(注)旧約・新約の「約」とは「契約」のことです。よって「旧約」とは「旧契約」、「新約」とは「新契約」の意味であり、さらに「契約」とは一言で言いますと、「神と人の関わりのあり方」です。旧約では神と人を媒介するのは律法であって、人が律法を守れば神によしとされ、守れなければ神から良しとされないといういわば冷たい関係でした。それに対して新約では恵みによって神と人は関係を持ち得ます。イエスの十字架と血によって成立した契約が新約であり、信仰によってその救いを恵みとして受けることこそ新約における神と人の関係の本質です。
旧約においても新約においても救いはただ神の言葉を信じることによります。しかし人は言います、「信じたくらいで救われれば苦労はないよ」と。実はこの言葉こそ人のプライド、人の高ぶりを証しています。この言葉の裏には、「俺はこれだけ努力しているんだ、それでも自分は悩みや苦労から解放されていないのだ」というニュアンスが含まれています。これはまさに自己努力による自己の救いの追求に他なりません。しかしこれはあたかも、自分の髪を自分で引っ張って空を飛ぼうとするようなものです。
神の救いを得る第一歩はまず、「もう自分にはできない!」と叫ばざるを得ない所まで追い詰められることです。自分の髪を何度も何度も引っ張って努力した挙句に、もうへとへとに疲れ果て、希望も自信も完全に喪失した状態に至ることです。この時こそまさに「信仰の瞬間」といえます。神の言葉にすがり、神の招きに応じるのです。これこそ信仰です!すると感謝なことに、まさにこの瞬間を待っていて下さったように、神はご自分の全能の御腕を差し伸べてくださるのです!
信仰とは神の言葉、神の全存在、神の神たる方のすべてに対する全面的な信頼に他なりません。誰でも自分の言葉や性格に信頼を置いてくれる相手には喜びを覚え、その期待に完全に答えたいと願うことでしょう。同様に私たちの神に対する信頼こそ、神を認め、崇め、そして礼拝することです。神は私たちが神のために何かをすること以上に、いついかなる時にあっても、ただ私たちがご自身を全面的に信頼して待ち望むことを喜びとして下さいます。そこには神と私たちの心の奥深くにおける親密な交わりが成立しているからです。親の喜びは子が自分を信じてくれること、自分にすべてを任せてくれることです。そのような関係を成立させることができるのは、ただ私たちの側の信仰に他ならないのです。