最近の日記

今、帰りました

伊豆の温泉をエンジョイしてきました。2泊しましたが、ちょっと満足ですね。

メールを見ると560通、といっても大半はスパムですので、リモートで操作して、大事なもののみをダウン、あとは一挙に削除です。いろいろご感想・ご意見をいただき、このような反応をいただくことは励みになっております。

ベニー・ヒンの評価については、まあ、人それぞれいろいろあるようですが、主は「教えを見よ」(真理は○×のセンター試験ではない)とか、「現象を見よ」(悪霊でもし徴・不思議は可能)とか、「聖会を見よ」(欺きは現場から)とは言われず、「実を見よ」と言っています。実を偽ることはできません。

ヒンの実を見てくだされば、議論の余地などはないはずですが、残念ながら、ニッポンキリスト教では情報が届きません。皆さん、いまやネット時代です。せめてネットを検索して御覧なさい。ヒンの本質が分かります。残念ながら、ニッポンキリスト教のメディアがヨイショ記事ばかりなのですね。霊的な"お子様ランチ"を求めるのではなく、大人になって、自ら判断してください、ネ!(参照:ヘブル5・14)

ご紹介−日々の糧@Saltさん−

辛口ミニストリーのSaltさんの「日々の糧」をご紹介します。霊的なパンを提供してくれます。

http://www5.ocn.ne.jp/~ikemoto7/katetop.htm

実はSaltさんは、私のビデオの中に登場して下さっているのですね。カイザリヤの劇場の場面です。

人が求めるもの

サタンの誘惑のチャネルは、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りの3つである。肉体的欲求をサタンは刺激し、それを自らの方法で満たすことが罪である。また見栄えのいいものを追求することも人は大好きである。さらに自分の達成や自分の成果を誇る。

しばしばよく聞く言葉に「聖霊充満」なる単語がある。これを聞いて、私は非常に不思議である。いったいこれは何を意味しているのか。私たちにはすでに聖霊が与えられている。それは信仰によって得たとガラテヤ書に書いてある。

よく「油注ぎを受ける」と称して、「注ぎ、注ぎ」と強迫観念のように騒ぐが、これも不思議である。すでに注がれている!聖霊は部分部分に分けて、ある人には500cc、ある人には1g、ある人には10gと注がれる方ではない!聖霊はひとりのパースンである。今の聖霊派の求め方はエホバの証人の聖霊論的である。何かの力、パワーとしてその注ぎを求めている。

御霊はひとりの<方>である。この方は自己主張をされない。新約においては単なる神の霊として働く方ではなく、イエスを証する霊である。イエスと御霊を分離してはならない。イエスと御霊はひとつである。私たちが御霊を得たことは神を得たことである。すでに三一の神が私たちのうちにいて下さる!すでに私たちはキリストにあって満ち満ちているとコロサイ書に書いてある。問題は注ぎを受けるかどうかは無く、信じるかどうかである。

目に見栄えのいい"油注がれた器"を求める昨今の状況は、実は不信仰の証明であり、貧しさの証明である。外なる器をありがたがる彼らの姿勢は、実は彼らの内側の貧しさと霊性の貧弱さを証しているだけである。

イエスは決して見栄えのいい方ではなかった。仰々しい自己アピールもされない。今の聖霊派諸氏は、イエスとベニー・ヒンが立っていたら、果たしてどちらに群がることであろうか?

あすから3日ほど

温泉にいって参りますので、日記の更新はありません。
一切の日常から離れてきます。

再見!

幼稚なヒンの聖霊論

今回彼は旧約の聖霊を語ったそうですが、幼稚なものです。新約と旧約、つまり十字架の前と後の本質的な違いを知らないようです。彼は十字架を知りません!そしてこれが聖霊派の致命的欠陥です。

私はアンドリュー・マーレーの名著『キリストの御霊』を推薦します(ただし読みこなすのにかなりの知的レベルを求められます)。

アウトラインはこちらを参照してください:

http://www.kingdomfellowship.com/Topics/Anointing.html

怒られるかもしれませんが、聖霊派の知的レベルを疑いますね。こんなレベルで喜び浮かれ、しかも一面記事になるとは!?十字架を学びなさい。

ヒン師はほとんど"瀕死"ですね。

ベニー・ヒン聖会に参加されたある方のメールです:

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「白い巨塔」と「白い虚塔」

テレビでもそろそろお花見の話題がちらほら。うちの前の県立三ッ池公園も桜が有名であるが、まだまだつぼみが固い。

この休みのうちに何とか私の部屋を整理しようと日々頑張っているが、今日はトランクルームから6箱分の本を戻せた。壁一面の書棚はさすがにまだまだ収容力がありますね。あと20箱分、何とか来週中にはと思いつつ、動かぬ(動きたくない?)体を叱咤している。

 * * *

「白い巨塔」は関西で40%近い視聴率とか。確かに思った以上によくできていた。田宮版と違う別の作品として鑑賞に耐えた。裁判の論点などもインフォームド・コンセントに重点を置くなど、現代の流れをよく汲んでいた。唐沢君はかなり評を上げた模様。

ひるがえってニッポンキリスト教はどうか。「白い虚塔」になっていないか。真の福音は自己の死を語る。財前と同様に治癒見込みのないステージであること、よって十字架の死と新しく生まれることしか希望がないことをインフォームド・コンセントすること−これが福音である。

「オンリーワンのあなたが高価で尊い」などは、財前が言っていた台詞で一蹴されるだろう:

けい子:「五郎ちゃん、やせたねぇ〜」
財前:「ほんとのこと言ってくれてほっとするよ。みんな顔を引きつらせて、よくなった、とか言うからな。」

福音はまったく希望がないことと同時に、十字架にのみ希望があることを告知することである。「あなたは徹底的にダメだ!このままでは神に見放される!」と告げることである。信じない者はすでに裁かれているのだ!昨今のVIP福音などは世の人からすでに見抜かれている。末期ガン患者に対してお体裁は通じまい。真実を語ることである。

パウロ:「私は十字架につけられてキリスト以外に語ることをすまい・・・私たちには十字架以外に誇るところが断じてあってはならない。」

ジーザス:「人は御霊によって生まれなければ神の国に入ることはできない。」

ニッポンのリバイバルはまず徹底的に自己に絶望することからはじまる!

さらば財前五郎

「白い巨塔」が終わりました。あえて感想は書かないでおきましょう。

昨今の軽薄な視聴率を気にするドラマが多い中で、こういったしっかりしたモノがいい視聴率をマークすることは歓迎されるべきです。

教会も同じです。しっかりしたシナリオによるサービスを提供すること。時には十字架の痛みをも避けないこと。今のお互いにヨイショでは軽薄なドラマよりもはるかに悪い。

メスではなく十字架のキレの良いメッセージが必要です。それにしても、いつから現状のようになってしまったのか・・・。

山崎豊子の『大地の子』もよかった。次の作品『沈まぬ太陽』などのドラマ化を期待したい。ドラマも教会もオトナの鑑賞に耐える作品が切にほしい。

臨在を極める

ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』は救われた頃、1行読んで祈り、また1行祈って読むという具合に、その甘さに浸りつつ何時間もエンジョイしたものです。

当時(80年代前半)は書店にある霊的書物も、アンドリュー・マーレーやスポルジョンなどの古典がほとんどでしたが、いつからか(90年代前半?)聖霊様物や、預言・しるし・不思議、悪霊追い出し物、霊的超能力系が目に付くようになりました。一方で「あなたはオンリーワン・そのままのあなたが高価で尊い」的な物が出回り始めました。

私はそのころからほとんどキリスト教書店に出向くこともなくなりました。それらの本を見るだけで、「ウルサイ」と感じられるのです。ほとんどは霊的なジャンクであって、麗しい油塗りもなければ、深い霊性も感じられません。

そのようなわけで私は昨今の流行にはほとんどウトイですし、あえて積極的情報遮断を実行しています。"聖会"にも出たことは一度もありませんし、アメリカ産の"油注ぎの器"も別に関わりを持つ必要を覚えません。最も油注がれた方が私のうちにおられるのです!

実は真に読むべき本や、知るべき知識はさほど多くはありません。もっとも本質的なエッセンスさえつかめば、何が本物で、何が嘘かは容易に判別できます。

現在、80年代に集めておいた古典が入手困難であり、きわめて貴重になっています。ネットにはクラシックのアーカイブもありますが、本には本の味わいがあります。

ローレンスの達し得た境地にますます憧れます。人間性における日常の生活の中において濃厚な臨在に与ることができる特権−これが祭司なるクリスチャンの特権です。再掲します:

主よ、あなたの家の大庭にいる1日は千日に勝ります。私はただひとつのことを主に願った。あなたの大庭にいてあなたの麗しさをたずね極めることを・・・

  *  *  *

これを書いたあと、ふと思ったのですが、聖霊派の皆様はブラザー・ローレンスといっても「何それ?」なんでしょうかね?

神の臨在の奥義

このサイトの常連のある方がベニー・ヒン聖会の報告のメールを下さった。そのような聖霊派の聖会と称するところで、"油注がれた器"が導くと「今圧倒的な御臨在にあって神の力強い御業がなされています・・・」と講釈があるそうだが(私はその手のものはまったく参加したことがないので分からない)、彼は「果たして臨在はそのような器によってのみ導かれるものか?」と疑義を呈している。

何でも人々の手をお互いにつながせておいて、完全に静まったところで、「タッチ!!!」と大声を上げるのだそうだ。するとビックリした人がよろけるとその反動が周りに伝わり、バタバタと倒れる人が出るらしい。これが御霊の圧倒的臨在による後倒現象の正体のようだ。これは物理の共鳴現象というか、強制振動現象であり、かつてタコス橋が風に吹かれて崩壊したのと本質的には同じ。これで興奮冷めやらぬ人々がベニー・ヒンを礼賛するのらしい。まあ、ショービジネスマンとしては大した物なんでしょうね。

彼の指摘はまことに本質的な問題提起であり、どうも聖霊派の皆様が求める"臨在"と私が経験している臨在は相当に異なっているようだ。どうも彼らは聖霊様現象を"臨在"と称しているようであるが、私の経験する臨在はイエスの臨在であり、それは感じようと感じまいと、目に見えようと目に見えまいと常に変わることがない。時に体さえもまったく主とひとつであることを覚え、皮膚感覚的に臨在を感じることは確かにあるが、何も感じなくとも臨在は確実である。

彼らにはぜひブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯-神のみ前での修練』を読んでもらいたい。ポイントは感覚の問題ではなく、信仰の問題である。感覚的経験や目に見える現象を求める聖霊派諸氏には、ガラテヤ書の「御霊を受けたのは、信じたからか、律法を行ったからか・・・御霊によって始めたことを肉によって完成しようとするのか」という御言葉を指摘したい。

彼らは律法から自由になるのではなく、どうも肉の放縦に落ちているようだ。律法はいぜんとして生きているし、神は無秩序の神ではない。整然として、聖なる、厳粛な、義なる秩序がある。肉の解放を霊の解放と間違えてはならない。

偶像化の回避−人間性を享受する−

この日記もいろいろとご意見をいただいています。私自身のことをここにいわば"晒す"わけですが、これにはひとつの意味があります。それは偶像化を避けるためです。前に少し言いましたが、ホームページを開設し、本も書き、ビデオやテープを出していますと、それを通してDr.ルークのイメージが一人歩きを始めてしまうのですね。

ある種のカリスマ的神秘性を保とうとする人々はほとんど自分のプライベートは公開しないのが鉄則で(例えば、高倉健みたいに)、これは宗教家がよくやることですが、これでは本当の意味での主にある兄弟姉妹の交わりが成立しません。私はこのようなイメージが出来上がるのはむしろ避けたいわけですね。よって昨日のような赤裸々な報告もしているわけです。

聖霊派ではどうもこのような神秘的カリスマ性で売る御仁もいるようで、彼らはある種の霊的超能力というか霊能力を"売り"にしています。透視ができたり、予言ができたり、読心術ができたり、癒しができたり・・・と、何だか「テレビの力」に出てくる霊能力捜査官や心霊治療家みたいな人々がたくさんいるようです。しかし私はこのような傾向には明確にオブジェクションを唱えています。

「霊的になる」あるいは「聖化される」ということは、一言で言えば「人間になる」ことです。素の人間として、神がイエスの人間性において回復し栄光化して下さった人間性を着て、人間であることを享受するのです。神が意図された人間性の究極を極めるのです。

イエスが地上におられる時、彼はどんな人間生活を送られたと思いますか。それは父なる神とのひとつを究極の経験、神との一体感をその人間性において極めた人生だったのです。それがどれほどに豊かであるか想像できますか?私たちは単に罪赦されて天国行きの切符をもらっただけではないのです。この回復され、栄光化された人間性を享受するのです。

神は霊能力者になったのではなく、人になったのです。そして神は人のうちに臨在されるのです。この受肉と臨在の奥義を究めること、これが私の究極の願いです。人であること−何と祝福され、素晴らしいことでしょう!人として生きること、何と豊かな、エンジョイに満ちる経験でしょう!インマヌエルが共にいますからです。

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DVDの注文を開始しました。オーダーフォームからご注文ください。書店に出すかどうかは今検討中です。

人間ドッグのご報告

今日も午前10時ごろから午後5時ごろまでサーヴァが落ちていました。チャペルに行ってみますと、PCの電源が落ちているのですね。なぜなんでしょう?

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昨日夜9時から何も口にしないまま、ドッグに行ってきました。検便を提出し(これが「冷蔵庫に保存せよ」と言う指示があるので、申し訳なくも、隅の方にちょこっと置いといたんですね^^)、血液、視力、眼底、眼圧、聴力、心電(安静+負荷)、肺機能、腹部各臓器エコー、食道と胃のレントゲン、尿検査、そして最後に直腸診と前立腺肥大の検査と・・・。

食道と胃では発泡剤を飲んで、ゲップを我慢しつつバリウムを飲み、台が横になったり縦になったり、私も体を右だ、左だ、上だと技師の指示に従ってグルグルと。やれやれ。

直腸診では、恥ずかしい姿勢を取らされて、何と肛門鏡で覗かれて、さらに触診で前立腺を探られてと・・・、これは感想を書きようがありません(汗)。

かくして2時間、あっちへ行け、こっちへ来いと言われるまま、あっという間に過ぎました。自覚症状としては、中性脂肪と肺機能は前のとおりですが、胃がちょっと違和感を覚える事があるので("荒れ"だと思いますが)、2週間後の結果が待ち望まれます。

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北海道の流氷は今年は見送りになりました。残念ですが。近間の箱根か伊豆の温泉にちょっと行ってこようと思っております。

人間ドッグ

あす1日人間ドッグに行って参ります。体はまだ旧創造に属しており、精巧なマシンですから、メンテが必要です。いつもは献血の血液検査で主要な数値はモニターしておりますが、2年一度全身を診てもらっています。ただ脳血管系はMRIかCTが必要で、別料金のため、脳は診てもらっておりません。ちなみに最近は西条秀樹といい、長島監督と言い、元気どころがみな"詰まって"いるわけで、私もそろそろ一度は、と思っております。それと強度の近視があるので、網膜検査が必要ですね。キキ・キリンさんみたいに網膜はく離で失明なんてのはご免です。初期に剥離(穿孔)が見つかれば、レーザー光線で焼き固めれば大丈夫なのです。

一昨年度は、胃壁のニッシェ(像)のレリーフ(辺縁輪郭)が荒いと言う所見が出ましたが、実はこれ花粉症の薬で胃が荒れたため。この時期の恒例です。あとは中性脂肪が高いことと、肺の換気機能が悪いことくらいですね。あと十年くらいは生き延びないと責任を果たせませんので、パウロのように「体を打ち叩いて従わせ」なくてはなりませんからね。「私としては主の元に行きたいが、体に留まることはあなたがたの益になる」というパウロの言葉が実感できる歳に入りました。

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今年はなぜか北海道の流氷ツアーが人気だそうで、料金が昨年よりも2万円も高い傾向です。昨年はカニ食べ放題、バイキング料理食べ放題で、2泊3日で28,500円でしたが。あの顔が痛くなるほどの寒さで流氷をガリガリと割りながら進む船に乗った後は、体がキンキンに冷えているのですが、寒が厳しいほど、熱い温泉にザブーと入ると体がほぐれて最高なんですね。北海道もすでに夏冬と20回近く行っていますが、準外国ですね。実にいいところです。

すべてを単純に-「花紅柳緑、眼横鼻直」の世界-

ニッポンキリスト教と関わって驚いたことがある。それは心を病んでいる人がきわめて多いと言うことだ。統計をとってはいないが、罹患率は世間の平均を越えるだろう。ヤヤコシイ人、粘着な人がとても多い。当たり前が当たり前にできない人が多過ぎる。

人生をエンジョイするコツは、すべてを単純にすることである。かつては私も青白きインテリをやっていましたが、当時は簡単なことをややこしくするのが得意だったのですね。疲れる生き方でした。

寅さんに「とかくインテリと申しますと、テレビの裏の配線のようにごんがらがっていて、色気が頭に上り、イロノーゼにかかります。そこいくとあっしなんざあ、配線は1本だけですから、頭を叩くとコーンと澄んだ音がいたします」という名台詞があるが、病んでいる人はみな自分で事をややこしくし、自分ではったクモの巣にからまっている。ご苦労なことである。

パウロは言っている:「食べ物と着る物があればそれで事足れりとすべきである」と。主は「その日の苦労はその日で十分である」と言われた。キリストにあって軽く生きるコツはすべて単純をするにすること。禅の言葉にこうある:「見性(悟り)とは、腹減れば飯を喫し、睡来たれば眼を合す。花紅柳緑、眼横鼻直。当たり前は当たり前で良いではないか。」

善悪を知る知識の木の実を知って自意識に目覚めた人間の心は意識作用によって汚れを受ける。心が二元論の世界であれかこれかと分裂しさ迷うのである。またある事に執着する。「水は万境に従って転ず。転ずるところ実によく幽なり。」とあるとおり、心もサラサラサラサラ流れることが健康の秘訣。

ところがどうもクリスチャンたちは粘着系の人々が多いようで、自分の聖書解釈を決して譲らず、あくなきギロンのド壷にはまる御仁も多いようである。主は「魂を救おうとすれば失い、失えば救う」と言われた。ニッポンキリスト教徒はどうもこれと正反対の生き方をしているようだ。イロノーゼ・クリスチャンがあまりにも多過ぎる。