聖霊のバプテスマについて
このテーマについてもクリスチャンの間で
癒し
や
異言
の場合とまったく同様の事態になっております。「
バプテスマ
」とは「
浸し込む
」という意味を持ちます。未信者がキリストを信じて受け入れるならば彼は救いを受けますが、さらに進んでこの世から分離され、古い自己に死に、キリストと共なる死と復活に与かり、キリストの体に入れられることことを象徴するいわゆる
水のバプテスマ
を受けます。普通はカトリックの影響によりこれを「洗礼」と言いますが、聖書の元々の意味は「水の中に浸し込むこと」です。こうして信じた者がキリストの体なる
教会
の一肢体とされるわけです。
さて、このような水によるバプテスマの後、実は信じて求めるならば、
聖霊のバプテスマ
を得ることができます。
これは主にこの世において強い証しをしたり、大胆な働きをするために聖霊による力づけを得るためですが、聖霊は御自身の強力な御臨在をもって、私たちの体・魂・霊を満たしてくださいます。
この時人によってさまざまな反応が出ますが、私の場合はいきなり聖霊が臨まれて、内側が天的な甘さ、平安、安息で満たされ、心のひび割れた部分に甘い油が塗られていくような恍惚感が1時間でしょうか、2時間でしょうか、続きました(時間を忘れていました)。その経験の後、自分は確かに救われたという確信が強くなり、人々に対しても大胆に証しできるようになりました。
ただしここで大切なのは、
聖霊のバプテスマ
もあくまでも
信仰
によって得られるものであり、その時の経験は人によってまったく異なるものであるということです。何かの超自然的な現象やしるしを伴うこともありますし、何も起きないあるいは感じられないこともあります。それ自体を最初に求めるならば、癒しの場合と同様に失望に終わるでしょう。
この時のポイントもやはり信じるか否か、にあるのです。
ある人は聖霊のバプテスマを受けないで終わるかも知れません。それは彼が信じて求めなかったからです。しかしだからと言ってその人が救いに与かってないとは言えません。救いを得る条件はただイエスを信じることにあるからです。
クリスチャンであれば誰でも内住の御霊を得ております。
これはいのちとして御霊を得る経験であり、キリストと結合されて、その死と復活に与ることです。
御霊から生まれる経験、
再生
の経験と言えます。私はこの面での御霊の満たしを、「
本質的満たし
」と言います。これに対して聖霊のバプテスマは働きのための満たしであって、これを「
機能的満たし
」と言っています(→「
士師たち
」「
御霊と人のかかわりについて
」を参照)。この2面の満たしを区別しないと、「聖霊のバプテスマを受けていなければ救われていない」などとなってしまい、多くの人々を混乱に落ち込ませます。
例えば使徒行伝において、「御霊に満たされて」という言葉が頻出しますが、場面に応じてギリシャ語が使い分けられています。
その人の内面性とか徳性に言及したり、内面的経験を言う場面では
pleroo
が用いられています
(「内的に満たされる」の意。使徒行伝6:3,5、7:54、11:24、13:51など)。一方、
力の証し、対決の場面、しるしと不思議など外面的経験に言及する場面では
pletho
が用いられています
(「外的に満たされる」の意。使徒行伝2:4、4:84:31、9:17、13:9など)。
イエスは復活した週の初めの日にすでに弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言われました。その50日後のペンテコステの日に力を与えるとの父の約束の成就として聖霊が下りました。前者はいわばシークレットな形での「
いのちの吹き込み
」であり、後者はパブリックな形での「
力の付与
」と言えます。いのちを得ることによる私たちの救いもいわば個人レベルでのシークレットな性質を帯びており、一方御国のために証しし、働くことはパブリックな面です。
御霊による「内的満たし」と「外的満たし」を得て、私たちは神の国のために十分なる備えを得ることができるのです。
(C)唐沢治