* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
山谷少佐が対峙しているクリチャン・トゥデイ問題についても、私のローカルチャーチについても、日本と言う国の特殊性による困難がつねにつきまとう。それはこの国は孤立した島国であるばかりでなく、情報においても孤立している点。情報が直接に入らず、あるいは自ら得ようとせず、加工された操作された情報が満ち溢れている現状。これがカプセル化現象のひとつの重要な兆候。
霊的真理の理解においても言えることだが、御言葉を日本語で考えて理解した時点で、立派なニッポンキリスト教神学ができあがる。これはギリシャ語から御言葉を解き明かして下さっているDr.Kさまも指摘されるところだが、日本語聖書の訳の愚かさには困ったものである。せめて岩波訳のように変な解釈を入れずに、なるべく直訳してもらいたいものだ。日本に福音が入ったのはいつなのか諸説あるらしいが、とにかく日本語の上に営々とニッポンキリスト教を建て上げてきたわけだ。
霊的な歩みをするためには、せめて英語だけでも理解する必要がある。最近のニッポンキリスト教のメディアが出版する外国物はほとんどがいわゆる売れ筋のものばかりであり、御言葉の真理を淡々と説くものがまずない。聞くところによるとウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』は絶版になってしまったそうだ。アンドリュー・マーレーはもう化石だし・・・。学問の分野でも言えるが、こういった古典がない分野は必ず衰退する。
私の目にはニッポンキリスト教の将来が見えている。それは商売する牧師たちと、自分の問題だけを何とかすべくアチコチさ迷う人々の群れ。いずれ消耗して、サバイバルすら危うくなるだろう。何故か、理由は簡単である。物理学を学んだら、ニュートンの運動方程式を<f=mα>と知るであろう。これは法則であり、私たちは絶対的にこれに服する必要がある。しかし今のニッポンキリスト教では、<f=mα^2>だとか、三乗だとか、それぞれに立派なセンセイたちがご自分の説を立てておられる始末。自然科学系の訓練を受けたわれわれから見ると、ニュートン以前なのだ!実に愚かな場面が展開している。
その中で何がほんとで何が嘘かも分からずにアチコチさまよい、あえぎ、窒息して人々が何と多いことか。先生たちの振りまく無意味な教えや情報によってかき回され、強迫観念的に"リバイバル音頭"を踊らされている彼らの惨状を見るとき、せめて自分で英語くらいは学んで、自分で御言葉と対峙して、自分で情報を収集して、世界において主が何をなさっているか、自分で知ることくらいはできないのであろうか?・・・と、要らぬお世話をしたくなってしまうのだ。
ここを覗いている人にもイロイロのタイプがあるようだが、よーく考えてみて下さい。まことの愛とは、<f=mα^2>を信じ込んで、それによって自分の髪を引っ張って空を飛ぼうとしている人に、その誤りを指摘することなのか、何でも愛して許してのニコニコ牧師顔で、「はい、がんばってぇ、神様はあなたを愛しているのですから、あなたの信仰が報われて、いつか必ず空を飛べる日が来るでしょう、それまで主にあってネヴァー・ギヴアップ。あなたの努力は必ず報われますよ、ニコニコ・・・」とやることなのか。
すでにCTやLCばかりが情報遮断されたカプセル化現象に置かれているだけでなく、ニッポンキリスト教自体が閉鎖社会(カプセル)と化しているのだ(→閉鎖社会の共同幻想)。閉鎖集団では必ず倒錯現象が起こる。すでに起きているでしょう、この業界。このコップの中で、千人教会だの牧師となることを夢見、何とか団体の理事長だのにのし上がり、この業界の有名人として名を残したい人々の群れ。やれやれ・・・。何ともな悲喜こもごもの漫画だと思いませんか?
某所に書いた内容ですが、機密事項は除いて(笑)、こちらにも転載しておきましょう:
CTをプロファイリングしますと、かなりエディプス葛藤が強い人物と診ています。つまり父親に対する男児のようなもので、既成の権威に対して対立する要素と、受け入れてもらいたいと感じる要素の、ふたつのアンビヴァレンツな要素が同居しているわけです。これが彼の動きの支離滅裂性の原因です。特に「クリスチャン新聞」と「OCCビル」が彼の葛藤を疼かせるトリガーとなるキーワードのようですね。
ですから、裁判は、エディプス葛藤を抱えるCT自身は本音はしたくないでしょうね。それはある意味で"父親殺し"になるし、同時に受け入れられたい権威を殺すことにより、"自分をも殺す"からです。現実的には、何とか鱗太郎弁護士が、「勝って失うものと、負けて得るもの」を比較考量できる真に優秀な弁護士であって、本当にCTのことを考える人であれば、裁判はしませんね。しかし昨今の乱訴で金儲けを考えたり、勝つ事を野心としている人ならば、やるかもしれません。でもこの場合、実質的にCTはジ・エンドです。
というわけで、CTの動きは今後も安定しないでしょう。今回のような恫喝と、(Sola Blogをそのままにしての)和解の申し入れといった、相矛盾した行動を取ります。こちらとしてはむしろそのような行動を取ってもらった方がいいわけで、それを炙り出して、その病理性を広く知らしめることが一つの鍵でしょう。
またダビデをキリストとするかどうかについては、先にも書きましたが、彼らの心の防衛機制により、意識の上ではもしかするとキリストとは思っていないかも知れません。しかし深層心理的実質的にはその位置づけがあるわけです。よって、普通はエディプス葛藤を回避するために、父親と言うひとつの権威の価値観の取り込みと同一視によって、安定化するのですが、CTはすでにダビデと言う「父=権威」がいますので、他の通常の信仰の権威と競合するわけです。これで彼は葛藤しています。これが私たちが覚える違和感のルーツです。だからクリスチャン新聞や救世軍の山谷さんに対しても、一面受けられる事を願いつつ、一面攻撃的に出ると言うアンビヴァレンツな行動を取ります。強く出たり、下手に出たりの繰り返しですね。
まあ、こういった解離(乖離)性が彼らの病理の本質ですから、それを炙り出すことで、彼らの異常性を世間に知らしめることができます。表向きの議論に勝つ必要はありません。議論の中で病理性を表出してもらえばよいわけです。
大体カルトでは理想的「父」像の投影を受ける事ができる人物がリッパな教祖となり得るわけです。いや、牧師なども同じですね。日本人の場合、エディプス葛藤を抱えたままと言うか、むしろ回避したままの生煮え状態の人々が多いわけです。
そこで包容力のありそうな、太腹に見える人物はエディプス葛藤を刺激しないために快いわけです。この意味で投影のスクリーンですから、何でも受容し、許して、愛して、と言う形ですね。教師とか医師などもこういった投影を受けますし、VIPの佐々木さんなどもこのタイプでしょう。しかしこれが裏切られたと感じると、やや病的傾向のある人々は、一転、凄いことになるわけです。
どうも一方で調停の圧力、一方で懐柔策と言う、ヤクザ屋さんの二人組みのような感じですね。ひとりは強面で迫り、ひとりはなだめ役の役割分担で落とそうとするやり方です。二枚舌は主の最も嫌うところでしょうね。
あとひとつ、エディプス葛藤のルーツは、父親からの処罰、つまり去勢を恐れる去勢不安にあります。この不安を解消するために、父親の価値観を取り込み、父との同一視によって男性性の確立、さらに権威を適切に畏れる社会化へと成長するのが正常です。ところがこれが病理的な現在の高柳氏は日本のキリスト教界から去勢される恐れと、同時に日本の教界の要求を飲めばダビデ氏から去勢されるわけで、この二律背反な去勢不安を抱えているわけです。
再三指摘しているとおり、CTの支離滅裂製の根拠はここにありますが、彼のやたらと理知な文章とやたらと幼稚な振る舞いの乖離性も、この葛藤によるわけです。つまりただでさえエディプス葛藤を相対化することによって解決していないのに、父親(権威)を二人持ってしまって、その狭間で葛藤しゆれている状態を知性によって回避しようとする試み(合理化)の反映ですね。だから言ってる事とやってる事が、漫画的に見事に相反しています(笑)
下の方でビョウキの定義を述べよとのご依頼がありますので、こちらでちょっとご回答をしておきましょう。
前から何度も書いているとおり、現代の特徴は自己の病理にあります。自己をすべてとし、自己を物差しとし、自己が価値判断の中心、自己が自己に仕えること。私の定義するビョウキとはコレです。自己が世界の一部ではなく、自己が世界と同一視されてしまうこと。これが倒錯を生む。現代はこの世も、教界も等しく、この自己の病理に冒されています。かくして牧師が信徒を喜ばせ、信徒もソレに乗っかり、互いに狂言回しをしている。そして聖書はこのような時代の到来を預言している:
だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
また 終わりの時代は自己の時代であり、すでに次のみ言葉は成就している:
こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。
どうもここで「ローカルチャーチ情報サイト」の公開をアナウンスしてから、2ちゃんねるでの工作が活発になっているようです。そんなに公開されるとまずい情報を私が持っているわけでしょうか(苦笑)。
ご参考までに2ちゃんねるという場でどのような工作手法がなされるか、ちょっと紹介しておきましょう。工作と言うにはあまりにも幼稚なので、私としてはこれらはローカルチャーチのメンバーではないと希望的に思っているのですが。どうも数名、私に粘着したいネズミさんがいるようです。もしこれがローカルチャーチのメンバーによるものでしたら、彼らの病状はかなり悪化していると診るべきでしょう。いずれにしろ倒錯した場ですが、一般常識的にはどう判断されるでしょうか。
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再建主義の富井さんが、「とにかく社会主義をすてるしかない」と主張しておられます。この論には私的にもかなり賛同できますね。彼は共産主義ソ連の末期を体験的に知っておられるので、このような危機感を強く覚えているのでしょう。先に私も言いました:キャリア官僚の権限を最小限にして、必要最小国家を実現することは容易ではなく、むしろ彼らが国を食い潰さんとしていると。現在の国と地方の債務、約1,000兆円。
昨日紹介したフィンランド人とケータイの関わり方と日本人のそれが本質的に相違している事実は極めて面白い。ネットにおいても日本人の匿名性が指摘されているが、これはアイデンティティの確立と無関係ではない。
実は自殺の社会的要因として、ドゥルケムは「匿名的自殺」と「自己中心的自殺」をあげている。前者は社会的拡散と共有する価値観の喪失を原因とする。これは現代の日本で言えば、中高年の自殺の要因と言える。後者は屈折した自己主張的自殺と言えるが、最近の子供たちのイジメを理由とした自殺が該当する。
日本人のITとの関わり方の特性として、実はこの匿名性と自己主張性が非常に巧妙に絡んでいる。すでに述べたように、希薄な自己(匿名性)の屈折した確認法(自己主張)としてネットが日本人の心性にピタリと適合する。日本人の精神病理の本質は強迫性である。いわゆるガンコ・マジメ・完全癖・意地を張る・こだわる・嫉妬深い・妬み深い・・・。
これがためにクルシチャンは自家製の律法(ねばならない・かくあるべし)を設けて自作自演的に苦しむわけ。ひどくなると強迫性障害(強迫観念・強迫行為)に陥るが、日本人の場合、強迫性人格障害者はかなり多いと推測される。前者は強迫神経症であるが、症状が苦痛で(自我疎外性)、治りたいと感じる人々なのだが、後者は症状については自我親和的で、この場合、本人は苦しまないが、他人がとばっちりを蒙る。
この強迫性は分析的には肛門期におけるリピドーの固着と退行として説明される。つまりは2-3歳位になると自我が芽生え、親との確執を経験するようになる。この時期に排便のしつけが行われるが、これが親との交渉の武器となり、自己主張の道具として用いられる。つまり日本人の湿ったネチネチした性格は、この時期における葛藤(これをエディプス葛藤と呼ぶが)に起因するわけ。他者と自己の境界線が曖昧なのは、いわば親子関係の再現であるから。よって無礼を良心の呵責を覚えずに行うことができる。日本人の公共心の欠如も世間は家庭の延長に過ぎないから。大人の人間関係のトラブルは実は親子関係の再現なのだ。
この時期にこじれた感情はエディプス・コンプレクスと呼ばれるが、実はこの葛藤と去勢不安(言うことを聞かないとオチンチンを切っちゃうわよ)によって、子供は超自我(良心)を分化させる。(実はトイレを観るとその国民性が分かるのだ。)この時期には親との葛藤で相当のせめぎ合いがなされ、親に屈する屈辱感と、親から受け入れられる安心感のアンビバレンツ(両義的)な複雑な感情を抱きつつそれらを抑圧する。この要素が強い性格を肛門性格と言う。これが他人あるいは自己に対する攻撃性(肛門加虐性)と逆に受身性(肛門被虐性)となる。
このリピドーが性的色彩を帯びたままダイレクトに表現されると、性的倒錯としてのサディズムとマゾヒズムとして、このリピドーが知性化あるいは合理化されて表現されると、言葉と論理による偏執的な攻撃性になる。最近のイジメの問題も、実は学校制度の問題などではなく、この精神病理によるのであって、制度をいじったところで決して解決しない。しかも加虐性と被虐性は何かの契機によって簡単に入れ替わる。しばしばいじめる側とられる側は同じ病理を有している(cf.「ユダヤ人と日本人」)。
ITメディアはまさにこの精神病理の表現・解消手段として、日本人には絶好のアイテムとなる。かくして肉の中にブロックされたコンプレクス(感情観念複合体)の発散を試みて、延々と掲示板の誹謗中傷・ケータイでの村八分・Blog炎上・晒しなどのITリンチが行われる。しかも見かけは冷静に、世間の常識に沿っているかのように、知的によそわれた形によって。このあたりの消息は昨日紹介しいたサイトを参照のこと。あるいは自殺サイトで一緒に逝ってくれる仲間を求め、互いに暖め合いながら、逝ってしまう。
昨日紹介した『他人を許せないサル』において著者は、ケータイなどのITメディアは進歩と言うよりは、日本人の心の根本的問題へとむしろ回帰させていると述べているが、まさにそのとおり。今後の日本はますます閉鎖性と倒錯性を高めることだろう。その倒錯した閉鎖世界で、病理が加虐性として現れるならば「2ちゃんねる」などに観られる現象が、被虐性として現れるならば、自殺サイトで知り合った見知らぬ者たちが一緒に練炭自殺するような現象となる。
キリスト教界においても、例えば見かけの神学論争なども、実はこの病理と密接に関係しているわけで、キリスト教界で起きている事象なども、霊的真理の探求と言うよりは、ほとんどは精神病理の表現に過ぎない。つまり魂の現象。メインラインは福音派を見下し、福音派は聖霊派を見下し・・・と言う「入れ子構造」も、まさに上の病理の現われに過ぎない。神学の立場は異なるとしても、実はいずれの病理も同じなのだ。
しかし真に聖なる神にわずかでも触れ、神に対する正常な畏れをいただいているならば、表現形はもっと変わるだろう。少なくとも現在の状況とは異なるはず。論争の開始はいわゆるこだわりの感覚が惹起され、粘着現象として開始されるが、この粘着性はまさに肛門性格の偏執性そのもの。表面はきわめて知的に装われていても、根底にあるのは同じ。キリスト教界の病理とは実は日本人の病理そのものなのだ。(→閉鎖社会の共同幻想)
今回のCT問題で絡まれついでにちょっと考えてみる機会がもてたのだが、これでストーカーの病理を論じる準備もできました。また、後ほど。
→温泉までT-27Days
金さまが六カ国協議に戻るそうです(→記事)。相当に体制維持自体も厳しくなっているのでしょう。
今後のもっとも理想的なシナリオは、イラクのようにアメリカがミサイルを撃つことではなく、北朝鮮の国民がクーデターにしろ、革命にしろ、何でもいいですから、自ら金さまをターミネイトすることです。あのチャウシェスク政権のごとくに。そうすればイラクとは違う形で、自ら真の民主国家を築くことができるでしょう。
私はこのシナリオの実現を祈りたいと思います。
今週号のカバーストーリーは安部氏だった。同氏の国粋主義的スタンスを論じていた。彼は懸命に「美しいニッポン」の形を作り、ニッポンのアイデンティティを確固たるものにしようとしている。
また本日の『日経』に小学生が教師に暴力を当たり前に振るい、そのひとりの「英雄的行為」によりクラス全体が盛り上がって学級崩壊を起こしていると言う記事があった。教員も殴られる一方で、手が出せないのだ(児童の人権により体罰はただちに懲戒解雇の理由となる)。
さらに『週刊文春』に精神分析学者の岸田秀氏が「天皇制は希薄なアイデンティティの日本人の共同幻想を維持するためのシステムである」として、日本国の維持のためには(良し悪しは別として)天皇制が必要であると述べていた。この3つの話題、実は根っこは同じなのだ。
昨今、若者が他人を見下す傾向が強いことが指摘されている。客観的な根拠は何もない。これを「仮想的優越感」と言う。これは若者ばかりでなく、ネットなどでも、言いたいことが言え、書きたいことが書けるため、ある種の幻想的全能感を抱く。かくしてネット上にはきわめて多事争論、リッパな「論客」が多いわけ。
こういった行為は他者を貶めて自分の価値を上げ底しようとする心理機制であり、境界性や妄想性人格障害などの人々などでは特に顕著に見られる。これらの人々の特徴はある種の幻想(あるいは妄想)的世界に生きており、リアルの世界では、実はきわめて自己充溢感(アイデンティティ)が希薄なことである。
自分に真の意味での実質・自信・満足・喜びがない者ほど、仮想空間では根拠のない自我の肥大化を起こす。このような人々が集まることにより、前にも書いたミームを共有し、互いの共同幻想を膨らませ、空虚に肥大化した自我をさらに肥大化させていく。まさに精神病理的なバブル現象と化す。
現在のニッポンの社会で、またそれを上回ってニッポンキリスト教界で起きていることは、実にコレなのである。精神病理的バブル、霊的バブル、共同幻想の肥大化。先の宮内氏の指摘される崩壊の兆候は確かに見えている。
今週号のカバーストーリーは安部氏だった。同氏の国粋主義的スタンスを論じていた。彼は懸命に「美しいニッポン」の形を作り、ニッポンのアイデンティティを確固たるものにしようとしている。
また本日の『日経』に小学生が教師に暴力を当たり前に振るい、そのひとりの「英雄的行為」によりクラス全体が盛り上がって学級崩壊を起こしていると言う記事があった。教員も殴られる一方で、手が出せないのだ(児童の人権により体罰はただちに懲戒解雇の理由となる)。
さらに『週刊文春』に精神分析学者の岸田秀氏が「天皇制は希薄なアイデンティティの日本人の共同幻想を維持するためのシステムである」として、日本国の維持のためには(良し悪しは別として)天皇制が必要であると述べていた。この3つの話題、実は根っこは同じなのだ。
昨今、若者が他人を見下す傾向が強いことが指摘されている。客観的な根拠は何もない。これを「仮想的優越感」と言う。これは若者ばかりでなく、ネットなどでも、言いたいことが言え、書きたいことが書けるため、ある種の幻想的全能感を抱く。かくしてネット上にはきわめて多事争論、リッパな「論客」が多いわけ。
こういった行為は他者を貶めて自分の価値を上げ底しようとする心理機制であり、境界性や妄想性人格障害などの人々などでは特に顕著に見られる。これらの人々の特徴はある種の幻想(あるいは妄想)的世界に生きており、リアルの世界では、実はきわめて自己充溢感(アイデンティティ)が希薄なことである。
自分に真の意味での実質・自信・満足・喜びがない者ほど、仮想空間では根拠のない自我の肥大化を起こす。このような人々が集まることにより、前にも書いたミームを共有し、互いの共同幻想を膨らませ、空虚に肥大化した自我をさらに肥大化させていく。まさに精神病理的なバブル現象と化す。
現在のニッポンの社会で、またそれを上回ってニッポンキリスト教界で起きていることは、実にコレなのである。精神病理的バブル、霊的バブル、共同幻想の肥大化。先の宮内氏の指摘される崩壊の兆候は確かに見えている。
ここで紹介されたベニーヒン・ビデオを御覧になって、どうしてこんな人物に酔う人々が多いのかと不思議に思われた方も多いと思います。実は精神病理で「フォリ・ア・ドゥ(folie a deux)」と言う病気があります。直訳すると「二人狂い」。別名「感応精神病」とも言われ、簡単に言えば、ひとりの病気(妄想など)が他の人へと伝染するわけです。「三人狂い」ならば「フォリ・ア・トロア(folie a trois)」と・・・。かくしてこのような妄想などの病理を共有する集団が出来上がるわけです。
この媒介をするのが「ミーム(meme)」と言われるもの。オックスフォードの生物学者リチャード・ドーキンスが80年代に提案した概念で、一言で言えば、「思いの遺伝子」(もちろん物理的な存在ではありません)。ドーキンスによると、心の中の情報単位であり、その複製が他人の心の中にも作られ様々な事件に影響を及ぼしてゆくもの。病気の人たちの間での妄想共有ばかりではなく、カルトでの共同幻想・妄想や、世の中の噂話や流行、世論の形成など、このミームが飛び交うことによってあるひとつの流れが形成されていくわけ。
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精神分析学者の岸田秀氏が、人間は本能が壊れており、現実と直接に接触することができず、したがって自我を守るために人間は幻想の世界を構築し、その中に生きていると論じている。彼の「唯幻論」である。神から分離された人間は確かにそのとおり。今回の鈴香容疑者を見ていると、まさに母性が壊れて、愛欲と恨みの幻想(いや、妄想か)世界に生きているとしか言えない。
ニッポンキリスト教界と関わるようになって、私もこの手の人々と接してきたが、キリスト教と言う価値観あるいは宗教の体系にどっぷりと漬かっていると、さらに本能が壊れ、人間としての自然さを喪失するようだ。彼らは閉ざされた「自己」というバイアスのかかったフィルターを通してしか周囲を見ることができない。彼らの物の味方の中核にあるのは病んでいる自己(Self)。
ある人は主イエスという方を忘れて何とか神学にはまり、現実との接点を失って、ヴァーチャル化あるいは妄想化し、生の痛みや喜びを喪失している。ある人は「聖霊様現象」の追求によって、「リバイバル音頭」を踊らされ、社会との接点を失い、自然の人の生き方を見失っている。この業界も鈴香容疑者に負けず劣らずに病んでいる。
自然のいのちの発露を味わうことを知っている人は幸いだ。クルシチャンたちよ、ニッポンキリスト教と言う宗教の囲いからエクソダスせよ!そして自然な人間の生を味わおうではないか。もちろんそれはアダムにある肉の生き方ではなく(これは自然から外れた歪んだ生き方である→ローマ1:26,27)、再生された霊による復活のいのちの内的発露による生き方である。
私たちの生きること死ぬことにおいてキリストがおられれば、生死は問題ではなくなる。生と死の中に形だけのキリストを自己努力で求めることがなければ生死に惑うこともない。
これは夾山、定山と言われた禅師のことばである。道を開いた人の言葉であるから、虚しいものではない。生死から解放されたいと思う人、その願いをまず諦めよ。もし人が生きることそのもの以外にキリストを求めれば、まったく見当はずれのことをすることになる。ますます生死の問題を背負い込んで、解決の道を失ってしまうだろう。生きること死ぬことそのものに神の国があるのであって、生きること死ぬことを厭うべきでなく、神の国を他に願うべきでもない。この時に初めて生死のような二元的世界を離れることができる。
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今日の精神保健学の講義で、情動と大脳の関係について触れた。最近のいわゆるキレ易い若者が辺縁系下部にある扁桃体に問題があり、さらに感情を制御する前頭前野の抑制力が落ちていることを説明した。そう話している間に、学生たちはいつもながらあっちでペチャペチャ、こっちでクチャクチャの状態・・・溜息。
で、帰宅の車の中でNHK『クローズアップ現代』を観ていると、なんとまったく同じテーマの話ではないか!大脳の血流を観察することにより、制御の中枢が前頭前野49野にあることを報告していた。
実は聖書で言う魂(Soul)は、知性・感情・意志からなるが、その大脳の対応部位はそれぞれほぼ、海馬・扁桃・前頭葉である。海馬は記憶を、扁桃を含む辺縁系は情動を、前頭葉は意志や意欲と関係する。そして扁桃で生じた感情は前頭葉の制御を受けるわけだが、最近の若者(ばかりでもないが・・・)はその制御が弱いのだ。
この扁桃と前頭葉をバランスよく成長させるためには、人間関係がポイントであると報告していた。子供時代にいわゆる「じゃれる」こと。互いの肌感覚を味わう必要があるわけ。将棋などもPCとしていると前頭葉は機能しないが、対人的に行うと活発化する。かくしてゲームなどにのめりこむ時、人の前頭葉は機能低下を起こす。これがいわゆる「脳内汚染」であり、昨今の猟奇的事件のルーツである。
要するに人間は肌で自然や人の温もりを味わう必要がある。このタッチがないと大脳は前に述べた仮想化を起こし、人間性を育むことができない。実は信仰も同じこと。神学書に埋没しつつ論争に明け暮れ、互いに虚勢を張り合い、虚しいいわゆる儀式や奉仕にのめりこむ時、大脳も偏向した成長をする。かくして神学オタク、霊能者オタク、リバイバル・オタクが誕生する。彼らは生身の肌感覚で人と触れることができない。それを煽るのがネットである。
私は結婚生活や子育ての経験のない御リッパな「結婚評論家」や「カウセンセラー」のお話などはまったく信用していない。経験がない者にどうして分かるだろうか?しかし現実にはこういった「専門家」が多いのだ。彼らの大脳のMRIを診ればおそらく相当に偏った機能をしているはず。
私たちにとってもっとも大切なのは、人間生活を淡々と、当たり前を当たり前に、普通のおじさん・おばさんとして生きること。信仰と私たちの「生」は分離し得ないのだ。現在これらが切り離された生の「生」を知らない、仮想的信仰に生きる「クリスチャン」があまりにも多い。これがニッポンキリスト教の病理のルーツである。すでにこの業界自体がヴァーチャルな世界なのだ。
(影の声:私はニッポンキリスト教の牧師や信徒の大規模な心理テストとMRIによる大脳の検査をしてみたいと内心感じている。相当にヤバイ結果が出るような気がするが・・・特にセンセイたちが・・・汗)
救世軍の山谷さんのBlog(2月19日)に実に面白い見解があったので、ご紹介します。私の「言いたい事」を実に的確に指摘されています。
「核家族の中で、生きる能力も、物を作る能力も、もてなす能力も、隣人を受け入れる心の度量も、ほとんどあるかないかまでに削り取られ、やせ細させられて、自分の生活のことだけできゅうきゅうとし、関心事と言えば『物』を消費し『神』を消費する以外になんにもない、という現今のキリスト者」
自分(Self)がすべてのスタートにしてゴールである現在のキリスト者が、「『神』を消費している」と言う指摘はきわめて深刻な問題です。ここに様々のいわゆる「ミニストリー」や「メディア」や「先生」が商売する隙があります。これは「リバ新」の社長にも言ったことがありますが、真にひとりひとりが神の前に立てるようになったら、あなたがたは失業するでしょう、と。私たちの度量(キャパシティ)が問われているわけです。
だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。・・・人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。