(注1)ここでの「ことば」はロゴスです(→「言葉と命について」)。
(注2)口語訳では「霊魂と精神」となっていますが、原語ではあくまでも「霊(spirit)と魂(soul)」です。
クリスチャンとしてある程度の経験を積みますと、私たちは聖書の御言葉通りに、「目に見える所によらず、信仰によって歩もう」と努めたり、あるいは聖霊のさやかな「内的な声」を聞いて主に絶対的に従おうと試みます。ところが誘惑が来り、目の前の実際が自分の願いと違ったりするとたちまち打ち倒されてしまうという経験をします。そこでまた新たに努力を再開しますが、再び結果は同じです。
こうしてパウロがローマ書7章で記述している「内的葛藤」に落ち込んでしまうのです(→「罪とは?」)。この内的葛藤の精神病理はすでに述べましたが、そのような葛藤に陥るもっとも根本的な原因は、実は霊と魂が分離されていないことにあります。魂と霊が癒着しているために、魂が霊を覆い包んでしまうのです。しかも魂は体の五感とか外界の影響をもろに受けます。こうして私たちは魂の状態によって振り回され、私たちの内的生活は不安定になるのです。
私たちの魂は思い、意志、感情から構成されていて、私たちのパーソナリティー(自我)の座です。肉体の感覚器を通して入力されるあらゆる情報を処理し、評価し、意志決定し、行動に移します。その過程で感情は自分の願いや予測と現実が一致するならば安心感を覚え、食い違いが生じると不安感を覚えたり、絶望感を感じたりするわけです。これが私たちの魂の機能であり、現代人は特に教育や自己啓発と称して思い(知識と知性の複合体)を異常なまでに発達させているのです。これに対して霊は神を意識する座です。「神は霊ですから、礼拝する者も霊とまことをもって礼拝すべきである」のです(ヨハネ4:24)。
さてここで問題の核心に迫ります。いつもの卑近な例ですが、自分の必要とするお金が目の前にないとき、あなたはどうしますか?目の前にお金が不足しているというのは事実(現実)です。一方神の言葉(ロゴス)は「私たちの必要はキリスト・イエスにあって神がすべて満たしてくださる」とあります(ピリピ4:19)。大事な点は、神の言葉は真理であって、目の前の事実と相違した時、私たちはどちらを信じるか、ということです。
すでに述べたことを読まれた方は、あくまでも神の言葉を信じようと努力されることでしょう。しかし実際の経験は頭では分かっていても、どうしても平安が得られずに焦りや不安を覚えるのです。何故でしょう。それはあなたがその真理を魂のレベル、特に知性で取り扱っているからです。あなたの確信はあくまでも心理学的なものであって、目先の条件によって吹き舞わされます。それは魂の機能によるのです。
神の言葉は本来霊で受け取るべきものです。あなたは魂の働きを霊の働きと弁別できていないので、「信仰を持った」と思っても、目の前の事実に直面するとすぐに揺らいでしまうのです。ここで霊と魂がクリアーに切り分けられる必要が生じるのです。霊で受け止められた神の言葉(ロゴス)はただちに聖霊によっていのちとされます(→「言葉と命について」)。あなたの内的生活は豊かに安定するでしょう。魂で受け止められた神の言葉は単なる知識を増やすだけです。神の言葉を聞く時に、あなたは霊で受け止めるのか、魂で受け止めるのか、すなわち霊と魂の分離が必要となります。
さらにもっと高尚なケースとして、神への奉仕について見てみます。クリスチャンとして私たちは神への奉仕をなしたいという強い欲求を覚えます。これは霊の再生の一つの証拠と言えます。そしていろいろなアイデアとか考え、いろいろな働きや活動を行います。ここで問題となるのが、再び霊と魂の分離です。それらのものは一体どこに由来するのでしょうか。しばしばそれらの要素は私たちの魂に由来する場合が多いのです。そしてその動機は自分にあります。すなわち自己の栄光です。いずれ魂由来の動機と活動はそのエネルギーが尽きて、必ず頓挫することでしょう(→「自己を否むことについて」)。
このような場合における動機の純粋性は、霊と魂が分離されている時に担保されます。人の心の奥底まで知っているのは人の霊なのです(1コリント2:11)。心はよろず偽るものです(エレミヤ17:9)。しかし神は私たちの心の奥深くを探って下さいます(エレミヤ17:10)。そしてそれは両刃の剣よりも鋭い神の言葉によります。私たちが神の言葉に来る時、私たちの心はすべて明らかとされます。
また特に私たちの生まれつきの嗜好とか愛情の問題は、霊の再生を受けた後も大きな問題を引き起こします。イエスは「誰でも私より父や母を愛する者は、私にふさわしくない」と言われました(注3)。とても過激な言葉ですが、私たちの魂の性向を指摘しての発言です。すなわち私たちの魂が生まれつきの嗜好や愛情を留保している限り、霊的な存在であるイエスに心を注ぎ愛することが困難になるのです。クリスチャンはよくノンクリスチャンと恋に落ちて、深刻な葛藤をする場面に陥ることがありますが、これも魂の生まれつきの嗜好や愛情に関る問題です。
(注3)この魂の結びつきをソウル・タイと言い、しばしば教会の人間関係の問題を生じる病理です。ダビデとヨナタンの結びつきは健全で、お互いを高めあいました(1サムエル18:1)。実は、私たちはこの領域において自分の魂を否むことをできるだけしたくないのです。魂の自己保存欲求が顕著に働くのがこの領域です。罪の問題とか自分の短所などについては自分の魂を喜んで否み、御霊のもたらす新しい性質で、新たに満たしていただきたいという願いが強く働くのですが、この領域は一見罪的に見えず、悪いことではないように見えるので、なかなか明け渡すことができません。そこで御言葉による霊のメスをもって、聖霊による霊と魂の分離手術が必要となります。このオペを受け、霊と魂が分離されるならば、それまでは純粋で良いと思っていた自分の愛情が、実はきわめて自己中心的で、不純な動機によるものであるか、明確に見えるようになります。そして魂の性向によって条件づけられた愛ではなく、御霊のもたらす愛によって、愛することができるようになります。