(注)へブル語ででは子音しか表記されず、"YHWH"と書かれますが、十戒にある「みだらに神の名を口にするべからず」に従って、長年にわたり発音されなくなっており、よってその音は不明です。かつては主という意味の"adonai"の母音を補って、"YaHoWaH"(エホバ)と読みましたが、最近では"YaHWeH"(ヤハウエ)と読むのが一般的です。そしてこれを「神聖四文字(テトラグラマトン)」と言います。
霊的意義
モーセが自分の出生の秘密について知る場面と、その時の彼の内的葛藤については、聖書は一切触れておりません。しかしながらエジプトの王子として育てられ、自分もそのとおりに信じて生きてきた彼にとって、その真実に直面せざるを得なくなった瞬間、どのようなショックに見舞われたことでしょう。これはパウロと共通する部分ですが、聖書では不思議なことに、そのような個人の内的葛藤に関する記述はほとんどありません。聖書はあくまでも神の目から見た、神の意図における個人の役割を描いているのです。なお、最近のディズニー映画「プリンス・オブ・エジプト」は、人間としてのモーセをアニメながらリアルに描いており、特に自己の真実を知った瞬間と、召命の場面のモーセの描写が素晴らしい仕上がりになっています。
それにも関らず、モーセは40歳という血気に満ちた時に、自分の同胞のために立つ決意をしますが、その意志は当の同胞からは拒絶されてしまいます。彼はその願いが純粋であったがゆえに、深く傷ついたことと思われます。そしてミデアンという不毛の地へと逃げ、そこで来る日も来る日も同じ単調な羊飼いの生活を40年間も送るのです。この間彼はおそらく自分の生きている意味とか、このような生活に甘んじてよいのかとか、様々な思いや葛藤にとらわれたことでしょう。人生においてもっとも生産的であるべき40年間を、いわば無駄にしているかのような生活でした。しかし神の思いは人の思いとは異なります。40歳という最も自分に自信があり能力も備わった時期を神は用いられません。これは人の血気であり、肉に過ぎないからです。神のために真に有効な働きをするには、この自己(肉)が死ぬ必要があるのです。そのために神はモーセの最も輝かしかるべき40年間において、彼を羊飼いという状況に閉じ込め、彼の自己(肉)をコツコツと削られたのでした。
そして彼自身は、おそらく、自分に関して何らの希望もなくなった80歳という年齢において、神は彼を召すのです。この時までには、おそらくモーセはかつての自信と体力を失い、むしろ単調な羊飼い生活にも慣れ、このまま余生を送ってもよいと思っていたに違いありません。彼はその生活にもはや安住していたのです。神の業はまさにそのような時、すなわち人の目においてはまったく希望がないように見える時にこそなされます!今や彼は80歳なのです!それは神の神たる方が証しされるためです。すべての栄光が神に帰するためです。この原則は旧約のすべての登場人物と新約のイエスにおいても、そして現在の私たちにおいても同じです。神の業は私たちの死において如何なく発揮されるのです。モーセにあっても「死と復活の原則」が働いたのです。
2.2.出エジプトと荒野の経験
物 語
エジプトについた彼は、さっそくパロにへブル人の解放を要求しますが、パロは頑に拒否します。すると神は10の災害をエジプトにもたらし、この時子羊の血を家の扉に塗ってへブル人はその災いから逃れます(注1)。そしてようやくパロは彼らを一旦は解放しますが、すぐに追跡を開始し、紅海の縁に追い詰めます。逃げ道のなくなったへブル人は混乱しますが、モーセは彼らをいさめ、あくまでも神に対する信仰に立ち、ここで例の有名な海が割れる奇跡がなされます(注2)。こうして彼らはエジプトを脱出し(B.C.1446;異説B.C.1280)、荒野へと至るわけです。そしてシナイ山において、モーセは神直筆の十の戒律の書かれた石版を得て、この時点で神の律法がモーセを通して授与されます。民が律法を守れば彼は祝福され、破れば呪いに陥るという原則による神と人の間の契約(関係)が成立したのです。
ところがへブル人は荒野において、様々の神の配慮と奇跡を繰り返し見たにも関わらず、絶えず不平不満を述べ、そのために多くの者が裁かれて死にました。彼らは絶えず神を試みたのです。しかし神は恵み深くも彼らの訴えに答えてくださいました、が、彼らはその神をないがしろにしました。そのような頑な民をモーセは委ねられ、日々心砕かれていたのです。そしてそのフラストレーションからモーセは神の言われたことを無視して、自分のやり方で岩から水を出してしまいます。その一つの行為によって彼は「約束の良き地」に入ることを神に禁じられしまうのです。彼はピスガの頂きからその地を眺め、モアブの地で死にました。また民も多くの者は荒野にあって滅び、その良き地に入れたのは神の命に従ったヨシュアとカレブの二人だけでした。
(注1)これを「過ぎ越し」と言いますが、後にイエスは「過ぎ越しの祭り」において十字架につけられ尊い血を流されたのです。神はこの血を見て私たちの罪を赦し、私たちを過ぎ越して下さるのです。
(注2)この水をくぐる事は新約の水のバプテスマを予表します。へブル人が紅海をくぐって出エジプトしたようにクリスチャンも水をくぐってこの世から脱出するのです。ちなみに「へブル人」とは「渡る人々」という意味があります。
霊的意義
人は誰も生まれたくてこの苦労に満ちたこの世に出たのではないのに、この世にあって労苦と苦難の中に幽閉されて、ただ死を待っている状態にあります。聖書では「この世」はエジプトで予表されます。まさに人はエジプトに幽閉されていたへブル人と同じです。神はこのような人を解放されることを意図されました。旧約ではモーセを遣わして下さいましたが、新約ではご自分の一人子イエスを真の解放者として遣わして下さったのです。この出エジプトとその後の荒野の経験、さらに「約束の良き地」の経験は私たち新約のクリスチャンの霊的経験の予表と言えます。
ここでも人間的に見て全く希望のなくなった状態において、はじめて神の業がなされます。神はあらゆる奇跡をもってご自身の民を守り導いて下さいます。旧約における神と人の関係は外見的にはモーセを通して与えられた律法を通してでした。「律法はモーセを通して、恵みと真理はイエスを通して与えられた」とあるとおりです(ヨハネ1:17)。へブル人は出エジプトという奇跡を見たにも関わらず、荒野において絶えずつぶやき、神とモーセを試しました。
その彼らの問題の根本はもちろん律法を守らなかったことにありますが、実は第一義的には神を信じなかったことです(へブル書4章)。旧約においては形式的には律法が神と人の関係を現していましたが、本来人が義とされるのは信仰によります。すなわち彼らが「良き地」の安息に入れなかったのは、彼らの不信仰によるのです。彼らは「良き地」にいる巨人を恐れたりなどして、神の言葉を信じなかったのです。そして信じた二人はその幸いに与ることができたのです。
私たち新約のクリスチャンも、時として自らの不信仰によって、自らを困難へともたらします。信じない時、私たちは肉的な思い煩いともがきによって平安と安息を失います。しかし信じる時、神のわざに信頼し期待して、自らのわざを止めて安息に入れます(ヘブル4:10)。前者の経験は「私たちの荒野」の経験であり、後者の経験は「私たちの良き地」の経験です。旧約・新約の神のあらゆる約束と契約は、すべてイエス・キリストにあって「しかり」とされました(2コリント1:20)。イエス・キリストにあって神の提供して下さるあらゆる富がすでに私たちの所有とされています。
それはイエスの十字架による死と復活によるものであり、クリスチャンはすでにキリストとともにこれらの神の富の共同相続人とされるのです(ローマ8:17)!このことを信仰によって信じることが、その豊かさに与る鍵です。私たちの信仰こそ、キリストが勝ち取って下さったこれらの富を私たちが享受する鍵です!このように旧約におけるモーセとへブル人の「荒野」と「良き地」の経験は、新約における私たちクリスチャンの「不信仰」と「信仰」の霊的経験の予型であるのです。