最近の日記

未納3兄弟と人質3人

やれやれ、管さんが6人目になったと思ったら、鳩山さんまで。民主党は危機的状況ですね。KFCのあるビルには民主党の事務所があるので、応援しているのですが。自己責任論は?江角さんにはどう答えるのでしょう?

解放された人質の2人が会見しました。女性はやはり精神的に厳しいようですね。誘拐した人々の実情も語っており、興味深い情報もありましたが、自己責任は自分たちには適用できないと強気の発言でした。ちょっと感覚がずれています。自分たちは信念を貫いただけであると。少々自閉症的傾向、自分の中での論理を感じるのですが。

と言っても中傷の手紙を送るほうも問題ですが、やはり家族の冷静な対応がほしかったと思います。なにしろニッポン人は情緒で右から左へと振れますから。おそらく家族の対応如何では、彼らは英雄になったことでしょう。

ひとつの状況に対してこれだけ評価が振れることは人の心の危うさを証明しています。私のところにもあの教会はこうこう、あの先生はこうこうと口軽く言ってくる人はあまり信頼できません。こういう人は気分しだいでガラッと態度を変えるものです。多くの場合、こういった教会をさ迷う人は心を病んでいることが多いのです。

未納3兄弟の後始末

今回は完全に菅さんのダメージが大きい。小泉氏は与党も野党もこれを互いのけなしあいでなく、積極的な対策を立てる機会にしようとか、なかなかやるものだ。この人物、口を尖らせてつばを飛ばすだけでなく、かなりの策士でもあるようだ。しかし、本質的な議論がなく、どうしてこうも浅薄な話に終始するのだ?

年金問題とリバイバル

前者にはコメントする気にもなれない。ボロボロです。両党ともこれ以上は触らないほうがいいのでは・・・?国民も40%近くが払っていないというモラル崩壊。この国の将来はいったいどうなるのでしょう?

ここでニッポンキリスト教の典型的牧師は、だから伝道、伝道・・・となるわけですが。このパタンはもういい加減にしてよ、と私などは思うわけです。奇麗事を言っている限りリバイバルなどは起こるはずもありません。また今のままクリスチャン国家になったら、相当にキモイ国ができるでしょう。Salt氏の言われるとおり、一度徹底的に絶望しないとダメですね、ニッポンキリスト教は。

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私は前に自分は財前五郎タイプであって、里見修二とは正反対だと書きました。まあ日記やBBSをお読みくだされば、ある種の人にはエリート意識丸出しの・・・という印象も与えるでしょう。

財前が死の直前に言っていました、「俺は確かに患者と向き合うことは少なかったが、しかしできる限りの努力をしてきた。それがいけないのか・・・」と。彼もあと一歩でした。

クリスチャンになるタイプ、あるいは神を必要とするタイプは、実は里美タイプではなく、財前タイプなのです。神はエサウを憎み、ヤコブを愛したとあるとおりです。ヤコブは一度徹底的にすべてに絶望することが必要です。「ペニエルの経験」により、イスラエルとなるのです。私は、ですから、里美ではなく、財前に魅力と愛着を覚えるのです。

商標登録

もう今年も1/3が終わり。年々、時間の進みが速くなる感じ。
 
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オンライン注文ですが、テープの注文が殺到し、処理が追いつかなくなりました。これから60本ほどコピーする必要がありますので、少々中断いたします。何とぞご了承を。

前にある教会で行ったセミナーのテープも結局100セットほど出て、そこの牧師の方がコピーで追われてうれしい悲鳴をあげたとおっしゃっていました。

不思議なのですが、まったく見ず知らずの方が私のMSGを聞いたといって来られるのですね。2月のセミナーのテープもいつの間にか出回っているようです。私のほうからは一切供給していないのですが。知らない方からテープを購入したとか言われることもあります。

まあ、現在のところあまり細かいことは言っておりませんが、営利目的はちょっと困りますので、ご理解ください。実はこのような意味でも"Kingdom Fellowship"を商標登録申請しております。ネットで検索すると、他に出てくるのですね。排他的権利と同時に責任を明確にする意味があります。

英国のKingdom Faithも実はもうひとつの同名の団体がありまして、紛らわしいわけです。よく間違われますが、.comが英国ので、.orgは別団体です。

メタの病理

今年は何の因果か、英語を持たされている(いいのかなあ〜?)。小生一応読み書きはできるが、実は英語はあまり得意ではない。駿台の伊藤和夫先生の「700選」(年代が分かるが、今もある)で少し自信をつけたが、使い手ではまったくない。

今もFENやDVDの映画の英語字幕でナチュラルスピードのピックアップを訓練中。専門的な話やニュースなどは容易に理解できるのに、日常の簡単なことば(特に米語)がなかなか拾えない。たぶん英語で幼児体験あるいは英語の幼児語を経験していないからだろう。

面白いのはハリウッド映画も60年代の英語はとてもきれいである。例えば「ベン・ハー」など。発音も明瞭でかなり聞き易い。70年代位まではかなりいいが、80年代に入るとガクンと乱れる。特にひどいのがスタローンの英語。イタリヤ系の訛りがあって、言葉も汚い。シュワちゃんはオーストリア訛りで、カッペであるのが分かるが、むしろ聞き易い。ブッシュの英語は実はかなりクリアだ。腹が立つが。

ところでCMで面白いのがある。ぬいぐるみを着た英語のティーチャーが生徒たちに「え〜と、I have a book.」と言うと、生徒たちも「え〜と、I have a book.」と物真似する。すると先生「『え〜と』はいらんよ」と言うと、生徒たちも「『え〜と』はいらんよ」となり、こんな英語を習う前にNOVAとなるわけである。

今日の講義ではまさにこれ。"equipment"の発音が分からないと言うので、「イー、キュー、ユーだから、イクウィップメント」と言うと、学生「イー、キュー、ユー・・・」とやり出す始末。

"I have a book."を説明する英文法は日本語になるわけだが、このように言語を説明する言語を「メタ言語」と呼ぶ。上のCMはメタ言語と元の言語の混同があるわけ。わが学生も同じ。でもあまり彼らを笑ってもいられない。

聖書の御言葉はひとつはロゴスとして、客観的真理を説明する機能がある。それに対して御言葉が御霊によって直接的に語られるとき、レーマとして、すなわちいのちとして経験することができる。御言葉の主観的経験である。

対して神学はちょうどロゴスなる御言葉を日本語で説明するものであり、要するに英文法のようなもの、「メタ言語」である。それ自体にはいのちはない。英語圏の人が英語を理解するのに英文法は必要がなく、直接的に英語を理解するのと同様に、内なる霊は御霊によって照明されて、直接に御言葉の真理を直覚する。ところがこの御言葉の直接経験をすることなく、メタ言語の神学の世界に入り込んで、ケンケンガクガク。ニッポンキリスト教徒は議論がきわめて好きな人種である。

御言葉はもちろん理解することも大切であるが、まず霊の食物として食べること。反芻する動物は聖なる動物であるが、われわれも何度も何度も御言葉を反芻することである。羊は牧草の栄養学は知らないでも、食べることで成長できる。われわれイエスのひつじも同じ。霊的栄養学を理解する人は必ずしも多くはないが、御言葉はまず食べればよい。

5千人は食べて満足した、とあるとおりである。

バプテスマは新鮮です

本日バプテスマがありました。新しい魂が主へともたらされ、キリストの死と復活に結合されて、新しいいのちの領域において誕生しました。毎回バプテスマは新鮮です。これは不思議なことですが、空気がスーと澄んだ感じとなり、私たちの内側までリフレッシュされます。この方のすべてに主の祝福の御手がありますように。

皆さんで夕食をいただいて、デザートにケーキを2つも食べたというか、食べさせられました^^小生、酒はほとんど関心がないのですが(要するにアルコールの薬理作用だけで十分)、甘いものには目がありません。喜んでパクパク食べていると、うん?、何だか顔がホカっ〜としてくるではありませんか。なんとこのクリームには洋酒が入っているとのこと。頭がほんわか気持ちよくなってしまいました。

で、車で帰って来たわけですが、これも「酒気帯び」なんでしょうか?

チャーチスクールその後

いやあ〜、驚きですね。何でこのトピがこれほどに熱いのでしょうか?私的には普通のことを普通にすればいいでしょうに、と思うのですが。

確かに学校におかしな教師がいますし、内容もひどいものがあるでしょう。しかしその中でちゃんと主の手が摂理によって働いていることが見えないのでしょうか?モーセやヨセフが被った理不尽を見て見なさい。同時にそこに神の手が見えませんか?彼らはエジプトで訓練されたのです。カナンの地には老いた父と愚かな兄たちが財産を食い潰していただけです。

私の本質的問題意識は、彼らの動機が自分たちで自分たちを救おうとしていることです。主は言われました、「わたしに従いたいものは自分を否み、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい。自分の魂(原語)を救おうとする者はそれを失い、救おうとしない者はそれを得る。」と。

神は自ら助けない者を助けるのです!

4年目に入ったKFC

昨日のBBSの嵐は去ったようですが、天候は寒波が戻って3月下旬並み、北の方では雪もあるとか。夏日のあとは冬に逆戻りと・・・。少々荒れ模様です。

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まあいろいろありますね。意図せざる形で始まったKFCも4年目に入りました。この間いろいろな人が出入りし、様々の事件もありました。私のスタンスは来る者は拒まずですが、たいてい動機が何か、これが鍵になります。ただ主イエスだけを求めるのか、何か他の動機があるのか。他の動機の人はたいていつまづいて去って行きます。

私はいわゆる顧みと称するケアとか"カバーリング"なるうっとおしいことはしません。それは主がなさることです。そして去る者は追わず、です。また時に内部をかき回す人もいました。このような意図的な作為に対しては明確な態度を取ります。かくしてひとり除名処分を取ったケースがあります。

この意味でひとりひとりが人を当てにするのではなく、主だけを見つめ、主だけに頼っていないと、共に歩むことは困難になります。人間関係は、ですから、きわめてドライというか、アッサリです。格別の求めがない限り、互いのプライバシーにはほとんどタッチしません。ですから人からの顧みや、世話を求める人はフラストレーションを覚えるようです。

私たちは麗しい人間関係を構築するのではなく、共有するものは御霊によるイエスご自身だけです。キリストの交換力だけでの結合ですから(http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Ron/identity7.html)、油塗りと臨在がなくなればただちに解散ということもあるでしょう。KFCに対する神の召命と委託がある限りはここで神が何かなされるでしょう。

ですから私は「10分ごとに笑いを取る説教の仕方を学ぶセミナー」とか「教会成長セミナー」とかまったく関心がありません。しょせん人間業は木、草、藁です。また裸一貫、苦節何十年、ようやくここまで・・・も臭いがきつくてご遠慮です。パウダー感覚でサラサラっと導きに従うだけです。

チャーチスクールは・・・?

いやあ、ほんとに驚きました。BBSでこのトピについて懸念を表明するや、これほどにエキセントリックなレスを次々にいただくとは・・・!?

私がある団体のカルト化の指標として見ているのは、そこの指導者に対して批判的意見を投げてみることです。医師が胸を叩くように、あえて石を投げるわけです。コレに対するそこのメンバーの反応でカルト化はすぐに見て取れます。言うまでもないですが、カルトではその批判意見すら許されない雰囲気が醸されます。

例えば私は今英国のコリン・アーカートとのかかわりがありますが、彼も物言いがはっきりしているために英国では結構批判されています。しかし彼が批判を受けても私とはなんら関わりのないことです。彼は彼、私は私。それぞれのアノインティングに従うことだけ、これがすべてです。パウロは言っています、「ある人はこうしており、別の人はああしている」。

私がニッポンキリスト教で注目株だと言ってくださる人もいるのですが(今回のBBSにもありましたが)、私とはなんらのかかわりがありません。「言動に配慮せよ」と言ってくださった方もいますが、まっぴらご免、です(笑)。もともとこのようなパブリックなミニストリーをする意図もありませんでしたし、何らかの評価を得るつもりもありません。この高々1%の村社会でそれが何になるというのでしょう?

私は今までどおり、淡々と主と私の間にある油塗りに従うだけです。キリストをエンジョイすること、これだけが私の願いです。むしろそのような人の評価はあえて壊すことでしょう。人の評価などはコロコロ変わるものであり、真の自由を損なうだけです。私は自由を享受し続けたいのです。当たり前を当たり前にしつつ。

どうもニッポンキリスト教、真に満足し、健やかな人が少ないようです。「あなたはオンリーワン、神のVIP」と言われると喜んでも、「富む者はますます富み、持っていない者は持っている物までも取り上げられる」というメッセージには腹を立てる。満足と健やかさがないからです。真に満足している人は「VIP、オンリーワン」などど叫ぶ必要もないことです。「富む者は・・・」と聞いたら、喜びにあふれて「アーメン」と応えるでしょう。ますます富む者となるために、キリストを前へ前へと向かって追求するだけです(ピリピ書)。

おかしな「自由・平等・博愛」の価値観がいつのまにか蔓延っています。聖書が言っていることを、私は明確に語ります:神の国の原則は、能力に応じてタラントが分かち与えられ、そのタラントを増やす者が、よくやったしもべとして主から報酬を受けるのです。しかし同時に、自分の弱さにおいて主の恵みは十分に現れ、主は見栄えのしない肢体を格別に整えて下さるのです。

あなた方の言葉はしかりか否かであるべきだとあるとおりです。

Blessings!

竹内均先生逝く

東大名誉教授で、地球物理学者、Newton編集長、さらに代々木ゼミナール校長の竹内先生が84歳で逝かれました。思えば高校時代に、「ラジオ講座」や「傾向と対策」でお世話になりました。田舎で情報がほとんどない中、この「ラ講」が唯一の頼みの綱でした。わが青春のひとコマです。

先生は独特の語り口と分かり易さが定評でした。若い頃に地球物理学のノーベル賞と言われるラグランジュ賞を取られ、また小松左京の「日本沈没」にも自分役で登場されるなど、とてもユニークな方でした。

その後私も東大に入り、東大教官の著作目録があるのですが、それを見て驚きました。竹内先生の著作はほとんどが受験参考書!いやあ、これは変わった東大教授だぞと思ったことがあります。

実際先生ご自身、若い頃は専門分野での業績をあげ、教授になったら弟子を育てつつ論文よりは本を書き、退官したら啓蒙雑誌を作り、最後は幼稚園の園長さんで終わりたいと語っておられました。実に勤勉な誠実な人柄の方でした。

懐かしいですね、わが受験生時代。「ラ講」には、一方で東北大学の勝浦捨造先生がおられました(その後退職し代々木ゼミナールに移られた)。数学の先生ですが、浪花節調で、おおいに励まされたものです。しわがれ声で「三高寮歌」を熱唱していました。この先生も何年も前に亡くなっています。英語では早稲田の西尾孝ですね。この先生も故人です。その他駿台系では、伊藤和夫、鈴木長十両先生にもお世話になりました。伊藤先生とはその後駿台講師になってからご一緒したこともありますが、みなさん故人です。

この前の長さんもそうですが、私の人生のひとコマひとコマを共有された方が次々に亡くなっていくのは少々寂しいことです。ちなみに私の大学の同級生も一昨日大腸ガンで亡くなりました。そんな世代に入ったと言うことでしょうか。人生は文字通り、「サドン・デス・ゲーム」です。

ご冥福を祈ります。

至聖所@車

私は東京湾をグルッと片道1.5時間の車通勤をしています。実はこの車の中が私にとって唯一孤独になれ、運転以外の仕事から完全に解放される時空間なのですね。よってこの往復3時間をほとんど主との交わりと祈りに費やしています。

実に濃厚に主の臨在が迫り、異言がずっと出て来るのです。時に涙もあふれますし、あるいは大声で賛美を叫びもします。何しろこの空間はいくら大声を出そうともまったく問題ありません。聖別された空間なのです。

かくしてこの時間に主のタッチを受け、個人的なミニストリーをいただくわけです。実に癒されます。メッセージもここでインスピレーションをもらいます。またお言葉もかけてもらいます。

CDもよく聴くのですが、もちろんワーシップもですが、実はセキュラーなミュージックも結構聴いています。例えば、EaglesやABBA、あるいはサザン・オールスターズや中村雅俊、時に阿川泰子のジャズ、はたまた高橋真理子のスタンダードなどなど(まあ、オジサン系と言われればそれまでですが・・・笑)。

セキュラーなものを聴きつつも、実は臨在をエンジョイすることができるのです。仕事をしながらでも、講義をしながらでも、キリストに触れることができます。これが霊と魂の分離です。魂の状態によらず、霊が臨在に憩い、主の甘さを享受することができるのです。

私にとってはウォッチマン・ニーとともに、ブラザー・ローレンスがひとつの大きな霊的模範です。

3人の運命

帰国した人質の3名はPTSDと診断されたようですが、今後かなりきびしい人生が待っているでしょうね。普通の歩みはできなくなるでしょう。

もう一度繰り返します:動機がどこにありますか?

もろもろ・・・

2名の人質も解放。どうも何かの戦略がありますね。彼らはファルージャの惨状を伝えるために、あるいはそこに世界の目を留めるために誘拐しているような印象があります。

ブッシュもついに米英単独をあきらめて、というか、この前の演説ではすでに相当に追い詰められて、国連主体にするようですが、これまでメチャクチャにしてしまっている以上、その後始末をさせられる国連もいい迷惑でしょう。

米国型原理主義者たちよ、なおも叫ぶのですか。イスラエルのために神が立てた立派な指導者ブッシュよ、と。狂信ぶりが明らかになるだけでしょう。しかし今回は雑誌や本なども有名な牧師たちがヒステリックに叫んでいました。イスラエルは人を狂わせる霊的な何かを持っています。

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きょうからバイブルカレッジ再開。7月まで月月火水木金金、休みはナシです。長さんではないが、

  「さあ、行ってみよう!」

北朝鮮拉致問題は・・・?

いったいこれはどうなってしまったのでしょう。怖いですね、マスコミも社会も、すべてが一色に塗りつぶされることは。