エクレシアの機能について



今日教会においていわゆる「5役の回復(レストレーション)」ということが叫ばれ、自称"使徒"や"預言者"なる人々が次々に登場しています。中には聖書はすでに古い油注ぎのものであり、神は現代において新しい預言や幻を啓示しており、教会はその新しい油注ぎの下で使徒行伝の時代のあり方をはるかに超えた新しい次元に入るなどのビジョンがまことしやかに語られています。また天国に入ってパウロと語り合ってきた(?)人なども出ているようです。

また私も最近見聞したことですが、牧師と信徒の間の葛藤をめぐって教会が分裂したり、牧師を不信任投票で解任するなどの事件があちこちで起きているようです。一方で独裁的牧師がいると思えば、他方で役員会や理事会の顔色を伺ったり、それらの言いなりの牧師もいる状況のようです。

新約における 預言 についてはすでに論じていますので、ここでは教会における役職について調べてみたいと思います。


1.役の目的


まず確認すべきはクリスチャンは 本質的な レベルでは 霊的に全員が 祭司 である ことです(1ペテロ2:9)。教会の運営や行政のために 機能的に 種々の役が与えられ、それは御霊の配剤(=賜物)によります(1コリント12章)。
「それは、聖徒たちを整えて 奉仕の働き をさせ、 キリストのからだ 建て上げ るためであり」(エペソ4:12)

ここに「奉仕の働き」と訳されている単語は" The Ministry "であり、唯一の務めを意味します。それはすなわち「 キリストのからだを建て上げる 」ことです。見かけ上種々のミニストリー がありますが、本質的にすべてのミニストリー この務め( The Ministry )のため でなくてはなりません。それ以外の動機のものは、人の野心によるものでしょう。


2.役は4役である


エペソ4:11「 こうして、 キリストご自身が ある人 を使徒、 ある人 を預言者、 ある人 を伝道者 ある人 を牧者また教者として(牧師・教師ではない)、お立てになったのです。」

ここのポイントになる点は、「ある人」は 4種類である こと、つまり 牧者と教者は重なっている のです。また「牧 」とか「教 」という言葉は 原語にはない のです。これらは「 また教える 」が正しい訳です(新共同訳ではそうなっています)。つまり教会における職制は「医師」や「弁護士」のような形ではないのです。むしろ主は「あなたがたは 先生と呼ばれてはいけません 。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたは みな兄弟だから です。」(マタイ23:8)と明言しています。

もちろん、独りで何かできるなどと思う 資質 が、自分にあるということではありません。わたしたちの 資質 は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える 資質 、文字ではなく霊に仕える 資質 を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします(2コリント3:5-6)。

ここは「資格」と訳されますが、原語の意味は 資質 です。何かの組織から免状をもらうと言った意味ではありません。 それは神から直接に与えられるものです。 現在の「資格」のあり方は歴史的キリスト教なる宗教体系の中の実行に過ぎません。

邦語訳では「預言師」なる訳語はどこにもありません。預言「者」です。いわゆる宗教としてのキリスト教組織体系に組み込まれると「師」が付けられるのです。「伝道者」については「伝道師」もありで、これはシステムに組み込まれることが微妙な点にあるのです。
さらにこれらの役を任命する方は キリストご自身 です。 今日ふつうに行なわれている<献身→神学校→牧師>という手続きは必ずしもキリストご自身による任職を担保しません。このシステムは人間が組織した教団や教派における手続きに過ぎず、ベルトコンベア式に職業牧師を作るのみであり、霊性とはかけ離れた「肩書き牧師」を生み出すリスクがあります。私のもとにはニッポンキリスト教における職業牧師の悪行(?)が少なからず報告されてきています。

これらの役で本質的に大事なのは、 霊的実際を伴なうか否かという点です。 またこれと関連しますが、今日において使徒や預言者はすでに排されているとする人々と、今日でも使徒や預言者がいると主張する人々もいます。私の立場はと言いますと、両方ともに組みしません。すなわち 今日においても使徒と預言者は存在します 、が、いわゆるカリスマ派の人々の定義する意味における使徒や預言者はおかしいと判断しています。

エクレシアは すでに 使徒と預言者の土台の上に 建てられており 、礎石は キリスト です(エペソ2:20)。すなわちすでに教会の土台は据えられており、この意味で聖書が完成されていなかった使徒行伝時代の使徒や預言者のあり方と、すでに聖書が完成され、教会の土台が据えられている今日における使徒や預言者の在り方は 異なっている のです。カリスマ派の人々は使徒行伝の世界を再現しようとし、新しい啓示や新しい土台を据えようとしている点で、真理に反します(黙示録22:18,19、1コリント3:13、エペソ3:5)。

使徒 とは原義的には「 遣わされた者 」の意味であり、それ以上でもそれ以下でもありません。ある地域にある教会から別の地域に遣わされて地域教会を設立する役目が使徒です。 しかしそれは新しい土台の上にではなく、すでにキリストの土台の上に据えられている普遍教会がある地域に可視化されるだけです。 新しい土台の上に据えようとする使徒には十分に要注意です。

預言者 についても同様です。使徒行伝の時代には聖書が完成されていなかったことに注意してください。神は特に パウロ に対して御言葉の完成の務めを委ねました。パウロは第三の天を見てきていますが、彼の書簡には、しばしば「・・・と書いてあるとおりである」として 旧約聖書による裏づけがあります。 彼は聖書に基づいて、特に 影としての旧約と実体としてのキリスト の関係から、 神のご計画の全貌 を見ることができたのです。

新約の預言者 は聖書に書かれていない、終わりの時代の最新の啓示を付け加えることではなく、 すでに確立されている真理を霊的に開く(「啓示」の意味)こと がその仕事です。この意味で今日のカリスマ系の"使徒"や"預言者"には十分に注意する必要があります。

使徒と預言者は、したがって、普遍教会を各地ごとに植える役割があり、 インター・チャーチ的 な役割を持っています。これに対して伝道者と牧者また教える者は、ある地域教会において務め( The Ministry )を展開する人々と言えます。つまり イントラ・チャーチ的 な役割を負っています。彼らは可視化され、私たちが物理的に触れることのできる交わりにおいて具体的にキリストのからだを建て上げる務めに与ります。


3.賜物と役



賜物 には 二種類 があります。 すなわち 普遍教会 に与えられる務め人としての賜物(エペソ4:12、1コリント12:28)、 地域教会 を構成する個人に与えられる霊的能力としての賜物(ローマ12:6―8、1コリント12:8―10)、です。

ここで大切な点は教会の二面性に対する理解です。キリストのからだなる教会( 普遍教会 /エクレシア)はすでにキリストの土台の上に建てられています。一方その不可視的教会が地域ごとに可視化されるとき 地域教会 として地上に実体化されます。

普遍教会 の拡大と建て上げのためには使徒が大きな役割を果たします。彼らは出て行って各地に教会を植えます。一方 地域教会 の建て上げのためには預言者(=言葉の務め)の役割が重要となります(1コリント12章では使徒が第一に来ているが、14章では預言者を強調している)。地域教会の構成員はそれぞれに御霊による賜物の配剤を受けて、その地において奉仕し、地域教会を建て上げます。

この二面性を十分に認識しないと、今日のようにやみくもに「使徒の賜物」の追及とか、「預言者の賜物」の訓練とか、見当外れの「レストレーション」運動がなされてしまいます。現在の「レストレーション」運動においては、何のために使徒や預言者を回復しているのか分からなくなっているのです。そして多くの混乱が報告されています。 「油注ぎ」と「油塗り」の場合 と同様に、真理の二面性を注意深く理解する必要があります。


4.エクレシアの構成



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今日、<教職と信徒>という構図が一般的であり、ニッポンキリスト教には信徒が自分のことを「牧師先生」と呼ばないと怒り出す御仁もいるようです。

しかし教会の建て上げのために与えられた賜物としての四役と信徒の関係は、 学校の教師と生徒という縦(ヴァーティカル)の関係では決してありません。

この四役はちょうど、 クラスの生徒たちの中で、 ある人 をクラス委員長、 ある人 を書記、 ある人 を風紀委員、 ある人 を図書委員に任じるような関係です。自分の同級生に向かって「委員長先生」などとは誰も呼びません。

すなわちその関係は横(ホリゾンタル)な関係なのです。 私たちの交わりとは、本質的に「 信徒の交わり 」(使徒行伝2:42)です。

また教会の具体的事務的運営は長老と執事によってなされます (使徒14:23、20:17、21:18ピリピ1:1、1テモテ3:13、5:17、1ペテロ5:5)。牧師を頭に据えたピラミッド構造によるトップダウン形式は聖書にはありません。また役員会や理事会なるものも聖書にはありません。よって役員会や理事会が牧師の任命や罷免をすることは聖書にはないことです。それはこの世のやり方です。牧師が独裁的に仕切る運営形態や、役員会・理事会によって牧師が"お抱え"になる形態は聖書の真理に従うものではないことが分かります。

もちろん権威の系統は存在します。 しかしこの権威とは役職を得ることによる権威ではなく、油塗り(アノインティング)の有無によって、頭なるキリストが聖霊により付与される権威です。 これはその人がキリストの頭首権に服すれば服するほど、自然と帯びるようになるものであり、兄弟姉妹たちも自然とそれを認め、この人には油塗りがあることを知るのです。よって人々にあえてある種の印象を与えようとしたり、人々からの認知を得ようとしたりする必要は一切ありません。自然とにじみ出てくるものなのです。 権威を持っている人は、まず自らが権威に服している人であり、そのもっとも顕著な兆候は安息していることです。 権威の行使は安息の中でなされます。

地域教会の中で互いに従い合うのは、ヴァーティカルな 役職のゆえでなく その人の霊性とそこにキリストが与えられた権威のゆえであり、 従ってそれは<支配・被支配>の関係ではなく 、いのちの成熟の度合いに応じた兄(姉)と弟(妹)の甘い<いのちの関係>なのです。いのちの成熟の結果として、ある人には預言する能力、ある人には牧する能力が育ってくるのです。 これは受精卵から手や足が分化するのと同様に、霊的ないのちのDNAによる 分化過程 によるのです。
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、 その人は知らない 。土は 人手によらず 実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである(マルコ4:26-29)。

これは霊的オーガニックライフです。こうして私たちは互いに組み合わされて神の住まいとして建てられ(エペソ2:21,22)、キリストの身の丈にまで成長するに至るのです(エペソ4:13)。

(C)唐沢治

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