旧約の救いと新約の救いについて


旧約聖書(注)は天地と人の創造から、いかにしてを犯すことによって神から離れ、永遠の命から切り離されて、独力で生きざるを得なくなったか、その人の生の困難と苦難をいわゆるイスラエル人の歴史を通して記述しております。そしてその中核にあるのはモーセに授けられた律法です。律法は神の聖に基づく神の義の基準を提示するものであり、実は人が自分の能力によっては決して遵守し得ない性質のものであるにもかかわらず、イスラエル人はそれを守るべく空しい努力を繰り返しました。彼らはその過程を通して、実は自分の罪を自覚するべきであったにもかかわらず、それを形式的に守ることに注意を向け、本来の神の意図から離れるばかりでした。律法を守ることによって救われることは決してないのです!

しかしそのような中にあっても神の救いを得た人々がいました。例えばノアアブラハムダビデなどが有名です。特にアブラハムは「信仰の父」と呼ばれております。彼はどうして神の救いを得たのでしょうか?律法を守った(行い)からでしょうか?否、彼の時代には律法はまだありませんでした。アブラハムが神から得ていたのは神の約束でした。そして彼はそれを信じたのです!彼は神の言葉を信じたのです、そして「それが彼の義とみなされた」のです(ローマ書4:22)。すなわち信仰によって救いを得たのです。この点については新約の私たちとまったく同じです。神の恵みは彼らにも働いているのです。この点で、律法と恵みを対立概念としてとらえてはなりません(→「律法と恵みについて」;旧約と新約のチャート)。
(注)旧約・新約の「」とは「契約」のことです。よって「旧約」とは「旧契約」、「新約」とは「新契約」の意味であり、さらに「契約」とは一言で言いますと、「神と人の関わりのあり方」です。旧約では神と人を媒介するのは律法であって、人が律法を守れば神によしとされ、守れなければ神から良しとされないといういわば冷たい関係でした。それに対して新約では恵みによって神と人は関係を持ち得ます。イエスの十字架によって成立した契約が新約であり、信仰によってその救いを恵みとして受けることこそ新約における神と人の関係の本質です。

旧約においても新約においても救いはただ神の言葉を信じることによります。しかし人は言います、「信じたくらいで救われれば苦労はないよ」と。実はこの言葉こそ人のプライド、人の高ぶりを証しています。この言葉の裏には、「俺はこれだけ努力しているんだ、それでも自分は悩みや苦労から解放されていないのだ」というニュアンスが含まれています。これはまさに自己努力による自己の救いの追求に他なりません。しかしこれはあたかも、自分の髪を自分で引っ張って空を飛ぼうとするようなものです。

神の救いを得る第一歩はまず、「もう自分にはできない!」と叫ばざるを得ない所まで追い詰められることです。自分の髪を何度も何度も引っ張って努力した挙句に、もうへとへとに疲れ果て、希望も自信も完全に喪失した状態に至ることです。この時こそまさに「信仰の瞬間」といえます。神の言葉にすがり、神の招きに応じるのです。これこそ信仰です!すると感謝なことに、まさにこの瞬間を待っていて下さったように、神はご自分の全能の御腕を差し伸べてくださるのです!

信仰とは神の言葉、神の全存在、神の神たる方のすべてに対する全面的な信頼に他なりません。誰でも自分の言葉や性格に信頼を置いてくれる相手には喜びを覚え、その期待に完全に答えたいと願うことでしょう。同様に私たちの神に対する信頼こそ、神を認め、崇め、そして礼拝することです。神は私たちが神のために何かをすること以上に、いついかなる時にあっても、ただ私たちがご自身を全面的に信頼して待ち望むことを喜びとして下さいます。そこには神と私たちの心の奥深くにおける親密な交わりが成立しているからです。親の喜びは子が自分を信じてくれること、自分にすべてを任せてくれることです。そのような関係を成立させることができるのは、ただ私たちの側の信仰に他ならないのです。


mbgy_a05.gif