* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
私の20年以上の同僚平尾始氏が個展を開きます。彼は哲学者でして、早稲田大学など様々の大学で教鞭を取っています(→彼のサイト)。
『形而上学のカタチ』
―平尾 始 個展―
日時:4月9日(月)〜4月13日(金)12:00-24:00
※毎日20:00から作品の背景の解説講義あり。
場所:gallery MOGRA
渋谷区神宮前6-9-6 03-6277-5530
http://www.mogra-tokyo.jp/
彼の言葉によりますと、「システム論の哲学に基づいた作品です。」
再建主義の富井さんが、「とにかく社会主義をすてるしかない」と主張しておられます。この論には私的にもかなり賛同できますね。彼は共産主義ソ連の末期を体験的に知っておられるので、このような危機感を強く覚えているのでしょう。先に私も言いました:キャリア官僚の権限を最小限にして、必要最小国家を実現することは容易ではなく、むしろ彼らが国を食い潰さんとしていると。現在の国と地方の債務、約1,000兆円。
私もかつてウイットネス・リーに関わる真実を語ろうとして、告訴の脅しを受けたことは前にも書いた。今回、山谷少佐も弁護士からの通告書を受け取られたようだ。私の直面したケースの場合は、相手方が腰砕けになり、その後5年間ほどサイトを開いていたが、Geocitiesのシステム変更と、やや意義を失うことを感じて、一時閉鎖した(リーの問題点はこちら)。
ところが2ちゃんあたりで、昨年あたりから私どものスレが立てられ、ここが晒されるようになり、ローカルチャーチかその擁護者から工作がなされるに至り、このBlogで再び真実を語る文書を提示してきている。彼らの主張は、私がリーを批判するのは、私がリーをパクッているからだとするらしいが、実に幼稚な理由付けで、もうちょっとまともな論を立てたら、と思うのだが。ローカルチャーチのメンバーはもっと知的でモラルも高いから、多分この工作は部外者と思っているが。著作権違反があれば、お得意の裁判に訴えればよろしい。
さて今回紹介するのは、ウイットネス・リーのローカルチャーチに関して、現メンバーや離脱者らにより活発な議論がなされている英語圏のBBSである。前にも紹介したが、「人は神になるか」、「リーによる神・人ハイブリッド神学」、「サタンは人の体に住むか」といった、他では決して議題にすらならないトピックが語られている。
その中でもウイットネス・リーがいかに自分にとって都合の悪い存在を裁判と言う手法で排除してきたか、その歴史が記録されているスレを紹介しておく。この中にはCLCなども含まれているが、最近ではハーベストハウスとの訴訟で彼らは負けているようだ。しかもリーは批判者どころか、自分たちのメンバーをすら訴えている。
しかしこうした歴史によって、裁判では金にものを言わすリーの手法によって負けた人々が真実を語り続けたので、私たちもリーとそのローカルチャーチを知ることができるのである。彼らは自分自身で自分自身を証している。その意味で山谷少佐の振る舞いはまことに尊いといずれ評価されるものと信じる。ここの読者諸氏にもそれぞれで判断されていただきたい。
・Nee, Lee & the Church of Recovery(ニー、リー、および回復の教会)
・Chronology of Lawsuits and Threats (裁判と脅しの歴史)
このようなローカルチャーチに対して、リーの偽りを捨て、裁判の脅しをやめよとする、7カ国70名以上の福音主義聖書学者・専門家が公開書簡を提示している。
・ローカルチャーチ指導者への公開書簡
ようやく術後のダメージと風邪から立ち直りつつあります。気力も回復して、プールとサウナに行きたくなっていますから^^
で、温泉が決定。伊豆長岡は山田家。1万坪の敷地に大きな露天風呂と懐石風料理。なかなか楽しめそうです。
・伊豆長岡温泉山田家
Sola Gratia氏が山谷氏に対して「再び10日ほど時間をあげよう。自分の行いを潔く認めて公開的な謝罪をしなければ、法的に責任を問う。山谷少佐に回答を求める」と通告し(そもそも、Sola氏がCTの代表権者なのか、代理人なのか不明で、こういった通告を匿名ですること自体が常軌を逸しているが)、少佐が「公開的謝罪の意志は一切ない。訴状を待つ」ときっぱりと回答してからすでに11日が経過している。少佐は小菅に収監された際のシミュレーションもして待っているようであるが、果たしてこのSola氏は何を考えているのか、その名前が「ただ恵みのみ」とあるだけに、その行動との乖離性がかえってかなり不気味ではある。そう、本件のキーワードは「不気味さ」。
私のコメントをDr.Kさまが取り上げて下さっています。主のことばによって「それぞれの人が、それぞれの時に」裁かれること。今の「何でも許して、受け入れて」の人間中心の福音理解では受け入れ難いことでしょうし、またまたこのようなハードコアな解き明かしはカルトだと言われる人も出ることでしょう。しかしそれは主のことばによる裁きが行われている証しなのです。Dr.Kさまの結論は「だから、嫉妬による迫害が起きるのです」。これからますますこの篩い分けが起きてくることでしょう。これらの解き明かしを感謝いたします。
管財課から電話があり、部屋を引越しせよ、とのお達しを受けて、大学で一仕事してきました。この部屋はあまり広くはないのですが、かえって落ち着いており、気に入っていたのです。2年いると何かとモノが溜まるもの。一番多いのはもちろん本だが、これを段ボール箱につめること10箱。残りの書類や雑貨はまたの日に、ということで・・・。新しい部屋は何とすぐ隣。学生の実験室を払って、教員の部屋としたわけで、やや広くなる。業者さんによる引越し作業は29日。ちょっと予定が狂って来ました。が、27,28日にはあくまでも温泉に出かけます。
前にパワー・フォー・リビング(PFL)の怪しさを指摘したが、その際脳機能学者のDr.苫米地氏の見解を紹介した。その後、どうも彼とPFLの間でガチンコ対決が始まっているようだ(→コチラ)。Dr.苫米地はオウム問題でもマスコミで活躍しており、反カルト的働きを標榜しているが、今回、彼自身がカルトだとする文書が関係各所に配られているとか!?
いやあ、これは面白い。私なども一部ではカルトだと言われているそうだが、これは私たちの宿命でもあるのだ。山谷少佐と私はクリスチャン・トゥデイやローカルチャーチを相手にしているわけだが、救世軍もカルト、Dr.Lukeもカルト・・・と、彼方も此方も同じ構図が見えるわけ。倒錯した世界では精神科医が患者から逆診断されることは前に指摘したとおり。ニッポンキリスト教界、今後ますますこのような倒錯現象が汎化することだろう。
ついに米朝で金融制限を全面的に解除の合意がなされたと(→記事)。おいおい、もう密約があったんでしょう。日経夕刊によると、過去の不正は不問にして、未来に向かって核放棄をねらうらしいが、一度おいしいものを食べた人がそれを捨てることができますか?既成事実を作り、ついには認めさせることに長けているのです、この手の国家も個人も。
一方ではイラク増派兵・・・。いつまで続くぬかるみぞ。ブッシュが怖くなってきました。
最近の楽しみの一つであった、『華麗なる一族』の最終回。予想外のどんでん返しの連続であった。キムタクは最後まで違和感があったが、まあ、それに慣れてしまった部分もあるかも。北大路の感情を抑えた演技が光っていた。変形エディプス葛藤を描いたドラマとも言える。
山崎豊子作品が迫力があるのは、その精緻な取材に基づいたストーリー構成だ。『白い巨塔』、『大地の子』、『女系家族』、そして今回の(と言っても前にもドラマ化されているが)まで。今後映像化を期待したいのが、『沈まぬ太陽』である。あのJAL123便の墜落事故を題材とした小説で、『文藝春秋』に連載された。
東大法学部を出た大蔵(財務)省キャリア官僚ともなると、こういった金融再編などを思い通りに動かせるのだろう。竹中さんは民間からの大臣と言うことで相当に苦労したようだが、国家を仕切る彼らの有している権力の怖さを感じさせるドラマでもあった。再建主義の富井さんがこう言っておられる:
近代主義とは国家主義なのである。近代思想の本質とは、国家主義である。そして、国家主義から自由にならない限り、問題は何一つ解決しないのである。個人を国家の文脈でしか見るという誤謬を捨てない限り、共産主義の否定者は、自ら共産主義者になる以外にないのだ。
彼が国家を嫌うのもやや理解できる感じがする。必要的最小国家の実現はこれらの肥大化した権力を彼らから剥ぎ取ることでもあるわけで、これはそうは簡単に実現しないことも分かる。逆に言えば、今の日本のようにその権力を用いて彼らが国家を食い潰してしまうこともあるわけだ。現在、国と地方の負債およそ一千兆円。
さて明日の株式市場は・・・。
今日のサンプロに出ていた彼はやはり意気消沈していましたね。彼はまともに無実だとタカをくくっていたようです。しかし刑務所に行くことを相当に恐れているようです。どうも感覚がずれているわけで、彼はすでに社長を辞めたことで責任を取ったと言っており、世間が期待するであろう謝罪もしなければ、責任も取る気もない。やはり住んでいる世界が違うようです。このあたりもオウム現象と共通するわけです。感覚が異なり、よってプロトコルが違うため、永遠のすれ違いとなるわけで、この人も今後相当に苦労しなくてはならないでしょう。
それは司法システムとモラルが乖離していること。特に神を知らない日本では言える。法廷では宣誓した上で証言するが、誰に対して宣誓しているのか、まったく不明。よって裁判で認定される"真実"と、現実の真実とは異なることがあり得る。だからこそ、聖書は兄弟姉妹を世の司法に訴えるなと明確に書いている。が、一部の人々は世の司法で認められることで自らの正当性を証明しようとする。愚かなもの。これで自分が何であるのかを自ら証明している。真に良心が神の前で安息している人は、世の司法に頼る必要もなければ、その裁きを恐れる必要もない。私たちの良心をきよめるものはただキリストの血だからだ。