最近の日記

第2回戦も勝ってしまった!

国体バスケの第2回戦、神奈川・静岡戦は、80:79で神奈川の勝利。何と3回戦進出です。

やれやれ、これで阪神とダイエー戦に加え、またハラハラドキドキのネタがひとつ増えてしまった(心臓に良くない・・・)

ホスト依存症

ビョーキが多いのは教界だけではなさそうだ。テレビでやっていたが、いい年の女性が若いホストにはまるケースが増えているらしい。

あるホストはそれほどイケメンでないにも関わらず、350人の客をもち、月収1800万!女性は肉体関係を求めることはそれほど多くはなく、裏切られない男女関係を一抹のヴァーチャルな対ホストの関係に求めているとのこと。

世の中、ケータイやメールの発達で、ヴァーチャルな世界の中でとんでもない男女関係が進展する時代であるが、ぬくもりとやすらぎがリアルな世界に欠如していることの裏返しであろう。これも私の予想通りの現象であるが、何とも言えず寂しいものである。

オトナになれない・ならない人々

私が意に反して教会を開き、バイブルカレッジを開くことになり、実に多くのニッポンキリスト教の方々と接することになった。その率直な感想を一言:

要するにオトナになれない、あるいはなりたくない人々があまりにも多いことに驚く。自分の人生の責任を放棄し、あなた任せ、センセイ任せ、悪いのはすべて他人であり、自分は哀れな心の病に苦悩している、こんな自分を理解して、受け止めて、受容して、愛して、慰めて、哀れんで、同情して、自分は何もできないのです・・・・。

こうしてあちこちさまよっているジプシークリスチャンの多いこと、多いこと。あのセンセイはこうこう、あの教会はこうこう・・・。やれやれ、聞きたくもないウラ話をどっさり聞かされている。彼らの話の時間が90%、私が話す場面は10%。しかもちゃんとウラではこそこそ耳打ち話をひろめている。

どこまでが本当でどこまでが脚色か、このような話は心に残しておくとロクでもないことに巻き込まれるので、私は右の耳から左へと流してしまう。言い訳と自己主張がとれて、人の話に耳を傾けることができるようになる人は変わっていく。

ビョーキのせいで信仰がもてないのではなく、信仰を持たないからビョーキなのである。人には自由意志がある。最後は自己責任を問われることにいつになったら気がつくのか。

第1回戦突破

次女の国体のバスケの試合第1回戦は新潟と対決でしたが、見事勝ちを収めました。彼女も最後の1分半に出場し、2点得点したとのことです。やれやれ。

ちょっと親バカでした・・・・。

国体が始まりました

国体が浜松で開会されました。私の人生において国体などはこれまで何の関わりもなかったのですが、なんと自分の次女がバスケの神奈川代表選手に選ばれて、しかも一軍メンバーとして、あす第1回戦があります。こうなると体育会系にはなんらの興味もなかった私ですが、少々気になってきています。

面白いのは、次女の高校は私立ミッション系で、これまで国体選手など出したことのない学校なのですが、今回バスケが強い学校として有名になりつつあるようです。私立の場合、入試の偏差値などもアップするし、志願者も増えるし、といった副次的効果があり、次女もそれに貢献しているようです。

それにしても、学校の先生方や友人の親御さん、さらには私の親戚関係者がこぞって応援に行って下さるようで感謝なことです。あすのことを思って、私も少々ドキドキしてきましたよ〜(汗)

老いてますます盛んなり・・・?

道路公団の藤井氏と石原大臣の対決、また中曽根氏・宮沢氏と小泉氏の対決、なかなか面白くなってきた。中曽根氏はあの人の信念からみて、なかなか難しいし、ある面では理解できる。

新旧交代−これも時代の流れであり、老獪な策士と青い正義感の駆け引きは、はたしてどちらに軍配があがるだろうか?

それにしてもニッポンキリスト教界においても、そろそろ長老的先生方の名誉あるご引退を願いたいと感じているのは、わたしだけであろうか。それどころか、老いてますます脂ぎる御仁が多いようである。御霊の油ならば香りがいいのであるが、しばしばオジサンの臭いが強い。苦節何十年、自分はすべてを投げ打って開拓から始め、礼拝堂をいくつ献堂し、信徒は今や○千人とやったあげく、すべての栄光を主にお返ししますとなるので正直言ってクサイ。

あるクリスチャンメディアの方がニッポンキリスト教界で働くにはオーディコロンが必要だと言っておられたが、なるほどである^^。

覚悟はできていますか?

東京都教育委員会が、君が代と国旗に対する扱いについてかなり厳格な勧告をなし、それに従わない教職員は「処分もありうる」ではなく、「処分する」となった。

この調子だと、おそらく単なるシンボルにとどまらず、礼拝対象としての「日の丸」にまで至るであろう。またまたニッポンキリスト教の左翼系の人々が人権や信仰の自由を盾に騒ぎ出すことであろう。

しかし主は、先にも書いたし、メッセージでも語ったが、現在静かにこう語っておられる、「あなたは誰につくのか。わたしにか。では十字架の覚悟があるのか?」と。

結婚の奥義

結婚はキリストと教会を象徴する、クリスチャンにとってきわめて重要な人生の転機である。この奥義にしたがって進められる結婚は兄弟姉妹の認知と証によって祝福される。が、教会において、若い(とも限らないが)男女の間で自己中心的に進められる男女関係は、しばしば破綻をもたらす。

結婚は単に性的欲求を満たしたり、社会的対面を保つものではない。霊的奥義である。私たちが結婚をどのように評価し、どのように取り扱うかは、キリストと教会の関係をどのように見ているかの証しとなる。結婚は単なる男女間の恋愛感情によるものではなく、神と人の前における契約関係に入ることである。

信仰生活において結婚が適切に取り扱われていない人の場合、他の領域においても証しを損なう。そのような男女関係はキリストの体の証しを損なうことによって、交わりから絶たれる必要がある。今日の乱れた男女関係を許す社会、否、教会において、真に結婚を祝されることとするために、それぞれが何を第一に求めているかが鍵となる。

たばこ裁判

たばこのパッケージにその毒性が明示されてないために、自分たちはタバコをすって肺ガンや肺気腫になったとして、JTと国を訴えた裁判で、「タバコを吸ったのは原告の自由意志である」として原告の主張が退けられた。真に妥当な判決である。仮に毒性がうたってあったところで原告がタバコを止めたかどうか、疑わしい。ほとんど言いがかりに近い訴えである。

自己責任がどこかへ飛んでいる、というよりは、責任転嫁もはなはだしい。ローマ書8:1には「今やキリストにある者は罪に定められることがない」とあるが、これは何でもアリのお墨付きではない。私たちは個々の具体的行動において、その結果を必ず刈り取ることになる。

それは神の責任でもなく、牧師の責任でもなく、親の責任でもなく、自分の責任である。自分ですべき事をせず、心の病を理由に逃避したり、人の責任にしたりしつつ、この自己責任を回避する甘えの構造が日本社会にも、またそれにもまして教界にはびこっているのは嘆かわしいことである。

霊的な代理権威

今年のFaithキャンプのジョン・ビヴェアのメッセージに、「地上における神の代理権威に服することが重要である」とあるが、これについて質問をいただいた。ある種の牧師はこれを盾に自分の独裁体制を作る傾向があるらしい。

私たちの信仰生活で、国家をはじめ、親や上司、夫婦や兄弟関係において代理権威に服することは、油の滴りを受け祝福を得るために重要である。しかし大切なのは、どの代理権威に服するか、自分で選ぶことができなかったらならば、これはカルトの支配構造となる。

私が現在英国のコリン・アーカートに服しているのは、隷従しているわけでもなく、自ら選んで服している。彼の上にある霊的な権威を認めているからである。つまり主の権威のありかを見ているからである。ダビデもサウルにそれを認めていたから、自分を殺そうとするサウルに自ら手を下すことがなかった。それぞれが自ら選びとってしかるべき権威に服すること無しにはクリスチャンは糸の切れたタコとなる。

私と共にセレブレーションに与る人もいれば、自ら離れる人もいる。私は来る者は拒まずであるが、去る者は追わずである。服することも主の権威を認め、自らの自由意志で選び取った結果であり、そのためには先にも書いたが神の前にまず自分が単独者として立っている必要がある。きわめて単純である。

ニッポンキリスト教の問題は、個人が神の前で確立しておらず、自分で立つことなく、盲従的に、あなた任せにし、自分の甘えが満たされている間はニコニコ、しかしいったん甘えが裏切られるとプッツンする。牧師を選ぶのも、医師を選ぶのも自己責任で主体的にしてほしいものだ。要するに大人になることである。

当たり前の病理

悩んでいる人、私はアダルトチルドレンと称する人、過去のトラウマがどうのこうのと訴える人、悪霊に憑かれたと叫ぶ人・・・これらの人々と接していて分かることは、当たり前が当たり前でなくなっていることである。現在に生きていない。自分の感情や混乱した思い、頑なな意志の中に生きていて、今この瞬間の神との交わり、信仰がどこかへ行っている。現在の自分の責任を放棄し、しかも「病気」がその免罪符になっている。

彼らは「自分は苦しんでいるから信仰が持てない」とよく訴えるが、真っ赤な嘘である。なぜならその言葉がすでに信仰の表明になっている。私は彼らには決して慰めの言葉とか、同情の言葉をかけることはしない。なぜならその彼らの偽りの信仰にアーメンすることになるからだ。赤信号を見て止まり、青信号で渡ることができる人は立派な信仰を持てるのである。

心が偽ると果てしない闇の中で、自分の思い、敵の思いが交錯し、感情は暗くされ、その魂の領域に拘束される。そしてしばしば人が悪い、親が悪い、教師が悪い・・・と果てしない自己責任の転嫁に終始する。私たちはある日主の前に立つ時、そのような言い訳はきかない。主は「あなたは・・・」と尋ねる。

私の元にいわゆるカウンセリングを期待して来る人は、大抵私につまづく。私はそのような人々にはこう言ってつっぱねる:「もっとあなたにふさわしいカウンセラーがいるでしょうから、そちらに行ってください。あなたの欲求を満たすカウンセリングをするならば、あなたは永遠に変わりません。私にそれを期待しても無理です。あなたが私のペースで従うならば、あなたは変わるでしょう。ご自分で判断しなさい。」と。

甘えをシャットアウトすることができないカウンセラーは、自分を偽っているか、自分に甘いか、下心があるか、商売をしているかである。彼らは容易にクライエントにマニュピレーションされる。ある人が言っていた、「医者を騙すのは簡単よ」と。そしてそのような場合カウンセラー自身が問題を抱えていることは業界の常識である。医者よ、自らを治せ、とあるとおりである。

羅生門

黒澤明の名作『羅生門』は、ひとつの事件に遭遇した3人の当事者の証言が食い違い、それぞれ自分に都合のよい内容になるという人の心の闇を描いた傑作である。そこに起きた事実はひとつであるが、人の心を経て投影されるうちにその内的世界像は歪んでくる。

今回の石原大臣と藤井総裁の話も面白いことに、まったく異なる証言内容となっている。しばしば私もそのような場面に遭遇する。人との接触が避けられない立場にあり、人に対して叱責もする必要が出る場合も多々ある。よってある種の人々にとっては私は極悪人と映ることであろう。

しかしクリスチャンの場合、決定的な証人がおられる。主イエスである。事の真実において両サイドから矛盾する話を聴いた場合、私は霊においてどちらに主の臨在があるかで判定する。偽りには暗い闇の感覚が伴う。神の臨在を偽ることはできないし、臨在があれば内側の明るさが感じられる。

噂話で揺るぐ人々は心が定まっていないからである。固く主に結ばれ、主の臨在を測り縄にするとき、私たちは事の真偽は明白である。霊は人の心の奥深く探る。心を病んでいると言い訳する人は当たり前が当たり前でなくなっている。これを真綿でくるんだように当たり障りのない腫れ物に触れるような対応をすることによって、ニッポンキリスト教には当たり前でないことがはびこっている。病んでいるが、自分では病識が欠落してる。

リバイバルはまずそれが暴かれることから開始される。「裁きは神の家から始まる」とあるとおりである。聖霊の原爆が落ちる前に、神の手順をキチンと踏む必要がある。よって私は先のリバイバル新聞の"大預言"は偽りであると分かる。着々と、淡々と主の前に歩むこと。ここから外れて、このような"大預言"に従って果たしてどこへ向かうと言うのか。ただ主の大庭にとどまるのみである。

預言の意義と力

私は預言そのものを否定するものではない。それどころか、預言は新約の務めにおいてはもっとも重要である。問題はその中味である。これについてはこちらを参照のこと。

・預言の霊的機序
http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Articles/prophecy.html

もし神が日本で何かをなさるとしたら、第一にまず日本人に語ることであろう。わざわざアメリカの「油注がれた器」を経由する必要はない。この点でもすでに神の新約の方法からはずれている。ちなみに今回の「大リバイバル預言」の人々は「カンサスシティの預言者たち」と呼ばれ、一部では"Extra Bible"と評価されている。つまり聖書から逸脱する"預言"をしばしばしている。詳細はこちらを参照のこと。

・Christian Apologetics(カルト異端に関する文献集)
http://www.apologeticsindex.org//b56.html

聖書には「また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。」(ヘブル8:11)とある。

ニッポンキリスト教のクリスチャンがまず主の前に単独者として自立し、主から直接に言葉を受け、それを語り出すこと―これが真の預言であり、そのときに神がみわざをなさる準備が整う。はっきりと言うが、その準備はまだできていない。依然として教界では「甘えの構造」で、砂糖まぶしの説教と人間関係が支配的。甘言にはアーメンであるが、少々の辛口には「傷ついた〜」とか、自分はアダルトチルドレンでの言い訳で、十字架のキレがない。果てしない「自分は、自分が、自分の」であり、自己愛の温床と化している。互いに神のVIPとヨイショしつつ、当たり前が当たり前でなくなっているのがニッポンキリスト教である。

ネットを見ていると、これまでも、ベニーヒンが2003年に大リバイバルが起こるとか、シンディ・ジェイコブズの北と南からサンドウィッチのようにリバイバルの炎が包むとか、2004年に起こるという預言もあるらしい。この手の"預言者"の言葉には真の霊的な内実がない。言葉が空疎である。

今日本に必要な預言は、キリストのいのちの内実を伝達する、もっと重い、身の詰まったことばである。「油注がれ器」の「預言」をいただく前に、もっと深い聖書の御言葉の学びに入ることである。神はひとりひとりに御言葉をとおして語りかけてくださる。そして実はリバイバルはすでに起きているのである。信仰は「すでに得た」と証しする。リバイバルはいのちであり、いのちは十字架による。

神は今こう言われる:「真のリバイバルを求めるのであれば、あなたには十字架の覚悟があるのか?」

私も神の霊を得ていると思う。

「大リバイバル」預言

リバ新にまたまたアメリカ由来の「大リバイバル」の預言の記事があった。何でも今度は原爆ではなく、聖霊の爆弾が落とされるとの事。これまでもベニー・ヒンにシンディ・ジェイジコブズに、その他もろもろ・・・。

やれやれ、私はこの種のものにはほとんど眉につばをする方である。彼らのイメージするような事はまず起こらない。理由は―

@リバイバルの意味がまったく聖書の中心からずれている。キリストのいのちに目覚めることなく、現象を求めても、それは神の本質から逸脱している。

A神の方法はいのちの種を着々とまき、水を注ぎ、手を入れ、一歩一歩育てることである。いのちを育てる環境も教会に整っていませんし、真理の回復も不十分。仮に多くの収穫があったとしても、それを受け入れ、育てるキャパが教会に整っていない。

このような大預言に振り回されることなく、ただ内なるキリストに焦点をあわせて歩む一群の神の民が起こされ、整えられることがまず必要です。ギデオンの時のように3万も要らない。精鋭が300人あれば、神のわざはなされる。私たちは主の前にあって、忠実かつ真実に、もっと腰をすえて、落ち着いたいのちの歩みをすべきでしょう。

ちょっと苦言を呈しました。