士師たち

−自分の道を行く末路−




1.人物像



ヨシュアによるカナン征服によって、イスラエル12部族は一応の定住の地を得ましたが、統一王国としての国家は形成されておらず、王もまだいませんでした。この B.C.1300-1100 の約200年間に世代交代も進み、モーセ、ヨシュアによって受け継がれた主に対する忠誠の霊は萎え、人々の心は弛緩し、士気も落ちていました。すべての敵を聖絶し、現地の民族と聖別されよ、とする神の命に従わず、先住民を残しておいたために、彼らの神を礼拝して霊的不純に落ちたり、各地におけるゲリラ戦の形で紛争が繰り返されます。しかしそれは彼らの不従順に対する神の取り扱いのひとつであり、神は人の失敗をも、彼らを洗練するために用いられます(3章1節)。

その困難の中から民が叫び声を挙げると、神は特別の神の御霊の臨在によって士師と呼ばれる人々を立て、イスラエルを敵から救い、また治めました。しかししばらくする再び不従順に落ち・・・というパタンが繰り返されました。彼らはオエテニエルエフデシャムガルデボラ(女)とバラクギデオントラヤイルエフタイブツァンエロンアブドンサムソンの12人です。彼らの指導は局地的なものであり、長期的な国家的ビジョンも欠け、しばしば個人的にはサムソンのように人格上の問題を抱えておりました。



2.主なエピソードとその霊的意義



2.1.ギデオン(伐採者の意)

物 語

ギデオン協会でよく知られている名前ですが、民がミデアン人によって圧迫されている時代、主によって召されます。しかし彼は「私には民を救うなどはできません。自分はマナセ族の中で最も弱く、家の中でも一番年下です」(6:15)といって躊躇します。すると主は「わたしが共にいるからミデアン人を容易に打てる」と励ますと、彼は「では証拠を見せて下さい」と求めます。すると岩から火が出て肉を焼き尽くす徴がなされ、ギデオンは「主の使いを見てしまったから、自分は死ぬ」と言って恐れます。しかし主は死ぬことはないと言われ、ついに彼の上には御霊が臨み、ミデアン人とアマレク人の連合軍に立ち向かうことになります。

その際もキデオンは主の御旨を確かめるために、地面に羊の毛を置き、「翌朝、地面は乾いたままで毛だけを濡らして下さい」と主に求めますと、果たしてその通りになります。次の日今度は逆にすることを主に求めますと、果たしてその通りになりました。こうして主の御旨を確信したギデオンは精鋭300人なる軍隊を構成します。この軍隊は当初3万人強もいたのですが、主は「人数が多いと自分たちの力で勝ったと思うといけない」として、テストによって選られた軍隊でした。そして戦いに勝利した後イスラエルの民はギデオンに向かって、「自分たちを治めてください」と頼みますが、ギデオンは「私も私の子孫もあなたがたを治めない、あなた方を治めるのは主である」として拒みます。彼は40年の間、民を指導しました。


霊的意義

ギデオンの召命はどこかモーセと似ていますし、後の預言者エレミヤの召命とも似ています。しばしば神の召命はこのようなものです。「主のために自分は命をも捨てる!」と宣言したペテロは無残にも失敗したように、人の血肉は神の御用のために何の役にも立ちません。神が立てる器はしばしば自分にあっては弱いことを自覚している人物です。ここで主は「私が共にいるから勝てる」との約束を与えますが、ギデオンはその証拠を求めます。神の言葉がすでにあるのですから、そのまま従うべきなのですが、神は私たちがご自身の御旨を確認することを許されます。ギデオンの求めは決して神を試みることや不信仰ではありません。

私たちも御霊によって御言葉を受ける時、その神の御旨を自分の環境や周りの人々を通して確証することができます。それが神の御旨であるならば、それらを通しても同じように、そのことを明確に確証して下さるのです。私たちは、@御霊の内的証し、A御言葉、B(周囲の人々を含めた)環境―の3つの要素を通して、神の御旨を明かに知ることができます。もし確信が得られなかったら、神に大胆に求めて下さい。

またギデオンは人数を頼りとしないための精鋭部隊を編成します。神は私たちが何かを自分でなし得ることを喜ばれません。神の業は、神の御旨に従って、神の時に、神の方法でなされるべきなのです。これはひとえに神に栄光が帰されるためです。私たちも神の精鋭部隊として選ばれるように、日ごとの備えが必要とされます。しばしば人は目に見える者を頼りとするものです。イスラエルがギデオンに指導者となることを求めた動機も同じでした。このときのギデオンの言葉「あなたがたを治めるのは主である」は素晴らしい信仰告白です。

今日においてもクリスチャンたちですら、あちらの聖会、こちらの先生、何とかミニストリ―、何とかセラピー、何とかカウンセリング・・・と右往左往しています。このようなミニストリ―・オリエンテドな姿勢は、実は主に対する不信仰の証明です。私たちの内にはすでに御霊がおられ、あらゆることを油塗りによって教えて下さることを忘れるべきではありません(1ヨハネ2:27)。士師たちには御霊は上から臨みましたが、私たちには内に住んでいて下さるのです。旧約においてはこのようにある機能・召命・使命のために、ある特別の人々の上に御霊は臨まれましたが、現在新約にある私たちには、信じる者であればすべてその内に御霊は内住して下さるのです。しかも旧約では不従順によって御霊は離れ去ることもありましたが、新約では新しい契約の手付金また担保として永遠に内住して下さるのです(エペソ1:13,14)。



2.2.サムソン(太陽の子、破壊的な者の意)


物 語

ハリウッドの往年の肉体派スター、ビクター・マチュアの映画『サムソンとデリラ』で有名です。サムソンはダン族のマノアの不妊の妻に与えられたマッチョでした。彼は誕生の前からナジル人として聖別され、祝福されて育ちました。ある日主の御霊が彼の上に臨み、彼を奮い立たせます。彼は信仰によってペリシテ人との戦いにおいて功績を上げ、英雄とみなされております(へブル11:32)。しかしながら彼の性格には粗暴性と女性に対する弱さがあり、結局は女性によって身を持ち崩すことになります。

彼の妻デリラ(弱くするの意)はペリシテ人からサムソンの力の秘密を探り出すように賄賂を受け取ります。その知性と美貌と姦計によって、サムソンからその秘密を探り出そうとしますが、サムソンも3回彼女を騙します。しかし毎日デリラはサムソンに訴える内に、サムソンはつらくなり、ついに心の内をすべてさらけ出し、その力はナジル人としての彼の髪の毛にあることをを明かしてしまいました(16:17)。

デリラは自分の膝に寝かしたサムソンの毛をペリシテ人にそり落とさせ、力を失った彼は目をえぐられて、ガザに連行され、臼を引く重労働に着かせられました。しかしその間も髪の毛は徐々に伸びておりました。ある日ダゴンの神の神殿に引き出されて見世物にされたサムソンは、すでに髪の毛も伸びており、その怪力によってダゴンの神殿の柱を倒し、ペリシテ人もろともに崩壊した神殿の中に消えました。彼は結局20年の間イスラエルをさばきました。

その後イスラエルは自分の家の御利益を目的とした勝手な祭司を設けたり、ベニヤミン族の蛮行をめぐって部族間の抗争などが起こり、状況はますます下る一方となりました。


霊的意義

サムソンはナジル人として聖別され、祝福され、その上には御霊が下っていたにもかかわらず、その行動は粗暴であり、女性に対する弱さを持っておりました。そのような私たちの肉の弱さはつけ込みます。私たちは多かれ少なかれ、ある領域において弱点を持っています。このゆえにサムソンは「心の内を明かしてしまう」のですが、私たちもしばしば自分の心を人に対して明かすことによってトラブルにみまわれます。私たちが完全に心を注ぎ出す対象は神ご自身のみです。

サムソンは御霊を受けていたのですが、ある意味で彼の転帰が旧約における御霊の満たしの特徴でもあります。先述した通り、旧約においては御霊は特別の使命のために特別の人々の上に臨んだのですが、それは機能的な性質を帯びていました。それに対して私たち新約の者たちには、御霊は内住して下さり、人格的ないのちの交わりを持って下さるのです。

このある特定の使命・働きのための上からの、あるいは外側の御霊の満たし(機能的満たし)と、信じる者たちに与えられるいのちとしての御霊の内住(本質的満たし)を区別する必要があります。「御霊の満たし」というと、使徒行伝2章のいわゆる聖霊のバプテスマを思いますが、実はこのペンテコステの日以前の、復活の週の最初の日に、すでにイエスは弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ、罪を赦す権威を与えます」と言っておられます(ヨハネ20:22)。これは信じる者たちの罪を赦し、その内にいのちを吹き込むための聖霊の内なる満たしです(ヨハネ7:38,39)。ペンテコステの日の聖霊の満たしは、力としての満たしであって、弟子たちは聖霊の内住を受けた後も、父の約束である上からの力を得るまではエルサレムにとどまれと命じられていましたが(ルカ24:49)、その成就であったのです。いのちのための聖霊の満たしと、働きのための力としての聖霊の満たしを区別する必要があります。(二種の御霊の満たしについてはこちらこちらを参照して下さい)。

サムソンの場合は、このいのちとしての聖霊の内住を得ていなかったために、御霊の臨在によって奮い立っても、その人格上の問題は依然そのままでした。それが彼の運命を決定付けたのです。しかし私たちは内なるいのちとしての聖霊の内住を得ていますから、私たちの人格もイエスの人格を帯びるようになります。旧約の聖徒たちはその信仰のゆえに義とされ賞賛はされても、約束のものを受けることはなかったのですが、私たちはそれを得たのです(へブル11:39,40)。

しかしながら現在においては御霊の現われと称して様々な奇跡や徴、さらにパフォーマンスを追及するときに、人々が獣のように地を笑い転げながら、のた打ち回るなどの現象も現れています。それが御霊に満たされたことの証拠かのように喧伝されていますが、御霊は""霊ですから、聖なる御性質に反する現われはなさいません。目に見えるところを求めるならば、容易に欺かれます。内住のいのちとしての御霊の満たしがもっともっと強調され、励まされるべきでしょう。



3.神の全計画における意義



約束の良き地に定住することにより、神はメシアを地上に遣わすための地盤を着々と得られました。アブラハムの子孫として、彼らはこの地上のすべての民のために、「女のすえ」としての救い主をもたらし、はぐくむために用意された民でした(創世記12:3)。また彼らの上に御霊を通して働かれる神の御手を見ることによって、全人類に対する神の御旨を知ることができます。このカナンの地におけるイスラエルの生き様を見るときに、新約における私たちも、自分が神といかなる関係を得ているかを鏡のように見ることができます。彼らのあり方は私たちの姿の反映でもあるのです。この士師記は12人の士師たちの働きにもかかわらず、「そのころイスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと思うことを行っていた」(21:25)という言葉で終わっています。

「自分の目に正しいと思うこと」を行うことは禍です。私たちも霊的無気力状態に陥るときにしばしばそのようになります。黙示録3章においても主は「ラオデキアの教会」にそのような警鐘を鳴らしています。ラオデキアの意味はこちらを参照していただきたいと思いますが、それはまさに士師記の民の霊的状態と同一です。このような状態に対して、神はご自分の言葉を語り込む預言者を起こされるのです。私たちも安住の地を得て、霊的にたるみ、士気が落ちるとき、まさにそのような時にこそ神の御言葉を聞く必要があります。萎えていた霊を生かすのは、神の言葉であり、霊なのです。「自分の道を行くのか、神の道を行くか」、あるいは「自分を主とするのか、主を主とするのか」、私たちは絶えずこの二者択一に答える必要があるのです。"Going My Way"を否み、"Going His Way"へ、これがいのちの道です。
心を尽くしてに拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行くところどこにおいてもを認めよ、そうすれば、はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵ある者と思うな。を恐れて、悪から離れよ(箴言3:5―7)。

mbao_a03.gif