意志の領域について
私は、今、運転免許の点数がちょっと危なくなっています。昨年の12月、立て続けにごくごく些細な違反、一つは黄色で飛び込もうとした信号が赤になり、運悪く停止した白バイを追い抜いてしまったためにマイナス2点、もう一つは20分間の駐車違反でマイナス2点、よって免停まであと2点となったわけです。言い訳するつもりはないのですが、免許を取って22年になりますが、その間の違反はそれまでは3回でしたから、今回の危機ははじめて迎えるものです。実は若いころはかなりの自信家にして飛ばし屋で、常磐道などは150kmでよく走ったりもしたのですが、その頃つかまることはほとんどありませんでした。
最近は歳も取りましたので、自然と速度が出せなくなり、ほとんど80kmの安全走行に心がけているのですが、むしろこのような時にちょっとしたことで捕まるのです。当然のことながら、レッカー代も含めた高い罰金に、「なぜだ〜!」と憤慨しましたが、どうしようもありません。そして自分の軽率さをつらつらと反省するのですが、その時、はっと気が付くことがありました。それは"意志の領域"の問題です。私はなぜ軽微な違反で罰金を払わされるのでしょう。それは年末の特別取り締まりの時期にあって、その意志を持っている人の管轄する領域に入り込んで、その意志に触れる振る舞いをしてしまったからです。
私たちはこの世において様々のレベルの共同体に属し、その中の人間関係において複雑に入り組んだネットワークの中に置かれております。会社であればその職種と地位に従って、自分の上と下と横とに人間関係のネットが張り巡らされており、そのネットワークの上に"誰かの意志"が走っているわけです。中間管理職の方々はこのネットワークの微妙な点(ノード)に置かれているために、そこに集約される複数の"誰かの意志"がしばしば互いに矛盾するものであったりして、葛藤を経験することになります。自分のネットワークにおける位置を適切に把握し、そこに集約される複数の"誰かの意志"を正確に把握して調整し、それぞれの期待に適切に応えるならば、いわゆるビジネスがうまく回るわけです。誰の意志を優先し、誰の意志を後にするか、またどのような形でその意志に応答するか、あるいはしないか、この辺りの調整能力(政治能力)が出世の鍵になるわけです。
すなわち局所的に見るならば、自分が置かれているネットワークにおける"誰かの意志"の流れによって、私たちの運命は決定してしまうと言えます。もちろん組織の上部に行けば、自分の下部のネットワークに"自分の意志"を思いのままに流すことができるようになるわけですが、これができる人々はピラミッド構造のごく上部の少数です。この辺でいわゆる"宮仕え"の悲哀を覚えることになるわけです。私たちは人生の各段階において、時々のネットワークのうちに置かれ、そのポジションに応じてそこに集まる"誰かの意志"によって日々の歩みが左右され、その応答の積み重ねが実績あるいは経歴として刻まれます。こう考えると、自分の人生は自分の自由意志で勝ち取ったとはとても言えなくなり、自分の人生が誰かの恣意で決定されるなど考えると、いかに人生の基盤がはかないものであると思わざる得なくなります。よってある時には上司を恨んだり、同僚を妬んだりなどの組織に対する応答が出ることにもなります。私たちの人生は何とはかないものの上に置かれていることでしょうか。
ところで聖書では「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(ローマ13:1−2)とあります。ここでしばしばクリスチャンは葛藤を覚えます:「自分の現在の上司が神によるとはとても思えない。あんな人格も能力も低い人物になぜ服する必要があるのか」と。あるいはある良心的な人々は、神の言葉どおりにそれを実行しようと努力しますが、神の言葉に従おうとすればするほど、内的には苦しさがつのる経験をすることになります。サタンはしばしばそのような私たちの内的状況につけ込んで、その上司を通して攻撃を加えてくることもあります。このようなときには、とてもではないが神の御旨が全うされているとは思えず、むしろサタンの意志に翻弄されているかのような絶望感すら覚えるのです。神はなぜこのような過酷な重荷を負わせるのだろうか・・・と。実はこのような精神状態に陥っている時には、霊的な視野狭窄を起こしております。確かにその時点、その状況においては、敵の意志が成就しているかのように見えます。私が年末取締りの意志を持っているお巡りさんの意志の領域に飛び込んでしまったのと同様です。
しかしながら主は次のように言われます:「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。−主のみ告げ。−それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)。私たちの目先の"誰かの意志"は、見かけ上、私たちに対して悪意や嫉みや悪巧みやその類のものであったとしても、それは神の大きな意志の中で許されていることです。実はその"誰かの意志"もその時には私たちにとって好ましく感じられなくても、神の大きな意志の中で益となるために配剤されています(ローマ8:28)。私たちの毎日の生活はそのような"誰かの意志"との連続的な対決であるかもしれません。しかしそれは神の大きな意志の中で許されていることです。神はすべてを計り与えてくださり、私たちが耐えられないような試練に合わせる事はなさいませんし、しかも逃れる道も備えて下さいます(1コリント10:13)。目先に降りかかる"誰かの意志"によって私たちは悩み葛藤します。しかしそれらに驚いてはならないとあります(1ペテロ4:12)。それらの"誰かの意志"の領域は小さいものであり、しかも一時的なものです。神の意志の領域こそが宇宙を満たしており、永遠に存続します。
目先の運命に振り回されるような時、あるいは目先の"誰かの意志"に服さざるを得ない時、私たちはただ振り回されるのでもなく、あるいはただ律法的に服するのではなく、その目先の意志を越えたところに神の永遠の意志があることを信じつつそうするのです。上にある権威に服することも、単に儒教的な倫理観でするのではなく、神の意志がその背後にあることを信じるからそうするのです。根底には神に対する信仰があるべきです。もし信じることなしに形式的にそうしても、それは罪です。なぜなら「信仰によらないことはすべて罪である」とあります(ローマ14:23)。逆にあらゆる目先の"誰かの意志"にもかかわらず、私たちはもっと大きな神の意志の中にすでに置かれていることを信じるとき、その目先の意志は何ら障害とはなりません。あたかもジグソーパズルを組み立てるように、それらの意志は一つ一つのピースに過ぎません。そのピースが徐々にはめ込まれていく時に、一枚の大きな絵が見えるのです。これが神の永遠の意志です。
私たちはすでに暗闇の圧制から救い出され、御子イエスのご支配の下に移されています(コロサイ1:13)。私たちは神の大いなる祝福の意志の中にすでに置かれております。私たちは"主の祈り"をよく知っております。「あなたの御心が天においてなるごとく、地にもなさせたまえ」とあります。この祈りを祈るとき、果たして私たちは本当に信じつつ祈っているでしょうか。あるいは本当にその実現を心から願いつつ祈っているでしょうか。私は告白しますが、自分の場合、ともすると形式に流れる傾向があります。何だか目先を見るときに、無駄な祈りかのように感じることがあるのです。あまりも抽象的で、捕らえどころがない印象を覚えるのです。しかしながら、私たちはこの"意志の領域"の問題を知るとき、私たちは心の奥底から、父よ、あなたの御旨がなりますように、と祈り出します。
目先、敵の意志が跋扈しているこの地において、神の意志の領域を勝ち取って拡大して行くことが私たちの伝道であり、使命です。神の意志に逆らって立つあらゆる思惑・意図・計画がサタンの要塞として築かれているこの世において、私たちは大胆に神の意志を宣言し、それらを粉砕しつつ、すべての意志をキリストに従順になさしめるのです。それは肉の戦いではありません。霊の戦いです(2コリ10:4,5)。それはまず私の内的な神の意志の実現を求めることから始まります。私がまずその意志に服すること、これはすなわち私のうちでイエスが安息の内に座に着かれ、私のうちでイエスの支配の領域が拡大し、私のうちで恵みの領域が拡大することに他なりません。私の内で平安と安息が得られていない部分は依然として敵の手にあり、イエスがそこに座を設けておられないのです。その部分に神の意志が全うされていないのです。まずその領域を信仰によって解き放ちましょう。イエスに安息して座についていただきましょう。その時そこに神の意志が働きます。するとその部分も恵みの領域に加えられるのです。霊的なナチスの占領地を霊的な神の連合軍として解放しましょう。
私たちの内から始まったその解放は徐々に外側に拡大します。サタンが支配しているこの地上の一つ一つの領域を神へと解放して行くのです。恵みの領域を勝ち取って行くのです。これが私たちの伝道です。伝道とは単に自分の属する教会の会員数を増やすことではありません。イエスの支配、神の意志の実現がなされる領域を広げるのです。こうして私たちは大いなる神の意志の内に安息するのです。目先の人の意志や状況に安息しようとすることは、まさに砂の上に家を建てることであり、敵の狡猾な罠であり、嵐が来ればそれは容易に覆されます。神の意志こそ永遠に固く立つのです。神の意志こそ真に自分と自分の人生すべてを委ねることができる、まことの礎です。あらゆる他の意志は神の意志に服するべきです。今こそ、全地を従わせよ!