日記

本日も・・・と思いきや

一般入試。午前2時間の試験監督。午後は16名の面接。いつもながらのワンパタン。中にはニートかつ引きこもりで、何とか自立したくて看護を志望した男性29歳という猛者も。だいたい、私たちが見ると、分裂病者や鬱病者はすぐ分かるし、対人恐怖症や引きこもりなども見当がつく。それなりの「におい」があるわけ。分かりにくいには、人格障害。これはしばらく付き合ってみないと病理が見えてこない。

その他は、まあ、いつもどおりかと思いきや、一人面白い女子がいた。看護を志望しているのだが、「その動機は」と尋ねると、「はい、祖父がむかし病気で入院して、そのときにお世話になった看護士の方が・・・」(小生の心の中で、まただよ、すばらしくって、それであこがれたんだろ・・・ところが)「祖父のことを、言うことを聞かないと張り手をしたんです。私はなんてひどい看護士なんだろって思って、こんな看護士だけにはなりたくないと思って、看護士を志望しました」。(小生心の中で、うん、座ぶとん1枚!と思いつつ・・・)「へえ、面白いね、そんな看護士がいたの?その人女性?」、「はい、そうです。」

まあね、これがネタかどうかは分かりませんが、たまにはずされるとホッとするわけで、こちらを読んでの回答だったら立派だし、真実だとしても面白いので、つい「A判定」をつけちゃいました。

キリスト業界と予備校業界

本日は一般入試。都内の某予備校を借りて、午前中2時間のテスト、午後は16名の面接と・・・。テストは丸2時間、手持ち無沙汰で、薬を飲んでいるので、ポカポカしてついうとうと。面接はいつもながらのワンパタン。試験されているのは実はこちらでして−そう忍耐のテスト・・・。

 * * *

BBSでは何だか物騒というか、「羊泥棒」なる言葉まで出てきていますが・・・。やっぱり大変ですね、このギョウカイ。自分の教会の教勢がどうのこうのとか、ごっそり引き抜いたとか、互いに相手の中傷をし合ったりとか、予備校の生徒争奪合戦みたいですよ。どうも似ているのです、ニッポンキリスト業界とニッポン予備校業界。牧師も予備校講師も共にホスト・ホステスなんですね。何とも寂しいことです。

私的には、主からの任務を下ろして、早く引退したいのですが。その日まではセルフレスな礼拝にとどまりたいわけです。しかしこれでDr.Lukeも「羊泥棒」のレッテルを貼られるのか知らん。ただでさえ、悪評判が多いというのに・・・涙。

長引いています

どうも気管の炎症が取れませんで,しゃべろうとすると咳き込むありさま。冷たい空気が沁みます。もともと気管支が弱く,ドッグでは必ずスバイロメーターでひっかかるのですね。要するに換気能が低いわけ。まあ,ぽつぽつといきましょう。

BBSでは「尋問された」とか,なんだかこわいことになっているようですね。一体信徒は誰のものなのでしょう。牧師先生の所有物?アブソリュートリー・ノー!イエスの羊でありましょう。そのあたりを勘違いしている御仁が多いのです。

私のメッセージを聞くと,ひとりひとりが目覚めてしまうので,そのような先生には都合が悪いのでしょう。「起こさず・眠らさず,(自分に対して)従順に・・・」の呼吸で牧するわけです。これから生まれる「リバイバル」って果たしてどんなものだと思いますか?どこか病んでいるのですね,このギョウカイ。

ようやく・・・

本日で試験も終わり。採点も終了して,あとは400名分の成績報告書を作成するのみ。これで実質的に2005年度は終了で,4月まではわりと時間が取れる。これが大学教師のいいところでして・・・。しかしインフルエンザがまだ気管に残っていて,冷たい風で狭窄を起こして苦しくなる。体力もまだ十分に戻っていない。今日も試験監督をしている間についうたた寝をしてしまった^^今晩は早く寝て,あすは少し寝ていよう。

Step Forward

一歩を踏み出すことは、もちろん、日常の生活でこれまでできないと思っていたことにチャレンジすることも、奉仕や伝道に踏み出すこともそうですが、もっとも本質的なことは、「自分から離れること」です。足りない、足りないと、求めてきた自分、傷ついて自己憐憫に閉じ篭っていた自分、その自分から一歩を出ることなのです。禅の天才道元もこう言っている:

仏道をならうとは、自己をならうなり。自己をならうとは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるいふとは、自己の身心、および侘己の身心をして脱落せしむるなり。−正法眼蔵・現成公案

この「万法」とは「自然の法則」であり、もちろん私たちの得ている「いのちの御霊の法則」ではありません。しかし私たちも自分を忘れて身心脱落するならば、いのちの御霊の法則に証せられるわけです。禅学の大家鈴木大拙は「わしはイエスが覚者であることは分かるが、聖霊と言うものはどうしても分からん」と言った。ここに禅者とキリスト者の違いがあります。

再建主義者はこのいのちを見ていないので、あくまでも廃棄されたモーセ律法の適用となるわけですが、私たちはこの法則に乗るのであれば、孔子も言っているとおり、

七十にして、心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず

となるわけです。手離しで自転車を走らせるようなものと私は喩えていますが・・・。

真の礼拝

今のキリスト教界を見ていると、自分の必要の満たしのための礼拝、教会生活、学び、奉仕ばかりである。救世軍の山谷氏が指摘されていたが、米国のメガチャーチの成功の鍵は、あらゆる必要の満たしの設備とスタッフをそろえて置くことだ。

ここにあるのはまず神を拝する事ではなく、自分の問題解決や必要の満たしを得るために神を拝すること。つまり神を手段としている。すべての判断が「自分にとって」に基づいている。自分にとってやさしく、自分にとって益になり、自分にとって満足を与える者がGOOD。

これは特に心を病んでいる人たちに言えることであるが、彼らは自己の確立が不明確であるために、絶えず自分を受け入れ、自分を認め、自分を評価してくれる存在を求めている。この期待にこちらが沿っている間は、「Dr.Lukeは素晴らしい!」なのだが、いったんその期待をはずすならばエライことになる。お分かりになります?すべての基点が自分にあるわけ。

かくして教会ジプシーがあちこちをさまよい、様々の噂を流しつつ、このギョウカイを混乱させていく。本人自身も真の満足を得ることができないので、フラストレーションをさらに発散しつつ、悪循環に陥る。

真の満足や真の喜びは自己を離れる時に味わえる。礼拝を自己実現の手段とすることがないように。礼拝はただキリストにあって、キリストのため、キリストの満足のためのもの。自分にとってどうか―このような幼児性から一歩踏み出す必要がある。

しかしセルフ・オブセッション(自己がすべて)の今日このようなメッセージはあまり好かれないだろう。現代に主が地上におられたら、多分言われるであろう:「今人気がない者は幸いである。天において神の心を勝ち取るからだ。」

ホリエモンばかりでなく、私たちもすべてをゼロクリアして初めの一歩を踏み出す必要があるようだ。

どうも東大出身者は・・・?

TVでかつての東大生山崎氏の光クラブ(高利貸業)、江副氏のリクルート、そして今回の堀江氏のライブドアと、歴史的な大経済犯罪事件を解説していた。キリスト教界でもある人が東大は偏差値教育で歪んだ連中が多いからだと言っていたが、ちょっと、ちょっと・・・と私などは思うのだ。確かに東大出身者が派手にして複雑な経済犯罪を起こすことはあったでしょう。が、彼らは東大出身者のごく一部の連中なのだ。統計的に見て、他の大学出身者と東大出身者の間に優位な差があるかどうか、きちんとサンプリング調査をしてから結論付けて欲しいもの。

どうも何でもかんでも偏差値教育の歪みとする人たちは、偏差値に代表される学歴に対して何か屈折したコンプレックスをいだいていますね。偏差値は実に便利なひとつの物差しなのだ。われわれはそれを利用するが、縛られてはいない。事実私などは偏差値から見たら東大合格可能性は40%だったのです。

牧師なども世の価値に縛られないとか言う人ほど、実は学歴とか社会的地位に対するコダワリを抱いているもの。実はわれわれから見るとこの手の人はすぐに分かってしまう。ニッポンキリスト教界の妬みや嫉妬などの陰湿さは、世で得られなかったものを補償的にこのギョウカイで得ようとすることによるのだろう。真に貧しくあることを喜こべないのであれば、世で大いに儲けたらよかろう。真に低くあることに満たされないのであれば、世で学歴も社会的地位も大いに得たらどうだろうか。このギョウカイでジメジメとくすぶっているよりはよほど健全であると思うのだが・・・。

堀江氏の逮捕

いざ実際になってみると、ちょっと虚脱感を覚えます。いい意味でも悪い意味でも、彼はお祭りを盛り立ててくれました。祭りの終わりの虚しさみたいな感覚を覚えております。PCゲームの目立つキャラが引っ込んでしまったような・・・。やや複雑ですね・・・。

祭りの終わりの大事な日に、イエスは立って叫んで言われた。誰でも渇いている者はわたしのもとに来て飲むが良い。

二宮金次郎再考

前に金次郎の徳政にふれたが、リバータリアニズムの長所(自立性)を生かし、その過酷さ(1か0か)を避ける絶妙のバランスを彼は見せたようですね。案外ややこしい政治哲学などではなく、人の情が鍵なのでは?

真の豊かさ

インフルエンザはようやく収まりつつある。今回はやや重く、かつ長かった。ご心配いただきましてありがとうございました。

 * * *

救世軍の山谷氏とは不思議な縁がありますが、今回は大いに啓発をいただくことができ、主にあって感謝致します。ここでも何度も言及した「二分化社会」と「メガチャーチ」が「再建主義」をキーワードに整合的に説明できてしまうとは、実に鮮やかでした。私たちが真に対峙するアイオーンが新自由主義の姿として侵入しつつあるわけです。

何でも、氏の誇るところによりますと、救世軍仕官(=牧師)としての年収は、ご夫婦合わせて200万台。18万の手取りから3万の献金をされ、親子4人、月15万の生活をすでに15年間されているとのこと。信徒6名の牧会をされているようです。そのような生活をエンジョイすることを究めていると証しされている。(掲示板より)

私もかつて学生結婚し、長女が生まれる頃まで、年収170万の生活をしたが、今から考えると当時は実にリッチだった。しかしそれとは状況が違う。

今回メガチャーチの問題をするどくえぐられた山谷氏であるが、実際にこのような生き方をする主にある兄弟が、牧会の労を取ってくださっている知り、日本にはまだ希望があると大いに励ましを受けた。

主にあって敬意を表したいと思います。

発熱をおして・・・

この7,8年、熱なんて出したことがないのに、本日は二コマ講義が入っており、しかも学年末で補講期間がないので、ブルブルしがら講義しました。やつれている上に、ヒゲを伸ばしたので、『三丁目の夕日』の売れない作家のような風袋。学生が心配してくれて、彼らはやさしいんだあ〜涙。

というわけで、明日が1日休みですから、もう寝ます。

初めに聞いたこと

北海道の岩内からポーランドに移り、また英国に戻ったMax&SheilaからNew Year Greeting Mail が届いた。その中の一節:

‘Learning to Be Led by the Spirit, Not Purpose Driven(Rom.8:14)

「御霊に導かれることを学びなさい、パーパス・ドリヴンではなく」(ローマ8:14)

今日「トランスフォーメイション」とか、上記のだとか、尤もらしい人間の教えが密かに侵入しています。欺かれてはなりません。初めから聴いていた教え、つまり御言葉に留まりましょう。

甘くまろやかな主

どうも今回の風邪は胃に来るようで、ジワジワと胃が焼ける感覚ですね。カミさんと長女も同じ症状です。

こういったサイトを開いているとイロイロと絡まれたり、ご批判を受けたり、告発を受けたりするのですが、それでも皆さんから証しのメールをいただくと励まされるのです。ひとつご紹介したいと思います:

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新年の初回セレブ

1月1日に礼拝をしないのは何故かと思われるニッポンキリスト教の方もいると思いますが、私たちは家族と家庭で新年を迎えたいわけですね。で、今日が2006年の初回です。

今年のスローガンは「ステップ・フォーワード」。つまり「一歩の踏み出し」です。それぞれプライベートでもパブリックでも、主の招きに従って、一歩を踏み出すと。ヨルダン川をわたる経験でもあります。でも主が道ですから安心して下さい。

私たちはこのニッポンキリスト教と言うギョウカイとはあまり関わりを持ちたくありません。「リバ新」から本を出しましたが、私はニッポンキリスト教聖霊派や、○○教団や連盟や同盟などには一切関係ありません。下の「リバ新」の記事でも、「日本民族総福音化協議会」とか「日本キリスト教団聖霊刷新協議会」とか「全日本リバイバルミッション」とか、何か大袈裟な名前が並んでいますが、これって主のいのちと何の関係があるのでしょう。どうもこの世代の先生たちは全学連や全共闘のノリなんでしょうね。

私の世代はノンポリですから、クオリアを楽しみつつ、いのちの歩みをしたいわけです。あまり「決起」や「戦闘」や「奪還」とは縁がありませんね。では、また1年、懲りずによろしくどうぞ。

知恵の道は右手には長寿、左手には富と誉れ、そして楽しい道、平安な道、いのちの道。