最近の日記

みなさま、良いお年を

今年の日記は今日で終了します。しばらく篭りますので。お付き合いいただきありがとうございました。で、来年は再開しようか、どうしようかと今考えております。そろそろ十分かなとも感じているのですね。

ではみなさま、主にあって良いお年をお迎え下さい。

Every Blessing!

いい温泉でした

湯河原の白雲荘に1泊。ここは親父が健在の頃いっしょに何度か来ているが(ふと親父を懐かしむ・・・)、露天風呂も、懐石料理も良く、穴場的宿。グッタリと脱力する。今日は富士急ハイランドで遊ぼうとするも、積雪でアウト。早々に帰ってきました。

 * * *

しかしスマトラ沖の地震は凄い。1000`にわたって逆断層が生じ、最大で地形が36bも移動。被災者数100万、死者7万!自然のパワーに人の営みなど簡単にねじ伏せられる感じです。

小話をひとつ

スイミングでサウナに入っていたときの話。ドドドっと婦人たちが入ってきて、私のとなりにひとりの婦人が座ろうとしたところ、なぜか転げ落ちた(段があるのです)。で、一言、「あたしは若い男の傍に最近寄ってないんで、あがっちゃって、落ちたわよ、ハハハ」。すると隣の婦人が「そうね、あんたなんか、毎日線香上げてるだけだもんね。ははは」。小生、苦笑しつつ、心の中で「おいおい、僕も若くはないんだよ。あと2つで50だぜ」と・・・。ご婦人たちはいつも元気です。ハイ

驚きますね

M9.0の地震と、時速700`の津波。死者2万人!日本人も相当に含まれているとの事。想像ができません。普通は地殻の歪の蓄積限界からM8.5程度までとされているようですが(力武常ニ氏の岩波新書の『地震学』にそうあったような・・・)。

日本海溝辺りのプレートのもぐりこみ辺りの跳ね返りによる関東地域の地震もそろそろ心配です。高校時代に小松左京の『日本沈没』を読んで、暗澹たる思いになったことを思い出しました。あの頃はノストラダムスも流行りましたしね。私はわりと単純に信じ込んでしまう方なので・・・。

力を抜くこと

ニッポン人はどうもこれが下手。だからチマチマ・ギスギス。どうも首の辺りが凝ってしまいそうな気配。ニッポンキリスト教界も例外ではない。これは実は勤勉さ(=強迫性)の病理と共に、人の目を気にする結果。

だから私は距離を置きたくなる。何しろマッタリとグータラしているのが大好きなので・・・。今日はポツポツ大掃除の真似をして、明日はようやく温泉です♪

補遺

クリスチャンは遊ぶ時も、もちろん、主と共に、ですね^^(一応言っておかないと、宗教している人から怒られそうなので・・・)

ホモ・ルーデンス

人は遊ぶ動物です。わたしの日記に映画の話やテレビの話がたびたび出るので、よく時間がよくありますね、と感想をいただいた。そうなんですね、わたしは抜く時は目一杯抜いています。集中する時は短時間でかなり仕事をこなしますし、つねに頭には何かしら複数の課題を抱えています。で、アウトプットする時はダダダダーと出るわけです。それ以外はなるべく遊んでいたいのですね。

東大に入って驚いたのは、いわゆる超進学校の連中は実によく遊んでいること。わたしの友人で東大の物理で理学博士号を取ったヤツは、高3の時はほとんど毎日雀荘に入り浸りだったそうだ。マスコミで活躍している人たちもきわめてよく遊んでいる。夏休みは2ヶ月も取って海外でまったくフリーな時間を過ごす。わたしの知っているドイツの牧師も夏休みは1ヶ月もスイスでフルに遊ぶ。

伝道、奉仕、十一献金、デボーションに弟子訓練など、「悔い改めよ、悔い改めよ!」で目を吊り上げているニッポンキリスト教徒を見てたら、誰もクリスチャンになりたくなくなってしまう。前にも書いたが裸一貫、タクワンに味噌汁で開拓伝道を初めて、艱難辛苦の40年・・・と言った牧師先生の証は聞いているだけでめげてしまう。

遊びには建設的な要素があります。仕事のできる人は、実はよく遊んでいる人。アンテナを張って、好奇心を絶えず敏感にし、外へ向けて働きかけること。これが心の健康を増進します。教界の中で内へ内へと閉じ篭って、テレビも映画もダメ、温泉もダメ、ディズニーランドも悪霊につかれるから、と言った現在の教界の様は多分に不健康なニオイを感じてしまうのですが。

わが家には家族で遊んだ(一時は年間100万も遊びに使いました)記録が、アルバムやビデオの山となっています。みなさまはいかがでしょうか。目一杯遊んでいますか?人類はホモ・ルーデンス(遊ぶ種族)なのです!

 * * *

やっと今日で今年の仕事納め。今年1年の恵みのゆえに主に感謝いたします。

事の真相

タケシの番組で歴史の裏舞台をレポートしていた。

48年間FBI長官として君臨したフーバーは、ひたすら敵になりそうな権力者や人気者の裏を盗聴し、弱みを握って自分の思い通りにしてらしい。ケネディは言わずもがな、チャップリンやあのキング牧師ですら女性との愛人関係を暴かれて、フーバーにつぶされている。(私などはボロ丸出しだから、盗聴するまでもないが^^)

しかし面白いもので、逆にフーバー自身は誰も信頼することが出来ず、つねに盗聴を恐れて、心の休まる間がなかったとのこと。結婚もせず、ペットの犬だけに心を委ねたようだ。これも独裁者の陥るパラノイドの心理である。

また忠臣蔵の吉良は実は名君であり、浅野の恨みを買うべきことはなかったらしい。実はこれはその通りらしく、浅野は木の芽時の病気、つまり鬱病による癪があったらしい。二人の喧嘩を幕府は利用して、幕府に対する民衆の鬱憤を吉良に負わせるべく、あえて大石らの討ち入りを見て見ぬ振りをしたとのこと。さらには幕府は吉良をあえて堀の外に屋敷換えした。これも実は資料で裏付けられる。

前に大石のことを書いたが、アレは脚色であることは十分知っている。そもそも松の廊下の刃傷も事実と違い、別のもっと目立たぬ場所での一件だったようだ。これらの検証は、野口武彦著:『忠臣蔵』(ちくま新書)を見るとよく分かる。地元では吉良の評判はすこぶる良いのであるが、事の成り行き上、日本史に誇るべき悪役とされてしまったわけ。

事の真相は、しばしば民衆が喜んで受け入れるところと違うところにある。

今日再び・・・

主に感謝します。数年間交わりが遠くなっていた兄弟姉妹からお手紙をいただきました。うれしいですね。

J&Aさん、見てくださっていたら、God bless you!

ちなみに

その底の抜けた間、繰り返し聞こえていた声は、「エリヤの神はどこにいるか」でしたね。

ふう〜、思えば遠くへ来たもんだ

大学の講義も今日でオシマイ。しばらく解放されます。私たちは何かしら頭をいつも使っていますので、何も考えたくないと思うことがよくあります。とにかく頭をアイドリングして、ボーっとすること。映画に没頭したり、温泉につかったりで、このような時間がけっこう至福の時なのです。

かつて博士号は取ったものの、大学のポストがなく(あっても安月給で魅力を感じなかったのですが・・・)、予備校だけで教えていた時代は、一日に90分講義を4から5コマ、一週間に20数コマこなした時代もありました。私はたいした人気はありませんでしたが、それでも一コマ3万円ほど取っていましたから、けっこうな高給取りでした(と言っても、税金などで持っていかれてしまう)。人気があれば3千万以上、人気がなければ即クビです。要するにホストクラブです。「高給時雇い労働者」、あるいは「チョーク芸者」とも言われます。

保険も国保・国民年金で自前、失業保険もなく、病気をしても何の保証もありません。毎年春にクビがつながるかどうか、冷や冷やしたものでした。球界には労組があるが、この業界にはそれもない。要するに一匹狼の集まり。

で、結局実質的にリストラされたわけですが(切り方はきわめて巧妙に追い詰めるのですよ)、その直前に主が用意してくださったのが、今のポストです。面白いもので、底が抜けた時は、「生命保険があるから高速でわざと事故ってしまえば、保険金で家族は守れるし、マンションのローンは団信保険で返せるし、子供の学資は子供保険の年金は下りるし・・・」などと考えるのですね。

いつもGパンの私は学生の延長みたいであまり生活感がない、と言われるのですが、一応人生の荒波をくぐっているわけです。あまり浪花節は言いたくないので、こういったことはリキ入れて語りたくないのですが、年末を迎えて、帰宅途中の車の中でよくここまで来れたものだと、改めて主の御手を感じた次第です。

ニューエイジと心理学

ニューエイジと心理学は"O"の一文字違いです:

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主こそ道

私たちは目先の問題や困難に見舞われるとき、人や、方法や、手段を頼りとします。そしてそれらに希望を置けないと、道が塞がされたと感じ、絶望感や抑うつ感に落ち込みます。しかしそのようなものを探し続ける限りは道は開かれません。ますます閉ざされるように感じるでしょう。

イエスが「わたしが道である」と言われたように、イエスを見出す必要があります。方法ではなく、お方(パースン)です。主は私たちが耐えられない試みに会わせることはありませんし、しかも逃れの道を用意して下さっています。さらに「わたしは誰にも閉じることの出来ない扉を開いておいた」と語って下さいます。主がなさる時にはラクダも針の穴を通るのです。

じっと静まって周りをよく見れば、アブラハムのように備えの羊を見つけることができます。「主の山に備えあり」です。

キリストvsキリスト教

MSGをお聞きになった方から質問を受けました。Dr.Lukeはキリスト教信者ではないのかと。私はあえて強く言いたいですが、私はキリスト教の信者ではありません。キリストを信じていますが。

「教」はイロイロな事柄を私たちに要求しますが、キリストは私たちに「いのち」を与えます。「教」と「いのち」の間には大きな溝があります。「教」は飢え渇きを癒しませんが、キリスト(いのち)は満たして下さいます。

イエスは一連の教義の体系を構築し、"dos and don'ts"を決めて、「キリスト教」を地上にもたらしたのはなく、パンと魚としてご自分のいのちを私たちに分け与えて下さるのです。むしろイエスは「教」の縛りから私たちを解放して下さるのです。