義認とは



神は愛であり、また義でもあられる方です。義とはすべての存在、価値、秩序、倫理の源である神の基準に合致することです。例えば神の秩序は自然界の法則によって担保されています。神は無秩序の神ではないとある通りです。またこの世に人間的な正義の価値観に基づいた法律体系があるように、旧約においては神の正義の価値観に基づいた律法の体系がありました。この律法の根本的目的は「わたしが聖であるように、あなたがたも聖であれ」(レビ11:45)という神の聖性を私たちにおいて実現することでした。旧約においては、この律法に合致するならば人は義とせられて祝福を受け、合致しないならば不義とせられて呪いを受けると言う、旧約の義はある意味で単純な形で実現され得るものでした。

しかし人はそれを自分の力でまっとうすることができず、絶えず失敗を繰り返したことはユダヤ人の歴史が証明したわけです。つまり人はすべて不義であり、義人は一人もいないとあり(ローマ3:10)、律法によっては誰一人として義とされることがない(ローマ3:20)とある通りです。神の聖性の表現である律法を自らの力で実現し得ると考えること自体が、すでに自己の能力に対する過信あるいは誤信を証明しており、よってそれ自体が罪とされてしまうのです。神が人類に律法を与えた時、それを人類が守ることができないことはすでにご承知の上でした。神が律法を授けたのは、人類が自己の真実を暴かれて、自己の無力を知り、キリストに誘導される意図の下になされたのでした(ガラテヤ4章)。

では新約における義認とは何を意味するのでしょうか。私たちが神の御前に良しとされる、すなわちあたかも罪を犯したことがない者とみなされるのはどんな根拠によるのでしょうか。パウロは言います:「しかし、今は律法とは別に、しかも律法と預言者にあかしされて、神の義が示されました。即ち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」(ローマ3:21、21)。つまり新約における義とは"律法とは別に"しめされるのです。さらに「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです」(ローマ3:24)とあり、「それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです」(ローマ3:26、27)。

すなわち私たちが神によって良しと認められること−義認−は、私たちの行いが神の基準に合致するか否かではなく、キリストがなして下さった贖いの効力によって、キリストを信じることによるのです(より正確にはキリスト信仰によるのです)。アダムの違反によって全人類に罪が入り、人類は不義とされたように、キリストの一つの義なる行為によって、信じる者は義とされるのです(ローマ5:18)。究極的にキリストご自身が、私たちにとって、義と聖と贖いとになられたのです(1コリント1:30)。ここで確認しておくべきは、もともと神と人との関係は、神の約束により、人がその約束を信じる時に正しく成立し得るはずであったのですが、人類の罪を暴き、対処するために、神は副次的に律法を授けられたのです(ローマ4章、ガラテヤ3章;詳細は「恵みと律法について」を参照)。新約においては、キリストにあって、神が当初から意図された神と人の関係に立ち返ることが可能となったのです。

歴史を振り返りますとアダムとエバが神の命に逆らって、罪を犯し、神から独立して、自らの能力と判断で生きる生き方を選択しました。その結果自己が自分にとっての神となり、意識のベクトルの中心は自己に焦点づけられることになりました。人は神を神とせず、いわば自己を「神」として,神から見れば、勝手気ままな生き方に終始することになりました。実は私たちが外側の行為としての罪を犯すか否かに関らず、このような生き方をすること、あるいはこのような生き方を志向する性向自体が罪であり、不義とみなされるのです(ローマ7章)。それはすなわち神の聖性に基づく、神の義を否定することであり、それは同時に神のアイデンティティーそのもの否定することを意味します(→「誘惑の本質について」)。これがいわば不義の主観的経験と言えます。

しかるに信仰によってイエスを信じる時、私たちの霊の内に聖霊が臨在して下さり、その聖霊によってイエスは私たちの心の内に臨在されます。このイエス神の第2格位たるお方(ロゴス)でしたが、ある時人として人類の歴史に介入され、それまで人類がなし得なかった律法に従う生き方を完成されました。この方の義が、私たちの義とされるわけです。このことはちょっと理解し難いことですが、この理由のポイントはイエスと私たちが同一視されていることにあります。私たちがイエスを信じた時、私たちは神によってキリストの内に置かれました。神の目から見て、私たちとイエスは一つと見えるのです。私たちはイエスの死にあずかると同時に、イエスの復活にも与っています(ローマ6:3-5)。

この神の義を生きられたイエスの内に私たちは置かれているゆえに、彼の義が私たちの義となり、私たちは神によって義とされるのです。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」とあるとおりです(ローマ4:25)。そしてその義は、私たちが御霊に従って歩む時に、自分自身にとっての主観的義として経験されます(ローマ8:4)。自分が神からの義認を受けていることを自ら経験的に知ることができる、すなわち義の主観的経験を得ることができます。こうして私たちと神との間の壁は主観的にも何も存在しないことを確信することができます。もし私たちが御霊に従って歩むことをしないのであれば、私たちは客観的には得ているはずの神の前での義を、主観的に享受することができず、神と私たちの間には隔てが存在する意識に悩まされるでしょう。すなわちここでの私たちの責任は、自らの肉を否み(→「肉について」)、御霊に従って歩むことであるわけです。そして実はこのこと自体も信仰によります。
(C)唐沢治

mbgy_a05.gif