(注1)禅ではこのように意識の中で「善か悪か」、「右か左か」、「苦か楽か」という相対的な価値判断をする精神の働きを「分別」と言って、これが人間のあらゆる葛藤苦悩のルーツであるとします。禅の目指すところはこのような価値判断を捨て去ることです。この境地と後述するブラザー・ローレンスの証しはとても類似しております。
(注2)精神分裂病などではこのアイデンティティーの中核的意識が崩壊してしまうのです。
人は体、魂、霊からなることはすでに述べています(→「人間とは?」参照)。この自己同一性の意識は霊が再生されて、クリスチャンとなった後も継続しますし、古い私が死んで新しい私に生きるといっても、私のアイデンティティーの意識が消滅するわけではありません。私の魂と体はいぜんとして両親からいただいたものであり、私の個性とか嗜好などはそのままに残っております。この自己意識の座はもちろん魂(思い、感情、意志)にあるわけで、「自己に死ぬ」といっても、それは魂の機能そのものが消滅することではありません。しばしばカルトなどではこのことを歪曲して、「自己に死ぬ」とか「自己を否む」などの標語によって、個人の価値観や個性を破壊するマインド・コントロールやマインド・マニュピレーション(心理操作)がなされますので、十分に注意する必要があります(→「オウム事件に思う」および「カルトとの関わりに思う」参照)。
新しい私とは、信仰による霊の再生の結果、霊的に誕生した存在−内に生きるキリスト−であり、その存在が霊的な命を私たちの魂から体へと流れ込ませることにより、魂と体は霊の再生以前とは異なった機能と性質を帯びるようになるわけです。私たちの魂はそれまでは神から独立して機能していたのに対して、霊の再生後は御霊に頼る形で、御霊からのエネルギーによって機能することになるわけです。そこには御霊の性質と特性を帯びた魂の機能、さらにはその結果として体の表現が生まれるわけです。私たちはここで神から独立して振舞うのではなく、神に依存しつつ、特に御霊の制御のもとで振舞うことを学ぶ、すなわち心理学的には再条件付け(reconditioning)される必要があるわけです。
このようなわけで私たちが意識し得る領域、あるいは知覚が及ぶ領域―ここでは仮に"意識空間"と呼んでおきます―は、主観的には救いの前後であまり大きな変化を感知し得ないかもしれません。クリスチャンになる前後での大きな違いは、意識の領域における何らかの変化ではなく、むしろ心における平安と安息の獲得にあります。意識にはいろいろな恐れの観念とか思い煩い等が浮かんでは消えるでしょうが、それらに拘泥したり影響されることなく、心には平安と安息が満ちているのがクリスチャンとして得た最大の事件です(注)。もちろん聖霊の取り扱いを受けるうちに、私たちの魂の特性も変化し、その結果として、特に思い(mind)の領域において変化が生じてきますが、その変化は瞬間的というよりはクリスチャン人生を通して継続される性質のものです。
(注)意識と心の定義およびその相違は少し難しい問題を含みますが、とりあえず心は私たちの内的現象のすべてを包括的に表現する言葉という意味で用いておきます。各人の心のあり方は主に自らの胸において感じることができます。
この意識空間は大きく分けて、(1)自己意識あるいは自己イメージの投影された領域、(2)自分の体性感覚の投影された領域、そして(3)五感を通じての外界の映像の投影された領域からなります。そしてこの意識空間の中で、特に注意(attention)を置く部分、すなわち意識の中心点があり、その中心点はいわば意識のポインターが指示する部分であり、意識の中心はそのポインターの動きと共に時々刻々変化しております。いわゆる"気配りがある"という言葉で表現される状態です。
たとえば車を運転している際には、視野に移っている景色全体に意識が置かれるのではなく、きわめて狭い部分だけに意識の中心が置かれており、それは視点の動きと連動していることが分かっております。車の運転の場合、ビギナーと熟練者の間ではその視点の動きに大きな相違が見られます。ビギナーはどうしても緊張する傾向があるために、視点の動きもスムーズではなく、なめらかさを欠いたぎこちない動きとなり、しばしば意識のポインターがある部分に固着するために外界に対する注意にムラが生じ、しばしばイレギュラーな事態に対して対応が遅れて、思わぬ事故を起こしたりするわけです。それに対して熟練者はリラックスした状態で、視点の動きがスムーズであり、意識のポインターが視野の特定の部分に固着することなく、視野全体に行き渡り、いわゆる広く注意を配っている状態であり、イレギュラーな事態にも余裕を持って対応できるわけです。
この時に2人の間で何が違っているかといいますと、ビギナーは「うまく運転しよう」と言う意識が前面に出て、意志を用いてコントロールしようとするために、その願いとうらはらに意識のポインターが滑らかに動かなくなるのに対して、熟練者は運転操作そのものが条件付けされている結果、意志を用いずに無意識的にできるようになっているために、その余裕が外界への配慮となって、意識のポインターも滑らかに動くわけです。ここで分かることは、自分の意志をもって対象を自分の思いのままに制御しようとすればするほど、事態はむしろ逆に作用すると言うことです。すなわち、私たちの意志の力はしばしば意識のポインターの動きを阻害してしまうことがあるのです。中国の古いたとえ話に、ムカデがその足をすべて意識しつつ動かそうとして、ごんがらがって動けなくなるという話がありますが、意識作用はしばしば命の自然な流れや動きを疎外するものなのです。
「信仰と精神分析について」で論じたように、私たちの注意が特に自分の体の感覚の一部とか、意識に浮かぶ表象・観念に固着することによって、それぞれヒポコンドリー/不安神経症、そして強迫神経症などが生じるわけですが、これらの症状はすべて私たちの意識空間において、そのある部分に意識のポインターが固着することによって生じます。さらには病的なレベルではなくても、いわゆる思い煩いと言われる心理も、意識に投影されるある観念や映像に対して意識のポインターが固着することによって生じます。
たとえばいつもの卑近な例で言いますと、銀行にお金がない、という事実を知ったとき、その事実は「銀行にお金がない」という観念として私たちの意識空間に投影されます。そしてその投影された意識内容に意識のポインターが固着すると、たえずその「銀行にお金がない」という思い(観念)によって悩まされ、私たちの感情も影響を受けて不安とか緊張感を覚え、その内的現象がついには体にまで影響して、いわゆるストレスによる体の不調、たとえば自律神経失調症などとなって現れるのです。私たちは外界の事実そのものによって影響されるのではなく、その事実が意識空間に投影される際のその思い(観念)によって影響されるのです。
さらに詳細に分析してみるならば、その投影された思い(観念)は、しばしばある種の評価(アセスメント)とある種の感情を惹起します。もし親が大富豪であって、たとえ自分の銀行に金がなくても、親をあてにできると言う意識があるならば、前者の投影である「銀行に金がない」という観念によって、思い煩ったり不安を覚えたりすることはないでしょう。つまり私たちが通常経験するその思い(観念)は、外界の事実の忠実な反映ではなく、個人の置かれた状況や魂(特に感情)の色彩によって歪曲され彩られているのです。したがって同じ事実に対しても、人によって反応や対応が異なるわけです。私たちは外界の事実などを意識空間に投影する際に、つねにある種の認識のフィルターを通して、そのフィルターによって着色された形で投影するのです。
そして意識のポインターが、意識空間のある部分に固着することこそ、私たちの経験する思い煩いとか不安を生み出す原因なのです。これを禅学の大家鈴木大拙は「心があることにとどまることは心の安息にとって大きな障害となる」と述べております(鈴木大拙・フロム・ディマルチーノ『禅と精神分析』)。また剣の達人であった柳生但馬守の『活人剣』においても、「およそ病とは、心のとどまるをいふなり」とあり、その師であった沢庵の『不動智神妙録』には「仏法にては、この止まりて物に心の残ることを嫌い申し候。故に止まるを煩悩と申し候」とあります。中国の故事に「流水腐らず」とありますが、その反対に、心が何かに止まること、すわなちいわゆる"執着"こそが心の病であると言うわけです。
私たちは生まれてこの方、自己の生存を維持するために、自己の魂(思い、意志、感情)と体を用いてサバイバルしてきました。そのような神から分離独立された私たちの魂と体の働き方を、聖書では肉と呼ぶことはすでに述べました。すべてを自分の生存に有利になるように、自分の意志のとおりに、自分の魂と体を使ってこれまで生きてきたわけです。そこでどうしても自分の意志を用いて、自分の意思のとおりにすべてをコントロールしようとする条件付け(conditioning)を受けているわけです。私たちは自分の意志の実現を図るために、もっとも重要であると考えられる意識空間の特定の領域に意識のポインターを置き、その部分を自分の意志でコントロールしようとするわけです。
たとえばヒポコンドリーなどのノイローゼになる人は、体のある部分の不調がなくなりさえすれば、自分は幸福になれると思い込んでいる為に、意識空間のその部分に意識のポインターを置き、自分でコントロールしようとするわけです。しかし私たちの体は、特に植物神経によって支配される部分は、決して意志の力によってコントロールできるものではなく、したがって果てしない葛藤を経験することになるわけです。これを"精神交互作用"と呼ぶことはすでに述べました。意識のポインターが置かれる部分が、その人の生存にとってもっとも重要であるとみなされている部分なのです。
禅の修行においては、ある部分に固着した意識のポインターをそこから分離して、自由に動くようにすることを目指します。「心は万境に従って転ず、転ずるところよく幽なり」とあるような心の境涯を打ち出すことを目標とするのです。これを"放心"とか"放下"と言います。禅の修行形態には、道元の創始した生活規制とひたすら座禅する(只管打座)を標榜する曹洞禅と、栄西の起こした公案によって人工的なノイローゼ状態に追い詰め、そこを打破することによって見性を得ることを目指す臨済禅の2系統がありますが、本質的にはどちらも意識の滞りをなくすることを意図する点では同じであり、見かけ上の方法論の相違に過ぎません(注)。この意識ポインターが意識空間におけるある特定の領域に固着することが、人間の全ての不安とか恐れの原因であると言えるわけで、このことを解決するために禅などではすでに数千年も前からその方法論を編み出してきていたのです。
(注)禅というところの"悟り"とか"見性"とは一部のカルトが言うような超能力を身につけることでは決してありません。それは"囚われ"から解放されること、すなわち自由な心の動きあるいは流れを習得することに他なりません。しかしながら、しばしば魂の潜在能力を追求する傾向が強くなりますと、いわゆる超能力(パラサイコロジー)などの開発を意図するようになり、とても危険なことです。本来、魂は御霊に服する必要があり、魂が単独で活動することは避けるべきことなのです。
ここでこの魂の領域におけるこのような心理的現象、すなわち意識の登る個々の観念とか思いに囚われない心理的態度だけを取り出してみると、禅経験とクリスチャンの経験はひじょうに類似性があることが分かります。このために禅者の側からも、例えば鈴木大拙などは「イエスは禅者である」などという発言がなされ、またキリスト者側からも、パウロのローマ書7章の葛藤の経験と、臨済禅における公案によって追い込まれた心理状態("大疑"という)、さらにはそれから解かれる過程も、自力による手段でなく、いわゆる他力、すなわちキリスト者であればキリストによるとし,禅者であれば親鸞のように弥陀の請願による自然法爾とするあたりが類似していると指摘されています(注)。
(注)近年、ニューエイジ思想などの興隆と共に、いわゆる"エキュメニカル運動"と称して、すべての宗教を統合しようとする運動が盛んになりつつありますが、私たちクリスチャンはあくまでも唯一の三位一体の神を信じるというクリスチャン信仰のアイデンティティーを堅持する必要があります。この運動は見かけ上は宗教統合というもっともらしいものですが、サタンの狡猾な罠であることは明白です。
例えばカトリックのある神父なども、パウロと親鸞の類似性を研究されている方もいます。しかしながらこれはあくまでも魂の領域における類似性であって、何回も述べるように意識空間における意識のポインターの固着をとり、自由に動くことのできる心の状態を実現することではほとんど同一の精神心理現象であると言えますが、残念ながら禅においては、創造主なる神との関係、罪の問題などの霊的問題を一切取り扱っておりません(注)。つまり霊の再生は禅では決してあり得ず、ましてや聖霊の内住の経験などは思いも及びません。これがキリスト者と禅者を分ける決定的要因であって、実際、禅学の大家にして"新エルサレム"に関する論考を書いている鈴木大拙でさえも、「わしはイエスが覚者にして禅者であることはよう分かるが、聖霊が何であるかはどうしても分からん」と告白しております。
(注)もともと仏教(狭義には禅宗)には神概念は一切ありません。"仏陀"とはもともと礼拝対象としての神などではなく、覚者(悟った者)の意味であって、あくまでも人に過ぎません。釈迦の思想が伝搬するうちに、それぞれの地方の土着の宗教と融合(シンクレティズム)して、現在見ることのできる、いわゆる"葬式仏教"へと堕しているわけです。釈迦は仏法僧が世事に関ることは厳に戒めております。
クリスチャンの場合、霊の再生を得て聖霊の内住を得ることによって、魂は聖霊の支配下に置かれ、それまで経験してきた実存的不安や恐れから解かれます。すなわち命の創始者である神という、いわば究極的な"つっかえ棒"を得ることができるために、自己の意識空間に投影される様々な表象や観念に対して、以前とは違った形で評価と応答をすることができるようになるのです。たとえ銀行にお金が無くても、天の父なる神様は御言葉の約束に従って、必ずすべての必要を満たして下さると信じる結果、その事実の投影である「銀行にお金が無い」という意識空間における観念・思いに対して、意識のポインターが固着することがなくなるのです。自分でそのことを対処する必要が無いという安心感が意識の根底に存在するようになるために、自分の意志の力で事態をコントロールする必要がなくなるのです。このために意識ポインターは自由に意識空間の中を動くことができ、それはすなわち心の安息と平安をもたらします。いわば神に囚われることによって、他の何にも留まらない心の状態が実現されるのです。
これこそ信仰が私たちの意識にもたらす最大の効果であり、この平安と安息が魂から体へとすばらしい影響をもたらし、イエスが言われるように、「私が来たのは命を豊かに与えるためである」という言葉が、自分の主観的な経験となります。まさにすべての問題を誰かに任せておけることは、私たちの意識空間の中で、自分の意志を用いて意識のポインターを、その問題に固着させる必要がなくなることを意味し、したがって精神のエネルギーを無駄に消耗することもなくなるのです。こうして私たちの心の内から御霊のもたらす命があふれ出るようになります。「信じる者の腹から命の川々が流れ出るようになる」というイエスのお言葉どおりです。
誰かを信じるとは、その相手に自分のすべてを任せること、そして自分はもがくことなく、焦ることなく、自分のわざを止めて深い安息に入ることです。それに対して自己の意識空間の中で、自分の意志でにぎっている領域が残っていると、そこに意識ポインターが固着し、その状態を維持あるいはコントロールするために精神的エネルギーを消耗し、安息が奪われます。その部分に対して神に対する信仰を適用するならば、ただちに神様に任せることができ、自分の意志でにぎったり、コントロールしたりする努力から解放され、意識ポインターの固着を解かれて、自由に動けるようになります。心は自由に流れるようになり、すべてのことが滑らかに進むようになります。御霊はそのためにますます豊かに油を塗り、油が塗られるならば、ますます心は滑らかになり、ますますの平安と安息が満ちて来るのです。これが御霊の下さった命の主観的経験です。
ブラザー・ローレンスはこの点において達人でした。彼はほとんど自己意識の囚われから解放されており、神に対する信仰によってすべてのことを無意識的に処理し得たのです。彼はその書簡集『敬虔な生涯−神の御前にある修練−』の中で「神に任せる秘訣を得るまでは、自分のする働きについて、ずいぶん思い煩ったものです。その秘訣を得てからは、自分のなし終えた仕事の記憶というものを持ちません。一度過ぎ去った後は、それを心にはとどめていないものです」と証ししております(注)。また「真実に任せた者にとっては、苦痛も慰めも同一のものでなければなりません」と述べ、彼の意識空間においては、苦痛や慰めの分別という精神作用がありませんでした。すなわち信仰の適用される領域に関しては、自己意識の働く余地がなくなると言えます。ある事に関して神を信じるならばそのことについて自己意識は消えてしまうと言えます。普段健康な人は決して自己の心臓の鼓動などを意識することはありません。それを意識するといわゆる不安神経症(心臓神経症)などになるわけです。この両者を分けるポイントは自己の心臓に対する信仰にあります。
(注)道元も「正法眼蔵」において、「悟りとは自己を忘れることなり」と述べ、自己意識から離れた流動する意識の主観的経験を「前後ありといへども、前後裁断せり」とか「瞬間撃滅、瞬間撃滅(しゅんかんげきめつ)」と表現しております。意識が何ものにも囚われることなく次から次へと流れて行く心理状態の記述です。
さらにローレンスは神の御前での修練として最も重要な点を、「意志が私たちのすべての機能の支配者ですから、その意志を呼び戻し終着点である神へともって行かなくてはならないのです。・・・ただ意志を静かに神の御前に引き出して神の御手に自分をゆだねること、この方法をもってあなたが全力を尽くすならば神は必ずあなたを憐れんで下さる」と証ししております。ここにあらゆる思い煩いや心配から解放される鍵があります。意識空間の中に投影されるもろもろの事象・表象に注意を置いたり、それをコントロールするために意志を用いるのではなく、意志はあくまでもひたすら神のみに注意を置き、神の事柄を思うために用いるのです。神を畏れること、神に囚われることは、他のあらゆる恐れからの解放と、あらゆる思い煩いからの解放を意味するのです。禅者が目指すところの「後を省みず、前を思ん諮らず」という、ただ"現在の瞬間にのみ生きる姿勢"が実現するのです。もちろんキリスト者の場合は何かの修行によるのではなく、ただ神に対する信仰によるのであり、"キリストにありて"という大いなる"ただし書き"がつくわけです。何という「神の逆説」であることでしょうか。