No.4618の記事

あわれみは裁きに打ち勝つ

私たちがキリストの御座(ベマ)において裁かれる時(2コリント5:10;白い御座ではない!)、各自のしたことはすべて露にされる。木、草、藁は焼かれ、しかし本人は火の中をくぐるかのようにして救われる(1コリント3:12-15)。

神は峻厳なる方であり、私たちの今の地上の生活がその裁きにおいて耐えられるかどうか、仮に主の名によって華々しいパファーマンスをしたとしても、それが法則によらないものであれば、主ご自身から、あなたを知らないと拒否される(マタイ7:24)。コレは永遠の滅びの宣告ではないが、千年期の王国からは排除される。

その座において耐えられるものは何か−ただ各自の十字架による死と復活を経たものだけだ。今回の亀田親子の姿を見て、まさにその裁きの場面を思った。果たして私はその場面に立ち得るであろうか?自信はまったくない。が、だからこそ自分を否んで主に頼るのみ。しかもヤコブは素晴らしいアドバイスをしてくれている。

 「あわれみは裁きに打ち勝つ」。
 
もし私が地上においてあわれみを示すのであれば、例えば私に欠けがあったとしても、その分に応じてあわれみを受ける。朝青龍、安倍総理、そして亀田一家と、時代によって求められ、仕立てられ、踊らされたヒーローたちが落ちていく時、大衆はそのサディズム傾向を露骨に露にする。一方で少年法で残虐な犯罪を犯した者が保護されるが、18歳の少年(単なる虚勢を張った子供だよ)が今回のような場面に曝される。かくして

人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります和解しない者、あわれみを忘れた者

となる。これは世に対する言葉ではなく、クリスチャンに対する警鐘であると受け取るべきであろう。

げに恐ろしきは人間のココロである−特にキリスト教を信奉する者たちのそれは、自分が神の側に立っていると思い込んでいる分、不気味ですらある。