サタンの要塞について



私たちの戦いの武器は、肉の物からでなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりことしてキリストに服従させ(Uコリント10:4)。

ここにある「要塞」とは軍事用語ですが、これは私たち個人レベルで、またこの世のレベルで繰り広げられている神とサタンのせめぎ合いを象徴しています。私たちの内には、神を知らない時代にこの世を生き延びるために身につけた諸々の価値観とか手練手管が装備されており、神から独立して判断したり行動したりするパターンを「」と呼ぶことはすでに述べました。サタンの「要塞」と言った場合は、さらにサタンが積極的に用いて、あらゆる神の知識と知恵、すなわち御言葉を無にしようと企てる拠点であり、そこから私たちの信仰を破壊し、御霊の働きを無効にしようと企てるのです。

私たちは時に御言葉を受けても、それが自分とは無関係であると感じたり、何か無力感や絶望感を覚えたり、あるいはそれを否定したいという内的衝動に刈られたりすることがあります。また何も原因がないのに恐れや不安を覚えたりすることもあります。自分は確かにクリスチャンであるのに、どこからそのような反応が生じるのでしょうか。特に幼児期に虐待を受けたり、レイプの経験があったり、あるいはカルトで聖書の言葉を使って心に傷を受けたりした経験を持っている人では、そのような反応が顕著になります。あるいはある特定の領域で、どうしても信仰を持てず、そこに誘惑が来るとどうしても負けてしまうとか、信仰が崩されてしまうとかの経験を多くのクリスチャンが持っているはずです。どうしてこういった事態になるのでしょうか。それは私たちの内に築かれたサタンの「要塞」のためです。

私たちは神を知らない時期において様々なこの世の価値観に曝され、自分の力で処世術を編み出し、自分の手練手管で生き抜いてきました。そして事がうまく運ぶならば、自分の功績として誇り高ぶり、事がうまく行かない時は時に自分を責め、あるいは他人を責めて、落ち込んだりしてきました。私たちの思いの内には、意識的にせよ、無意識的にせよ、これらの神の知識と知恵に対立するもろもろの思想や価値観がくもの巣のようにネットワーク状に構成されているのです。あるいは諸々の人間関係において、様々の情緒的経験に曝され、私たちの感情あるいは情緒は多かれ少なかれ傷ついております。時にはショッキングな事件に曝露された結果、それがトラウマ(精神的外傷)になっていることもあります。このような傷が、時として、ある場面でフラッシュバックして、自分では抑えがたい情緒的な混乱や不安・恐怖などを惹起することがあるのです。人によっては発作となることもあります。

私たちクリスチャンはすでにキリストにあって完全なる「新しい人」を得ているのですが、私たちの大脳にはこのような諸々の「古い人」とその経験の痕跡が残っているために、その「新しい人」が十分に機能を発揮できないことはすでに述べました(→「罪とは」および「肉について」参照)。サタンはこのような私たちの「古い人」やその経験の痕跡を積極的に利用し、そこを私たちに対する攻撃の拠点としているのです。これがサタンの「要塞」です。いわんや、霊の再生を得ておらず、聖霊の内住に与っていないノンクリスチャンであれば、なおのことであるのです。彼らはそのような「要塞」の存在すら気づかずに、ただそこを拠点に攻めてくるサタンの攻撃や誘惑に無防備に曝されているだけです。

このような「要塞」をもった個人がコミュニティーを構成しますと、社会レベルでサタンの「要塞」が設営されます。例えば、歌舞伎町に行けば、そこにはある種の異様な雰囲気が満ちていることが分かります。ここにはありとあらゆる肉欲と不潔を許容するサタンの「要塞」が設営されています。また東京の下町に行けば、そこには善男善女が暮らしておりますが、XX学会などが普及している結果、福音を排除しようとする勢力の存在を感知します。ここには福音を排除するサタンの「要塞」が設営されています。またインテリ層の中にあっては、福音を何か幼稚なものと評価し、御言葉をおとしめる勢力を感じます。自らの知性と知恵によって高ぶり、神の知識と知恵を排除するサタンの「要塞」の存在を知ります。一言で言って、サタンの「要塞」とは、個人レベルにおいても、社会レベルにおいても、神の福音を排除し、御言葉に対立し、神の知識と知恵を貶める勢力の集積点であると言えます(注)

(注)フロイドの精神分析では、このような感情と観念が複合して無意識化されたものを「感情観念複合体(Complex)」と呼びますが、実は感情と観念だけではなく、霊との複合体になっているのです。現代精神医学では、肉体と精神の関わりまでは論じられていますが、霊的要因についてはまったく考慮されていません(→「コロラド州の事件に思う」参照)。すなわち聖書の「要塞」とは「霊-感情観念複合体」と言えます。マルクスにしても、フロイドにしても、ユダヤ人であって、その思想の着想は聖書に由来するのです。

このような「要塞」に対抗して、私たちクリスチャンはどのように対処すべきでしょうか。まず個人レベルにおいて、このサタンの「要塞」を取り扱うポイントは次の4点です。1)聖霊によって自らの内にあるサタンの「要塞」の存在を照明していただくこと。2)悔い改めをもって十字架に来ること。3)聖霊によってその暗い部分に光と力を送っていただくこと。4)カルバリで獲得された十字架のイエスの勝利に堅く立つこと。

1)において大事な点は、決して内向的になって、自分で自分の内側を探索するのではありません。自分の内を見るならば、それは「古い人」の痕跡が満ちているばかりでしょう。むしろ「要塞」の存在は自分にとっては盲点となる部分であり、自分では見出し得ません。それはただ聖霊の照明によるのです。そして私たちの側には誠実さが要求されます。人は自分の真実に直面することは避けようとする傾向があるからです。聖霊の照明がある時、私たちは自ずと自らの無力に気がついて、悔い改めをもって十字架に行くしかすべがなくなります。そして新たに心を開いて、御言葉を通して聖霊の光と力を受けることができるのです。

そして最も大事な点は、敵に対して、私たちが自分で勝利を得るのではなくすでに勝利はカルバリにおいて得られているという客観的な事実に堅く立つことです。自分で勝利を得ようとするならば、私たちは葛藤に陥り、むしろ敵の思うが侭にされるでしょう。すでに勝利は得られています。私たちは自分で戦わずして勝利者なのです!

私たちの内なる「要塞」が粉砕されるのは、聖霊の照明と御言葉の真理によるのです。イエスは言われました:真理はあなたがたを自由にします・・・もし子があなたがたを自由にするならば、あなたがたは本当に自由なのです」(ヨハネ8:32,36)。私たちの内の「要塞」とはいわば、真理の光が届いていない部分です。それは時に私たち自身がそれを守っていたり、神に触れられることを恐れていたり、あるいは時に自分の享楽のために保留していたりする領域です。サタンとその手下どもはそのような暗闇を好みます。しかるに光は闇を駆逐するのです(ヨハネ1:5)。光の照らされている所にサタンが働く余地はないのです。

このようにして私たちの内の敵の「要塞」、あるいは敵の拠点とされている内的領域を一つ一つと解放して行く事によって、私たちの内的自由は拡大し、以前は闇の中に閉ざされていた一つ一つの領域は、神の光を浴びて恵みの領域へと変えられるのです。その解放がなされる戦場は私たちの思い(mind)です(→「霊的戦いについて」参照)。解放戦線が張られている間、敵はありとあらゆる火の矢を私たちの思いの内に放って来るでしょう。

しかし十字架を思い起こし、十字架のイエスを思い、信仰によって血と御言葉を用いてイエスの勝利の中に立ち続けましょう。サタンの「要塞」が粉砕されるならば、すべての思いをキリストの捕虜とすることができます。実は、私たちはすでにキリストの思いを持っているのです(Tコリント2:16)。私たちの思いの各領域は、すべて神の価値観および神の知恵と知識で満たされて行くのです。このようにしてキリストへともたらす領域を拡大して行くのです。かつて敵に占拠されていた領地を、キリストにあって神の領地へと解放して行くのです(ローマ12:2では思いのトランスフォーメーションと呼ぶ)。

この時私たちを通して外側へと福音も拡大し、この世においてサタンに占拠された領域も聖霊によって解放されて、神のものとされます。個人レベルの解放からコミュニティーレベルの解放へと、神の領地、神の御国が拡大していくのです!その領地はすべてキリストのものであり、その血に塗られ、聖霊の証印が押されているのです!ハレルヤ!


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