックス、さらにはドラッグを用い、女性ならば、キッチン飲酒、衝動買い、過食、幼児虐待などに陥ることが多いわけです。

次に見栄えのするもの、すなわち自己の栄光となるもの、例えば富、地位、名誉、成功、評判などを追求するように誘います(目の欲)。そして最後に、神から離れて、自己のプライド、自己の存在証明、自己のアイデンティティーの確立などの追求へと誘います(生活ぶりの誇り)。これらは一見悪いことではないように見えますが、実はすべての動機が自己にある点で、第1種の罪よりもより狡猾な罪であると言えます。

この世の人はすべてこの3要素をその人生をかけて追求しているのです。その営為が社会を構成し、歴史として積み重ねられます。そこには人の罪が自ずと証明されるのです。なぜなら、よく観ると、私たちがこれらの事柄に埋没している間、自己追求に明け暮れ、実際上、私たちは神の言葉を否定し、したがって神のご人格自体も否定することになっているのです。言葉と人格(パースン)は切り離せません。

実は、神は私たちのこれらの3面の要素が適切に満たされる必要があることを十分にご存じです。肉体的欲求も神は満たして下さいます。人間としての尊厳を保つための繁栄も得させて下さいます。私たちのプライドやアイデンティティーも確立して下さるのです。そしてそれはすべて「キリストにあって」がキーワードになります。神を信じない人は、その不信仰の結果、神の配慮にお任せすることができないわけですから、「自己にあって」、自己の力で、自己の必要を満たすことを意味します。そこには神への信頼に基づいた神との麗しい交わりはなく、むしろ神の御旨を拒否し、ひいては神の言葉とご人格を否定しているわけです。

それに対して、神を信じる人は、その信仰の結果、神の配慮にお任せすることができ、「キリストにあって」、神の力で、自己の必要を満たしていただけるのです。そこには神への信頼に基づいた神との麗しい交わりが成立し、神の御旨に任せ、神の言葉とご人格を崇めることになるわけです。よって、誘惑の本質とは、個々の罪の行為へと私たちを誘うことにあるのではなく、この麗しい神との関係を破壊し、私たちを神の言葉ご人格を否定することへと誘うことなのです。

ヘブル書11:6には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いて下さる方であることを信じなければなりません」とあります。ここで「神がおられる」と訳されている言葉は、「存在するか、しないか」の「おられる」ではなく、神が神たる方であること、すなわち神のアイデンティティーそのものを意味します。出エジプト記で、神はご自身を、「わたしは『わたしはある』という者である(I AM WHAT I AM)」としてモーセに啓示されました。

ヨハネ福音書において、イエスもまた「アブラハムが生まれる前から『わたしはある(I AM)』」と言われ、また捕縛される夜、「ナザレ人イエスを」と問われ、「わたしはある(I AM)」(日本語では「それはわたしです」と訳されている)と答えられました。全宇宙を創造された神は、「わたしはある(I AM)」(あるいは「わたしはありてある者(I AM WHAT I AM)」)というお方なのです。神こそ究極の「AM=存在(ある)」なのです。

信仰とはその「存在(ある)」を認めることです(ヘブル11:1)。不信仰とはその「存在(ある)」を否定することです。そしてサタンの誘惑の本質は、第一義的には、私たちを何かの不正な行為へと誘うことではなく、その「存在(ある)」を否定することへと誘うことなのです。ですから、たとえ私たちの行為そのものが善にして合法であったとしても、その「存在(ある)」を認めず、否定するものであるならば、それは罪なのです!罪とはいわゆる「善と悪」の基準で判断されるべきではありません。アダムとエバは「善と悪」を知ることが罪であったのです。

よって聖書では「すべて信仰によらないものは罪である」(ローマ書14:23)と宣言します。信仰によらないとは「存在(ある)」である神ご自身を否定することだからです。サタンの最も喜ぶところは、私たちがその「存在(ある)」である方を否定することです。その方の御旨、その方の言葉、その方の配慮、その方の意志、その方の愛、その方の能力、そしてその方のアイデンティティーを否定することへと私たちを誘導することが、サタンの誘惑の本質です。

すなわち罪とは一つ一つの私たちの行為というよりは、「信じないこと」そのものなのです。個々の罪の行為はその結果(実)にすぎません。反対に義とは「信じること」そのものなのです。個々の義の行為はやはりその結果(実)なのです。もし私たちが、最初に、何か義の行為や善行を追求することに陥るならば、むしろそれはサタンが喜ぶことです。なぜなら、そうしようとすればするほど、私たちは自分や自分の行為に意識を置くことになり、その場合かえって自分の無力を覚え、ローマ書7章でパウロが証ししている果てしない葛藤に落ち込みます(→「罪とは?」)。

私たちが「信じない」のは、私たちが「自分のうちにある」時であり、「信じる」のは私たちが「キリストのうちにある」時です。言い換えますと、サタンの誘惑の本質とは、私たちをキリストではなく自分や自分の必要に意識を集中させ、私たちを「キリストにある」状態から「自己にある」状態へともたらすことです。そこでヘブル書の作者は「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)と勧めます。ここで英訳では「イエスから目を離さないでいなさい」は"look off to Jesus"となっています。すなわち、自分から目を離し(off)、イエスへと目を向ける(to)という二つの行為が暗示されているのです。視線・視点を向け変えることです。

イエスもエバと同様に3面からの誘惑を受けました(ルカ4章)。「石のパンの誘惑」は「食べるによい」に相当し、それは肉体の欲求を神から独立して満たす罪への誘いです(肉の欲)。「この世の栄華」は「目に慕わしく」に相当し、神から独立して繁栄や栄華を得る罪への誘いです(目の欲)。「飛び降りる」は「賢くする」に相当し、神の子としてのイエスのプライドを証明し膨らます罪への誘いです(生活ぶりの誇り)。イエスはエバが受けたこの3面からの誘惑に対して、サタンと一切の会話を拒否され、直ちに適切な御言葉を取り、「聖書に・・・と書いてある」と応じ、すべて拒絶しました。神の言葉に何らの脚色も、解釈も加えず、そのままの御言葉をサタンにぶつけたのです。

イエスは肉体をもつ人間、さらには男性として(ヘブル2:14-18)、私たちとあらゆる面でまったく同様の誘惑を受けられましたが、しかし罪を犯されませんでした(ヘブル4:15)。よっていかなる領域においても、誘惑を受けること自体は罪ではありません。その誘惑に対して、私たちが「キリストにあって」得ているカルバリでの勝利を信じることをせず、それに屈する時、私たちは自分の欲求や必要を満たすためのある種の行為へと走ります。それが罪です。ここで私たちはイエスと同様のスタンスを取って、神に自分をお委ねし、悪魔に抵抗し、悪魔に対してカルバリの勝利を宣言する必要があるのです(→「霊的戦いについて」)。

自転車を乗り出した頃のように、はじめは何度も何度もころびますし、傷も絶えませんが、訓練をつむうちに、意識せずとも自転車を乗り回すことができるように、無意識のうちにそのことができるようになります。もちろん、時々にはころびます。しかしまた起きればよいのです。まして私たちにはイエスの血が用意されており、神は真実な方であって、私たちが罪を告白するならば、必ず赦し、清めて下さる方なのです(1ヨハネ1:9)。また天には御父の右でイエスが大祭司として、また弁護士として、私たちをサタンの中傷と告訴から弁護していて下さるのです(1ヨハネ2:1)。さらに、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです、と言われています(1ヨハネ3:19−20)。

ハレルヤ!これほどの備えがあるならば、私たちには何か不足するものがあるでしょうか?NEVER, NOTHING! 私たちにはあらゆる領域で神の備えがなされ、キリストにあってすでに祝福され、豊かなものとされているのです(エペソ1:3)。それらをますます信仰によって自分のものとしていきましょう!


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