最近の日記

積極的情報遮断

この数年、私自身の意に反してニッポンキリスト教のいろいろな部分との関わりを持った。お叱りをいただくことを覚悟の上で率直に言えば、どこも検討外れのことをしているというのが印象である。様々な教界の出来事やアレコレを知れば知るほど私の霊は疲れを覚えてしまう。

あまり目や耳に無選別に何でも取り込まない方がよいようである。これを積極的情報遮断と言う。神との交わりを深め、純粋な御言葉に対峙するために、あえて目に見えることや耳に入ることを遮断する必要を覚えている。アレコレ知ったところで、私の霊的歩みに何の益があろうか。ブラザーローレンスのように、神の御前における臨在にとどまる修練をむしろ必要としていると感じる。

「新しい霊の流れ」とか、「最新の預言・幻」だとか、あそこに「油注がれた器」が来たとか、やれやれ、もう食傷気味である。ニッポンキリスト教はあまりにも野心と人のニオイが満ち、浅薄である。状況を知るほどに「一言物申す」となるのもそろそろ疲れるので、私は数年前のようにニッポンキリスト教からは少し離れたいと感じている。

主の大庭にいる一日は千日にまさる、とあるとおりである。

民主党に任せられるか?

木曜日の日記はいつも金曜日になるのは、仕事から帰るのが9:30で、食事をして、「白い巨塔」を見て、風呂に入って、それから書くため。

さて、選挙も近くなり、KFCの入っているビル(といっても小さいものだが)に民主党の選挙事務所があるため、人の出入りが激しくなってきた。私も民主党には一度任せてみたいと思っているが、今度はどうであろうか?特に高速道路の無料化を3年でやるというのはどうも?である。また田中知事を国務大臣と兼任とは、ちょっと?である。第一、国造りのビジョンがない。

管さんは正義漢であり、口も立つし、見栄えもいい。が、ちょっと先走っている感じがしている。少々上滑りではないだろうか?以前私は日本のこれからのキーワードが、「ポピュリズム」と「民族主義」であることを述べたが、自民党はまさにこの路線でいくようだが、民主党も同じニオイ。どうも器が小粒であり、私は中曽根さんみたいな人にもう一度と思ってもいる。

日本は形がない国家である。米国が人工的にアメリカ主義にはめて国家を形成しているのに対し、日本はその中心が奪われている。ホンネは天皇を据えたいところだが、今のところそれはできない。かつて三島由紀夫が「このままだと20世紀の終わりに空疎な経済大国が極東にできる」と予言したが、まさにそのとおりになっている。

三島にはすべてが見えていた。私にも見えている。下手をするとこの世に自分の居場所がなくなる感じもしている。彼と違うのは、三島には天皇しかなかったが、私には主イエスがいてくださる。そこで私はかろうじて生きていられる。

KFCは「標準派」!?

BBSでKFCの位置づけについて、福音派でもなく、聖霊派でもなく、正統派(社会派)でもなく、無教会でなく、何なんでしょうとカキコしたところ、「標準派」というご提案をいただきました。なるほどこれはいいかも?

これまでKFCの立場を聞かれても、答えようもなく、ただキリストだけです、としてきましたが、使えるかも知れません。

しかし元々教会(エクレシア)は「召し出された者たち」であって、○○派なんてものはなかったのですけどね。対この世で定義されるべきなのですが、内部でゴチャゴチャと・・・ややこしいことです。「よく分かるキリスト教の教派」とか言う本を見ると、その系譜の複雑なこと。

私は「○○主義」がどうのこうのはまったくわっかりませ〜ん。聖書にこう書いているとならいくらでも語れますけどね。注解書や神学書など参照しなくても、御言葉だけであまり不足は感じていないのですが。

愚かなブッシュ、いい加減にせんかい!

4月に"預言"したとおり、イラクがいよいよ混迷の度を深め、国連はついに撤退。各地でテロが活発化している中、ブッシュは相変わらず、"America will never run.(アメリカは逃げ出さんぞ)"だそうだ。

まあ、ここまで狂言を回してしまうと、今更ケツをまくることもできないでしょうが、苦虫をつぶしたようなあの顔がますます貧相になる。その上、川口外相は「自衛隊のイラク派遣は可能である」とのたまう始末。ここまでアメリカのポチ化しているとは。実質上丸腰で送り込まれる自衛隊員とその家族があまりにも気の毒である。死者は必ず出ることであろう。

大義なき戦争と大義なき死。やり切れません。

リバイバルorサバイバル、それが問題だ !?

いやはや、いわゆる聖霊派(ばかりでもないですが)を通ってきた人々と接していると、目が点になるような驚く話が続出します。ある問題をいさめたところ「Dr.ルークに呪いの預言を受けた」とか騒ぐ人まで出現。やれやれ。

自分と合わない人はすべて悪霊に憑かれており、自分を攻撃してくるとか、意見が食い違うとすべて霊が違っている、自分は聖霊についているが、相手は悪霊であるとか。

彼らは私の専門からするとパラノイドの病理に犯されています。「人差し指と小指を立てている人がいたが、彼は悪魔礼拝者で、こんな人がいる聖会には怖いので参加しないとか」・・・。その後もわけのわからない発言をする人が身近にいたことにまったく驚きを覚えております(汗)。

パラノイドの病理が蔓延すると、誰が悪霊につかれ、だれが敵で、だれが味方かと、互いの交わりが損傷を受けるようになります。私はメッセージでもクリスチャンは神の宮であり、聖霊を宿しているのだから、思いを見張れば悪霊によって影響されることはないと口を酸っぱくして語っているが、どうも話のわからない人がいるようです。これらの人々は何でも悪霊のせいにしており、個人の責任がどこかへとんでいるのです。

今回これらの人々にはKFCを去っていただきましたが、私のもとにくる人々はきわめて多彩で、ニッポンキリスト教の病理の典型的サンプルとなる例が多いのです。彼らを診ていて分かることは、一言、病んでいますね、ニッポンキリスト教界は。リバイバルどころではなく、サバイバルが必要となっています。「リ」と「サ」の一字違いですが、ここをわきまえないと、とんでもないことになりますよ(これも呪いの預言になるんでしょうかね・・・苦笑)。

金太郎飴からの解放

KFCのメンバーのAさんが、ある牧師に「KFCに定期的に参加している」と言うと、その牧師いわく、「もっとオーソドックスな教会にした方がよい」。Aさん、「アーソドクスな教会って一体何なんでしょうね」と。

私はメッセージでも語っているが、私たちは使徒信条の告白から始まり祝祷で終わる式次第(プログラム)は一切排している。1回1回、主の導きのままにセレブレーションが進む。それは宗教儀式ではない。私たちは宗教をしていない。よって一昨年より昨年、昨年よりも今年、というようにセレブレーションのあり方も臨在の濃度も変わってきている。

オーソドクスな「金太郎飴教会」はこれまでニッポンキリスト教の規格品を大量生産してきたが、しかし伝道にはむしろ障害となってきた。誰しもつまらない窮屈で退屈な礼拝に貴重な休みの日曜日をつぶしてまで参加したくはない。眠たくなる牧師の説教などは、校長や社長の訓示で十分である。

私はメッセージでも語っているが、「ニッポンキリスト教非公認規格外教会」を目指している。しかし私たちのセレブレーションに参加している人は証しして下さると思うが、主の臨在はますます濃厚になっている。いつまでもハズレ・クリスチャンでいたいと思っている。

ただしこれは絶えず主だけを見つめ、主に付き従うことをモチベーションとしていないと、ついていけなくなる。ヘブル人の意味は「川を渡る人」の意味である。アブラハムのように自分の快適な領域を出て、過去を忘れ、前へ、前へとキリストだけを追求する人が、まことのヘブル人である。

心の動機

クリスチャン生活のすべてを決めるものは、心の動機です。動機がどこにあるか、これが私たちの進路を決定します。教会生活で、人間関係などJesus以外を動機にしているのであれば、必ず失望します。必ず裏切られます。しかし信じない者にはつまづきの岩、信じる者には救いの岩であるJesusをすべての動機とする者は、決して失望に終わることがありません。すべてのモチベーションはジーザスです。主よ、私たちの動機をあなた以外のものから完全にきよめて下さい。

オープンキャンパスとマニフェスト

きょうは休みを返上して、OCの日でした。よってバイブルカレッジは休講です。少子化で大学生き残りをかけて、生徒さんを接待するわけです。実際は少々手遅れ、もっと大切なことを忘れているのですね。組織はすでに末期症状を示しています。人を生かす組織を作るには、今と逆のことをすれば絶対ですね。人を見失っています。(どこぞのお国と似ています。)

   *  *  *  *  *

今回の選挙は「マニフェスト選挙」ということだそうですが、そもそも「マニフェスト」って何なのと思いきや、要するに「公約」です。何でわざわざカタカナにするんだか。民主党にはある意味で期待がありますが、ムード作りになってしまってはいないでしょうかね。

今のニッポンの病理は、政策などで解決するものではありません。たとえば年金にしても、自分がもらえないだろうから、もう払わない−この理屈はまさに自分だけの世界観によります。金は巡り巡って自分のところに回ってくるものです。主は「与えよ、そうすれば与えられる」と言っています。

モラルハザードなんですね。すべてのニッポンの病理のルーツは。ここでも「人の道」が失われているのです。自分しか見えず、自分の論理に従って、自分の世界でしか生きられない人々が世にも教界にも増えてきました。

麻原裁判最終弁論

が終わりましたが、弁護団は完全無罪を主張しています。すべては弟子たちの暴走であり、特に殺された村井氏にすべての責任をかぶせようとしています。麻原氏は立派な宗教者であって、だから6年間も黙秘を続けることができるのだと言っております。

何なんでしょう、ここに働いている霊は。偽りの霊そのものです。被害者の家族の心情を察するに、第三者である私でも憤りを禁じ得ません。もともと麻原の弁護にはわけのわからないオジサン弁護士が出てきたり、当初から混乱でした。社会心理的ダイナミクスのみでなく、明らかに何かの霊が働いています。弁護団も笑いながら記者会見していましたが、本音はやってられねえよ、でしょう。

キリスト教界でも姦淫をしている牧師に対して、みんなでその罪を愛を持って覆いましょう、裁いてはなりません、赦しあいましょう、といったマヤカシ事が行われているが、同じ霊の働きを感じます。偽りの霊はもっともらしい理屈で私たちの思いを侵食する。始めに感じた自然な直感・感覚をもって対応すべきです。思いは理屈をこねればこねるほどに欺かれるからです。

唐沢版「白い巨塔」はけっこういいかも

唐沢財前の「白い巨塔」、けっこういけてますね。配役が田宮ヴァージョンと比べて軽いと思っていましたが、唐沢氏はなかなかいい演技です。新しい「白い巨塔」として前作のイメージを払拭できるかもしれません。

唐沢寿明は、実は私のいとこなのですが(※)、苦節時代が長かっただけ、けっこういい役者になるかもしれません。木曜日の夜が楽しみになっています。ただ主題歌が何で「アメージンググレース」なんだろう?ちょっと違和感がありますが。

大学や権威のウラはもっと広く世間に知られるべきでしょう。裏を知っているとちょっと気楽に医者の言うことは信じられなくなりますが・・・・(汗)ひとつ紹介しましょう:医者が「様子を見ましょう」と言うときはまったく診断がついていない時です。ただちに別の医者に診てもらうべきでしょう。

※これはジョーダン。でもね、学生にそう言って紹介すると信じる連中もいるんですよ。何となく自分でも似てるかと勝手に思っていますが^^

Dr.Lukeはコワイ?

このところ日記の内容がコワイという感想をいただきました。「である」調で書いたためもありますが、確かに私はけっこうコワイのです。

家内が私と知り合った頃、物をはっきり言うので、こわかったそうですが、付き合ううちにきわめて単純なプロトコルで行動することが分かったそうです。

要するに黒は黒、白は白と言えばそれでOKなのです。ここで言い訳や理屈をこねる人には私はかなり徹底的にそれらを粉砕します。今回もそうでした。簡単です、当たり前を当たり前に。これだけです。

病気だからとか、トラウマがあるからとか、アダルトチルドレンだからとか、現代は言い訳が山ほどあります。赤信号で止まり、青信号で進む。これができれば、何でもできるのです。

ノー・エキュスキューズ、ノー・コンプロマイズ。今年の夏の英国のキャンプでもこれが語られていました。ニッポンキリスト教にこの父性の要素がもっと回復される必要があります。病んだ母性が社会にも教会にも蔓延していますから。

教会の秩序と個人の自由

私はこれまでニッポンキリスト教の律法的思考でガチガチになっている人々に、「○○すべし」とか、「○○は禁ずる」などの菓子箱にはまるような生き方をするのではなく、「私たちにはすべてのことが許されている、しかしすべてが益になるわけではない」を基準として、自分で判断するように導きを与えてきた。またキリストにある自由と罪定めからの解放をメッセージしてきた。

が、今回、とんでもない勘違いをしている人たちがいることが判明した。私たちはすべてのことから自由であるが、その自由を肉の働く機会としてはならないとある。またキリストにあって罪定めされないが、各自は自分の行動の責任を自分で刈り取る必要がある。真の自由を享受するには責任が伴う。

今回の「重大な決断」とはまさにこの問題を取り扱うことであった。放置すれば破廉恥な犯罪となり得る事態であるにもかかわらず、本人はその認識がなく、事の道理がわからない。キリストの体である教会の秩序を個人の自由を盾にして肉の働くままに乱すものは交わりから取り除かれる必要がある(1コリント5:11)。

私たちは自分で恵みによる祝福の道か、罪の刈り取りののろいの道かを選ぶのである。これは神の前と人の前における信仰の歩みにおいて厳粛な真理である。大リバイバルの預言で喜ぶ前に、ニッポンキリスト教はひとりひとりがキリストにあるオトナになる必要があろう。

3回戦突破ならず・・・・

宮城に83:67で負け。残念です。

決断の正否の確認

今週の主日にKFCとしてある決断を必要とする場面が生じた。詳細はここには書けないが、クリスチャンにとってはとても大切な問題である。

本件についてはかなり逡巡をし、主に祈り求め、最後まで一縷の望みを託してチャンスを設けたが、最終的には相手方の拒否によって押し出されるように決断をした。

このようなある意味で人の今後を決定しかねない判断をすることは非常に畏れを覚えることである。もし間違っていたら、もちろんその全責任を私が神と人の前で負うことを意味する。

私はすべてを主に委ねて、その日の主の臨在によって判断の確認をしようと思った。参加された方は証しして下さると思うが、ひじょうに強い臨在があり、多くの方々が主に触れられた。隠れていたことも光の下に置かれた。

この件では私の知らない部分で陰での動きがなされており、影響された何人かの人々が去った。いっしょに歩んだ人々との別離は痛みを覚えるが、判断は彼らにある。彼らのことも主に委ねたい。