(注)いわゆる教会の規則や戒律によって、一律にテレビや映画は禁止、新聞・雑誌も禁止などの形で、外部の誰かから規制されることではありません。よくカルトではこのようなことが行われますが、新約聖書で明確に禁止されていることは、(1)偶像礼拝、(2)血を飲むこと、(3)性的不品行です。「この世」を評価する際に大事な点は、あなたと神様の関係において、それらがどのような影響をもたらすか、と自分の心に問いかけ、自分と神様との間で決定することです。
例えば、「この世」の価値観は「金を増やすには、とにかく出費を抑えて金を得よ(Get
to get)」ですが、神の価値観は「金を得たければ、まず捧げよ(Give
to get)」です。あるいは「この世」では「人生を充実したければ、自己を啓発して個性を磨け(Live
to live)」ですが、神の御言葉は「命を得たければ、まず自己にあって死ね(Dead
to live)」と言います。傷つけられたら、「この世」では「報復せよ(revenge)」ですが、神の御言葉は「赦せ(forgive)」です。この価値観とは、私たちが「この世」に生まれて以来、それを観察し、感覚しまた経験し、分析した結果、採用するに至ったその「モデル」です。ですから人によってそれは異なります(注)。
(注)黒沢明の映画「羅生門」では一つの事件に対して、3人の異なる人物がそれぞれの立場から関って、その証言をしますが、すべて食い違います。個人の魂(思い・意志・感情)というフィルターを通りますと、一つの事件もさまざまな脚色がなされるのです。各個人の内に、その立場ごとに、利害関係のあり方などによって、歪曲された形の事件の「モデル」が構成されるからです。さらに、その構成されたモデルによって、その個人のその後の人生の歩みも特徴づけられるのです。
私たちの「肉」はこれまでの経験則から、どうしても「この世」の価値観(モデル)を取りたがるものです。一方、神の言葉は、モデルではなく、真理(リアリティ)です。一般的に言って、しばしば、私たちの悩みや葛藤は、自分の「内的モデル」と「外的事象」が食い違う時に生じます。また神の言葉に啓示されている真理(リアリティー)以外の、「この世」の価値観(モデル)を選択するならば、私たちは神の御言葉を否定し、よって信仰による歩みを絶たれ、同時に神の交わりから絶たれてしまいます。なぜなら「すべて信仰によらないものは罪である」とあり、信仰とは神の言葉に対する私たちの肯定的反応であるからです(→「誘惑の本質について」参照)。
ここでこのような「この世」の価値観から受ける圧迫に対抗するために、私たちは「自己を否み」、「自己おける死」を経る必要が起きるのです。「内住の罪」と「律法」からの解放は、私たちがイエスと共に十字架にあって死ぬことによって成し遂げられました(→「罪とは?」と「律法と恵みについて」を参照)。私たちが十字架のイエスと同一視されることによって、私たちもイエスの死に与るのです。その死は私たちの体と「罪」の関係を絶ちます。その死は私たちを「律法」を守るべき債務から解放します。
そして「この世」からの圧迫と圧力に対して神が用意された策は、「この十字架によって、この世は私に対して十字架につけられ、私もこの世に対して十字架につけられた」(ガラテヤ6:14)とある通り、やはり「この世」に対する死です。十字架は私と「この世」の関係を絶ち切るのです。したがって、私たちはもはや「この世」の価値観によって、あるいは「この世」からの評価を気にして生きる必要はありません(ローマ12:2)。
私たちは「この世」にあって(in
the World)生きていますが、「この世」の者(of
the World)ではありません(1ヨハネ4:6)。そしてすでに御子の王国に移された者です(コロサイ1:13)。イエスと共に「この世」に対して死に、イエスと共に復活することによって、「私たちは勝ち得てあまりある」のです(ローマ8:37)。なぜならイエスは宣言されました:
・あなたがたは世にあっては艱難がある。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのである」(ヨハネ16:33)。
・子どもたちよ、あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです(1ヨハネ4:4)。
・世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか(1ヨハネ5:5)。
私たちの霊的経験において、「この世」の圧迫と誘惑に処する鍵は、やはりイエスと共なる十字架における死と復活にあります。私たちはキリストのうちにおかれ、イエスと同一視されていますから、「この世」に対するイエスのスタンスと同じスタンスを取ることができるのです。それは「この世」に対する完全な勝利です!