最近の日記

昨今の学生模様(2)

前に試験成績に疑義のある学生の話を書いたが、その際、電話連絡が取れず、対応できていない学生が1名いた。本日の講義でその女子学生が来て、「先生から連絡がなかった・・・」と不満げな様子。私:「君の携帯に何度も電話したけど連絡できなかったよ・・・」。(少し考えてから)彼女:「あ、そうだ!あたし、携帯の番号変えたんだっけ!」。私:(内心で、ムッとしつつ:またこれだよ・・・)。

で、マークシートの山から自分のものを探し出させ、自己採点させた。デキは結構良く、採点漏れになった原因を調べると、案の定、学籍番号の記入ミス。その女子学生いわく、「あたしっておっちょこちょいなのぉ〜♪」。

やれやれ、きょうびはこの種の人間ばかりです。この世も教界も、自己責任の原則はどこへ行ったあ〜!(と、世界の真ん中でカーツと叫びたい・・・)

霊的精鋭部隊-霊的覚醒への備え-

私の本では、豪華なステーキを振舞うのではなく、必須アミノ酸をバランスよく含んだ、プロテインスコアの高い霊的精進料理を提供すると書いた。しばしば教会関係の本は、見かけだけゴテゴテしており、内容が希薄。たとえるとマシュマロにホイップクリームを塗ったようなもの。私の本は堅いし一口目では味はないが、噛めば噛むほど味わえると思う。で、すでに出版前に予言したとおり、評価の黒白が明確に分かれている。http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing31.html

ある人たちは目からうろこで、真に霊的真理に目を開くことができたと言われ、ある聖霊派の神学校では「理解できない本」とされているらしい。私のミニストリーについてもある人はレクチャーテープも高いと感じていたが、一度学び出したらはまってしまったと言われ、ある人たちは意味不明と言われる。ある人たちはセレブレーションで主の愛に触れられ、涙があふれ出て、同時に内側が新鮮に潤われると言われ、ある人たちはDR.ルークは愛がなく、冷たく突き放すタイプだと言われる。ある人たちはDR.ルークのメッセージはこれまで聴いたことがない内容で新鮮であり、聖書が新しく開かれたと言われ、ある人たちは言葉が鋭く切られるようで聴いていられないと言われる。このコントラスト!実に面白い。

私の書き物にもメッセージにもいわゆる口当たりの良い調味料、特に砂糖や蜂蜜は一切添加していない。むしろ塩辛いし、苦いと思う。よっていわゆる大衆受けはしないし、してもらっても困る。私は真理は基本的に少数の者たちが継承するものと考えている。真理は大衆とは相容れない。この意味で必要な栄養分を十分に含んだ食物を、代価を払ってまでも追求したい心のある人々に届けば良いと考えている。テープの値段もそのように設定しているが(あまり売れないだろうと言う値段)、予想に反して注文が殺到し、少々お待ちいただいている状況。真摯に追求している人がこれだけおられることを知って励まされている。中身がなければ詐欺になる値段設定であるから、繰り返し購入される方が多いことは、それに見合う中身を提供できているものと勝手に判断している。

神が今必要としている器は、大衆受けする甘いマスクの霊的ヨン様ではない。ギデオンの軍隊で分かるとおり、3万人ではなく、精鋭の300人でよい。無駄な肉を削ぎ、鍛えられた霊的筋肉で武装した少数のソルジャーたちである。ある意味で私のミニストリーはそのような霊的精鋭部隊に仕えているのかも知れない。が、大衆受けする甘ったるいミニストリーは山ほどあるから、変り種がひとりくらいいてもいいでしょう。(これでまたDR.ルークは高慢の霊につかれたエリート主義者だとか言われるでしょうね^^)

真理がまことに適切な地に撒かれるならば、必ず実を産出する。北海道から沖縄まで、御言葉がまかれ着実に育つならば、神はその少数者を用いて業をなさることができる。リバイバル(本当は霊的覚醒と言いたい)とはある日天から突然に「来る」ものではない。着実な準備があってのみ神は働くことができる。私が「聖霊の原爆」などは眉唾であると言うのは本気である。パウロは「私はあの大使徒にも劣らない」と皮肉を言っているが、私も「あの大預言者にも劣らない」と言おう。「私にも神の霊があると思う。」

感情論からの脱却

ある教会がカルト化しているとかで、私もそこを離脱した方々のお話を伺うことが機会がある。その際ひとつ感じることは、感情論が先行していることである。問題点を伺っても、感情的な発言ばかりで、何が本質か見えてこない。

その牧師が独裁だとか、不倫があるとか、預言が外れるとか、献金の要求が強引だとか・・・、それは現象論に過ぎないのであって、それを生み出した病根が見えてこない。逆に私どもの理解力の欠如を云々される。それどころか私がそこの牧師と似ているとか言い出す人もあるようだ(ヤレヤレ)。

ネットでも色々な議論があるようだが、離脱した方々も自分が経験した範囲での感情論を取り扱っているに過ぎない。そこでの「教え」にアンチテーゼを提出しているに過ぎず、オールクリアして一から真理を学んではいない。つまり形は離脱しても、そこのものをそのまま引きずっている。それではおそらく10年経っても同じところをグルグル回るだけである。

要するに真理がないからである。聖書は一応読んでいるし、御言葉も知ってはいる。が、それが有機的なネットワークとなっていない。メッセージにしても御言葉の部分部分をつなぎ合わせて、「自分が主張したいこと」を、御言葉のカバーをかぶせて主張しているだけ。自分が聞いてきたことを捨てようとしない。お分かりでしょうか。ここでも自分の魂を救おうとしている。霊と魂が分離されていない。

他人が自分のことを分かってくれないと憤りを感じる場合はよほど注意が要る。それはまさに裏切られた自己愛の裏返し。特に日本人の場合は甘えの構造がからむのでややこしくなる。私はそのような場合、「あなたと私に何の関わりがありますか。あなたはあなたで主に従いなさい」と申し上げることにしている。聞く耳をもって、学ぶ姿勢のない人には何らの助けを提供し得ない。

「その日」には主の前に一人で立ち、主に対して自分が何を申し上げるか、その場面を思うべきである。

ブッシュとシャロンの病的関係

田原さんの番組でこの二人のパラノイド患者の関係をレポートしていた。シャロンがヤシンをミサイルで殺したり、その後継者までも暗殺した背景にはシャロンの犯罪を隠蔽する意図があるとのこと。ブッシュはそれを黙認し、かつあの病的な塀の建築を認めている。それも彼の選挙のため。

同番組でもレポートされていたが、クリスチャンたちがイスラエルに入れ込む様を見ているとほとんど狂気に近いものを感じる。パラノイドの病理の共有である。

ここで再度語っておきたい。神は最初から教会(エクレシア)を得たかったのであり、その経綸を進めるためにイスラエルを選んだのである。エクレシアの選びはいのちへの選び(本質的選び)、イスラエルの選びは善悪の路線上での選び(機能的選び)である。

ある聖書解釈や主義が刷り込まれるならば、いのちから離れて、神の名によって殺人を犯して、これが神の御旨であると宣言する。まさに霊的狂気。前から語っている通り、これからますますイスラエルを巡り教会が傷を受けることになろう。
http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing53.html

楽天は気に食わんゾ

ライブドアがせっかく新規参入の道を開いたら、そこへ楽天が割り込みをかけているようだ。しかもバックに財界や政界の面々を据えて・・・、実に気に入らん。こういった既成の何か顔役を据えて自分売り込む輩には正直言って軽蔑感を覚える。何で自分自身で正々堂々と勝負ができないか。

こういったコネやネットワークに訴える手法は教界でも自分を売り込みたい人が良く使う手であるが、まったく気に食らない。私などはニッポンキリスト教界と何も関係がない処にいたため、何のバックも、誰の贔屓もない。英国のKFMとか言っても、ほとんど誰も知らない。しかし、むしろそれが自由であり、誰の目を気にすることもなく、私は言いたいことを言うことができる。

同じように何のバックも持たないライブドアの堀江社長にはぜひやってもらいたい。旧体質の球界に穴を開けた功績は大きい。何のコネもバックも支持母体も持たず、裸一貫で勝負せよ、楽天よ。楽天に任せるならば球界は元の木阿弥、将来はないと予言しておく。

ネットでのDr.ルーク

Yahooとgoogleで自分自身を検索してみた。もちろんこのサイトも出てくるが、実にいろいろな人がここを読んでくださっている。左のカウンタは表から入った人の数ですが、実はサーバのログを見るとページごとに入った人の数が分かるのですね。それらを入れると来てくださった方はカウンタの倍以上になるでしょう。

で、私の書いたものを紹介したり、リンクしてくださっている人もいるわけです。それが面白い。いい意味で評価してくださっている人もいますが、中には「デンプアな論考」とか「トンデモ系の話」とかってなっているわけです。ちなみにデンプアとは電波で、基地外系(差別用語なので漢字ではこうなります)と言う意味です。まあ、ノンクリの方から見れば相当に逝ってるんでしょうね(笑)

このようなサイトを立てたり、本を書いたりすることは、それが私とは離れて勝手に一人歩きすることを意味します。「Dr.ルーク」と私はそろそろ別人格化し始めてますね。

ダイアナ謀殺論

タケシのスペシャルでダイアナの死の不思議を洗っていました。前にもありましたが、おかしな部分が多々あるわけです。今回のはグレース・ケリーの死とからめて、カルト教団テンプル騎士団や007まがいの殺人装置まで出て来ていました。

私から見て一番解せないのは、運転手アンリ・ポール氏の血中アルコール濃度。あれでは酩酊どころではなく、いわゆるグテングテンの状態のはず。運転どころではありません。

昨今の世の中、どこに真実があるか分からないわけですが、まあ、スペキュレーションはスペキュレーションとして置きましょう。しかし一方でいわゆる政府の調査委員会などが出している調査報告書がおかしなものがあるわけで、これはケネディの場合にも、ダイアナの件にも、今回出た911報告書にも言える。

アメリカは文明開化した国と思っていたら、ブッシュの軍歴を巡る証拠文書が捏造だったことがばれました(ブッシュには有利)。当時はなかったはずのワープロの活字が使われていてバレるというおそまつ。この国はどちらの側も案外とボロ丸出しのようだ。

さあ、みなさん、何を信じますか?

 「あなたがたは何をどう聞くかによくよく注意せよ」

怖い世の中になりました

最近車を運転していて気がつくのですが、信号がほとんど守られていない。私も黄色で突っ込むことはよくあるが、ちょっと前までは両サイドが赤になっている2,3秒の隙をねらって飛び込んできたのが、最近ではこちらが青なのに飛び込んでくる。人の心のせせこましさが段々とエスカレートしてきている。青信号はもう信じることができない。

で、家内と映画を観て来た。アンジェリーナ・ジョリーの『テイキング・ライヴズ』。サイコパスの殺人者にジョリーが扮するFBIの女性捜査官が対決を挑むというもの。ラストのどんでん返しが驚きだった。

この種の映画はかつてはフィクションとして観れたが、昨今の世の中、そうは言ってられなくなってきた。家族4人が惨殺され、放火される事件の後、また家族数名が殺されて川に遺棄される事件が続いた。世田谷一家5人惨殺事件も未解決のまま。ここでも映画と現実の境界線がぼけてきている。人の心の不気味さだけがクローズアップされている。

大学の講義でも語っているが、サイコパス的殺人が増え、昔の『太陽にほえろ』式の足でかせぐ古典的熱血刑事は役に立たなくなっている。緻密な頭脳によるプロファイリング技術が必要かつ不可欠。しかし古い体質の警察はほとんど対応できていない(裏金作る暇があったら心理学を勉強しなよって)。

で、教界はというと、先に再建主義関連の掲示板をBBSで紹介しておきましたが、虚しい神学論争が続いているようです。イエスが統治権を霊たちを通して行使しているが、その霊たちが悪鬼化することにより国家権力が反キリスト的になると言うらしい(再建主義批判側の主張)。『ロード・オブ・ザ・リング』的世界。面白いことである。神学は人を忘れている。すべては人の心が生み出すもの。神学はすでに人の心に対して何もなし得ていないことの証明。

さらにはハッピーライフを実現するための「そのままのあなたが高価で尊い」式の眉唾カウンセリング(われわれから見れば、ほとんどそう思えます)など、現状の悲惨に対して、なす術もない。真の霊的なパワーが必要なのであるが、霊のものではなく、魂のものにすりかわっている有様。そもそも霊と魂の区別すら意識されていないのが一般の教界のレベル。正直言って、うめきを覚えている。

山田君、座布団3枚!

とあるBBSより転載−いけてます:

世界キリスト教会会議の議場で火災が発生!
メソジストは隅に集まって祈った。
パプチストは「水はどこだ?」と叫んだ。
クエーカーは火事のもたらした祝福について静かに神を讃えた。
ルター派はドアに火は邪悪であるとの貼り紙を貼りつけた。
ローマ・カトリックは損害をまかなうために献金用の皿を回した。
ユダヤ教徒は炎が通りすぎるよう、扉にシンボルを描いた。
会衆派は「みなひとり立て!」と叫んだ。
根本主義者は「これは神よりの懲罰だ!」と宣言した。
監督制主義者は列を作り、行進して行った。
クリスチャンサイエンス派は火事はないと結論した。
長老派は問題を検討し報告書を提出するための
委員会を任命する議長を指名した。
事務員は消火器を取ると、火を消した。

ついでに・・・
聖霊派は「主の名によって、火災の悪霊よ、去れ!」と叫んだ。

ついでのついでに・・・
禅宗は「心頭滅却すれば、火もまた凉し」。

休日出勤の会話から

今日は世間は休み。私は仕事でした。前にも書きましたが、駿台予備学校で数学を教えているのです。

で、朝の講師室での会話。T先生いわく、「唐沢先生、今日何かあったんですか?」、私:「はあ、どうして?」。T氏:「電車がガラガラだったんで、地震警報か何かが出て、みんな避難したのかと・・・」、私:「ははは、今日は休日ですよ」。で、別の先生が割り込んで、「ええっと、今日は何の日でしたか?」、私:「はて、何でしたっけ?」・・・。職員の女性が助け舟を出して、「秋分の日ですよ」。私は、なるほど、と思いましたが、ふと、何で秋分の日は休みなんだろ?と新たな疑問に取りつかれました。

学校の先生たちはこんなものです。大学でもあまり変わりないですね^^要するに世間から浮いているところがあるのです。まあその分、とても基本的・原理的なことを考える癖があるわけです。

信仰も同じ。私はあまり「効果的な伝道の方法」や、「教会成長セミナー」や、「会堂建築法」や、「10分ごとに笑いを取る説教の仕方」などには関心がありません。それらは本質とはまったく関係のない、表層的な事柄です。

教界を見ていてつくづく感じるのは、あまりにも浅薄な目先の流行を追うセンセイたちが多すぎること。彼らはかなり忙しく、それなりに神経をすり減らしているようですが(何だか個人事業主みたいな臭いがします)、私はなるべくメンドウなことから離れて(特に業界の偉いセンセイたちとの関わりなどはうっとおしそうです)、「聖なる怠惰」を楽しんでいたいわけ(これはブラザー・ローレンスの用語です)。いわゆるニッポンのリバイバルをシャカリキになって推進しようとは思いません。→http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing51.html

しかしイエスの魅力を追及することではかなり拘っています。ところがある聖霊派の神学校で、「イエスの魅力って何ですか?」と質問されて、ああ、彼らとは住んでいる世界と言うか、追求している対象が違うんだなあと実感した次第。

主よ、あなたの家の大庭にいる1日は千日にまさる。生きる日の限りあなたの魅力を追い求めることができますように。

 * * *

BBSにも書きましたが、昨日サーバが落ち、ファイルが損傷したために表示がおかしかったようです。現在は復旧しております。この日記を読みたいが読めないというメールをいただきました。ご心配をいただき、恐縮です。

訂正(汗)

徒然の話、仁和寺の和尚が高良神社を八幡宮と間違えたのでした→http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/3938/kyouto/yawata/yawata2.htm

(遠くを見る目で:古文では苦労したなあ・・・)

砂の上に建てしが・・・

北朝鮮拉致被害者のドキュメンタリが面白かった。特に、蓮池さんは帰国当時自分自身を「北の公民」と呼び、蓮池さんの兄や友人が北朝鮮に批判的であると、懸命に弁護したとのこと。実に面白い。自分を拉致した国を弁護する!?

よく似た事象に誘拐の被害者が加害者にある種の心を寄せる心理をストックホルム症候群と呼ぶ。ニッポンとアメリカの関係も同じ(かな?)。さらにカルトから離脱した人々が、そのカルトへの批判に対して怒り出し、また弁護することもよくある。身近なところでは、私がニッポンキリスト教をしばしば批判することに対して怒り出す人もいる。私は決して特定の対象を批判しませんし、雲のようにあちこちに浮かんでいるおかしな教えや実行を批判していることは前に書いた。

お分かりでしょうか?これらの不思議な現象のメカニズムが・・・。これらのケースで起きている現象は「同一視」の精神病理。ヒントは、蓮池さんの場合も、周りの人が北を批判すると、「俺の24年間は無駄だったと言うのか!」と激昂したとのこと。何を弁護していますか?・・・ストックホルム症候群でも自分に害を与える犯人と共に過ごした自分を犯人と同一視する結果。カルトでも同じ。私の場合も同じ。

分かりますか、そこにおいて守っている対象は誰か?彼らは誰を守ろうとしているのか?・・・自分、です。偽りの上に何かを建てていることは客観的に見れば明らか。しかし当人はその土台はすでに視野にない。その上に建てている自分を見ているだけ。その自己を守ろうとしているだけ。

しかし主は言われた:自分の魂を救おうとすれば失う、と。砂の上に一旦建てるならば、実はそれを守ろうとして、時間と労力を消費する。かくして新しい物を建てることはきわめて困難となる。手放さないからである。捨てれば得るのであるが・・・

先達はあらまほしきかな

徒然草の一節だったと思う。自分勝手に念願の仁和寺を参拝したと思って帰ってきたら、実は別の寺だったと。先達(導き手)が必要であるという教訓。

今回ビデオをDVD化するにあたって、新しいドライブやソフトを使ったが、何度も失敗した。例えば、ビデオをキャプチャーしたファイルをDATAドライブに移動すると、最後が消えてしまう不思議。このドライブ上でDVDを編集してディスクに書き込むと最後がない!?あれこれ考えたり、いじくったりしつつ、これで2回失敗し、8.5Gのディスクは1,400円もするので、2,800円が・・・。

おかしい、おかしい、とうめくこと3,4日。で、風呂でボーっとしている時に、ハッと気がついた。「DATAドライブはFAT32だ。確かFAT32は4Gまでしか扱えなかった!」風呂から飛び出してFAT32からNTFSに変換すると、これでバッチリ。何だ、こんな簡単なことだった・・・。本質を外した努力はまったくの無意味。

聖書の罪(ハマルティア)は「的外れ」と言う意味。ここにいわゆる(人間的・道徳的・倫理的)善悪の基準自体はない。人類の罪は「悪を知る」のではなく、「善悪を知る」ことだった。的を外したものはすべて罪。よってパウロは「信仰によらないものはすべて罪である」と言う。→http://www.kingdomfellowship.com/Topics/temptation.html

人はつねに的外れな努力をしつつ、がんばって、ふんばって、いつか見ていろ俺だって・・・と生きている。世の人は言わずもがな、牧師先生たちも裸一貫から開拓伝道を始め、艱難辛苦汝を玉にするとばかり、貧困の中でタクアンと味噌汁のご飯に堪えつつ、ついに信徒数1,000人!会堂を2つも3つも献堂し、自分もここまで来たか・・・となる。大いなる的外れ。

「自我を砕きぃ〜」はもちろんのこと、的外れの努力が悩みを生み、カウンセラーのニーズが生まれ、○○ミニストリーを頼る人が増え、かくしてセンセイ方はそれで食べていける。問題を抱える人が多いほど、彼らは繁盛する。お互いに依存し合っている。はっきり言いましょう:クリスチャンが真理に目覚め、それぞれが主の前に立つようになるならば、これらのセンセイたちやメディアは不要となるでしょう。

的外れから解放されるためには、真理を知ること。真理はセンセイたちが手引きするものではなく、内なる真理の御霊。

ヨハネ14:26― しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

まことの先達は初穂なるイエス・キリスト。その方の霊がいま私たちのうちに住んでおられる。「聖霊の原爆」など不要(どこからこういった無神経な言葉が出るのか)。外には聖書が与えられている。この両者が相互作用するとき、光が輝く。

御言葉が開けると光を放ち、無学な者に知恵を与える(詩篇)

みなさん、誰を先達(道案内)とするか、よくよく吟味してください。的を外した努力で短い一生を無駄にしないように。道を良く知らない者が、しばしば、それらしい顔をして道案内をしているのが教界の現状です。

私は空を打つような拳闘はしない(パウロ)

天動説のリバイバル

小学高学年生の4割が天動説を信じているらしい。動いているのは太陽。一方でネットなどにより情報過多、他方で常識が常識でない。これは実は20年も二十歳前後の学生を相手にしていると、十分予測できたことであり、危機感を深める。共有できるものがなくなっている事実。私にとっての当たり前が、彼らにとっては当たり前でない。例えばその一例:マルクス・エンゲルスを一人の人と思っている学生。他方アリストテレスをアリスとテレスと二人と思っている(NHKよ、責任を取れ〜!)。すでにすごい時代に入っています。

で、いつもながら、教界はどうでしょう。当たり前が当たり前でしょうか?一方でアメリカ産の油注ぎの器と称する人たちを通して来る「聖霊の原爆が落ちる」とかのナンセンスなヤラセ情報があふれ、他方で、いぜんとして「自我を砕きぃ〜」と、髪の毛を引っ張って空を飛ぼうとしているクルシちゃんたち。あるいはややこしい虚しい神学論争に明け暮れて、メンツと勢力範囲の張り合い。

まことの謙遜とは法則を法則とし、それに服すること。ところが自前の「法則」を作りたがるセンセイが多い。かくしてフェイクがあふれる。無意味な情報の洪水は本質的な情報を隠す。敵の狡猾な策である。何かを知っていると思うものは、知るべきほどのことを知らない。クリスチャン生活にとって真に知るべきことはさほど多くはない。再度言うが、霊的耳年増をやめればよい。