サウル

−選ばれし者の栄光と悲劇−



1.人物像



ベニヤミン族キシュの子でイスラエル王国の初代の王として預言者サムエルによって油注ぎを受けます(誕生B.C.1080)。背丈も高く、見栄えのする若者であって、逃げ出した父親の羊を追って、預言者サムエルに出会い、彼から油注ぎを受け30歳で即位し、12年間治めます。当初はとても謙遜な青年であり、サムエルに忠実に従うのですが、ある時、ペリシテとの戦いの際、サムエルの到着が遅れたため、サウルは祭司以外の者にはできない犠牲の供え物を自分勝手に捧げるという不従順に陥り、サウルは神から退けられることをサムエルによって宣告されます。

その後もサウルはたびたびの不従順によって主の霊が彼から去り、悪霊によって悩まされるようになり、徐々に精神的にも不健全になります。そして若者ダビデが彼の前に民衆の英雄として登場すると、サウルはダビデを嫉妬するにいたり、何度も殺そうとしますが、失敗します。そしてついに主の導きを見失ったサウルは霊媒に伺いを立てるなどの深刻な罪に陥り、ついにはペリシテの戦いで三人の息子たちも殺され、彼自身も深手を負って、敵に殺されることを拒んで自ら剣の上に倒れこんで自殺します。



2.主要なエピソードとその霊的意義



物 語

ある日はサムエルを通してアマレク人とその家畜などすべてを聖絶することをサウルに命じます。ところがサウルはその命に従わず、羊や牛を生かしたまま連れ帰り、そのことをサムエルが問い質すと、サウルは「あなたの神、にいけにえを捧げるためです」と弁明しました。

サムエルは彼の自己弁護を受け入れず、「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族の頭ではありませんか・・・あなたは何故の御声に聞き従わず、の目の前に悪を行ったのですか」と叱責しました。そしてサムエルはサウルに対して「の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるであろうか。見よ、聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪に優る。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」と宣告しました。

その後サウルからが去ったため、彼は悪霊によって悩まされるようになり、ダビデへの嫉妬から彼を殺そうとして狂気に似た行動へと走り、ペリシテ軍との戦いに際して主の託宣を求めても何らの導きも得られないために、女霊媒師に伺いを立てるなどの深刻な罪に陥り、ついにその戦いにおいて自殺を遂げたのです。


霊的意義

神は私たちの外面的振る舞いとか宗教的儀式に目を留められるのではなく、私たちの心をご覧になります。例え宗教儀式を形式通りになしたにしても、私たちの心が不信仰と不従順に満ちているならば、神はそれを良しとされません。サウルは確かに姿形も良く、リーダーとしての資質を備え、主の霊に満たされて一時はその役目を果たしておりましたが、ある時から不従順に陥ります。ここで問題となるのは、ダビデも深刻な罪を犯したことがあるわけですが、彼はその罪を指摘されて決して自己弁護はしませんでした。ダビデは純粋に悔い改めたのです。

しかしサウルはサムエルによる指摘に対して、常に言い訳と弁明を重ねました。ここにサウルとダビデの本質的な相違があります。サウルからの霊が去るようになると、彼は様々悪霊の影響によって恐れとか不安とかをいだき、さらにはダビデに対してまで一種の被害妄想をいだき、その殺害を図るわけです。一旦油塗りを受けたとしても、の霊が去るならば、諸々の悪霊の影響を受けるようになり、そのため人は精神を病んでしまいます。人は神の導きが分からなくなるならば、どうしても目に見える者に頼りたくなり、占いとか霊媒の元を訪れます。彼らは確かに超自然的能力を有しておりますが、あくまでも悪霊の影響下でそのような能力を得ていますので、彼らの影響下に入ることはきわめて危険と言えます。

クリスチャンにとっても主の油塗りを失い、主の導きを喪失することは致命的です。罪からは完全に離れるべきであり、仮に罪に陥ったならば、ダビデのように砕かれた霊によって悔い改め、新しい霊を立てていただき、信仰と従順に満ちた心を回復していただくことです。新約の私たちにはすでにイエスの血が備えられているのです。



3.神の全計画における意義



アダムとエバがエデンの園で罪を犯してそこを追放され、人々の状態は時と共に下って行きました。最初はノアアブラハムのように神の言葉を直接的に聞くことができたのですが、人々の心の状態が下るに連れてそれもできなくなり、神は御自身の言葉を取り次ぐために預言者を立てられました。最初の預言者がサムエルですが、民はその言葉を聞いて従うことよりも、他の国と同様に王を求めるようになります。目に見える対象を得ることはある面で心の拠り所を得るわけですが、それは神の言葉を直接に得ることができないことの裏返しでもあるのです。サムエルはその民の要求を飲む形でサウルを王として立てるのです。

しかし一面ではアブラハムの子孫を大いなる国民にするという神の約束の成就する過程とも言えます。まことの王であるイエスを地上にもたらす民を備える神のご計画のワンステップでもあったのです。旧約において祭司、預言者、王などの様々な職制がありました。それらの旧約の職制はいわば影であって、それらは新約のイエスにあって実際とされるのです。


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