日記

少々こわくなってきました

どうもニッポンキリスト教界はこわいです。再建主義ばかりでなく、下で紹介されている『リバ新』の記事なども、「決起」とか、「奪還」とか、「戦い」とか、これじゃ対テロリスト作戦みたいだ・・・。このギョウカイ、先生同士も因縁がくすぶり、先生と信徒の間でも遺恨が残っているようですし、とにかく表の「愛だ」、「赦しだ」と言う標語と裏腹に、潜在的な空気が陰湿でこわい。とてもクオリアどころではないようですし、いのちはどこかへ追いやられている感じがします。このギョウカイ、安心して身を置ける感じがしないのですね。

クオリア的生き方

この休み中に少々ヒゲを伸ばしてみた。私は若いころは老けて見られたが、最近は40台前半くらいに若く見られる。で、頭の方がややさみしくなっているので(汗)、ちょっと顔の方にと・・・。けっこう渋みが出たかと鏡を覗いて勝手に思っている。(が、カミさんと子供たちにはなぜか不評・・・)

昨日精神と物理化学現象の関係に興味があると書いたが、実はこの大脳が大脳を果たした理解し得るかどうかは分からないのだ。解剖学的にはニューロンのネットワークが徐々に分かっているし、神経生理学でもシナプスでの化学物質の働きなども解明されてきている。

しかしDNAの4つの塩基配列による遺伝情報の保存と再生のメカニズムのような根本的パラダイムが未だに分かっていない。(フォン・ノイマン型)コンピューターはONとOFFの二進数によって、AND回路やOR回路を組み合わせているだけ。その原理はきわめて単純。脳もそれと似ているが、しかしシナプスでのアナログ的要素があって、コンピューターとは相当に異なる。

この意味で私たちサイエンティストは常に己の限界がどこにあるのかと自問自答しつつ話を進めているわけ。デジカメでも画素数によって映像の質が決定してしまう。例えば一画素が1mm四方であれば、それよりも小さい物の像は決して写せない。CDなどもサンプリング間隔で周波数帯域が制限される。これと同じように大脳、そして言語と論理においてもある種の解像度と言うか、理解し得る限界があるのだ。果たして大脳の原理はこの限界の中に納まるのかどうか・・・。

対して神学者は愚かにも神を人間の言語と論理の中に収めようとしている。いや真摯かつ謙虚な神学者も多いのであろうが、己の解像度を知ることなく、自分の愚かさを曝しているだけの御仁もいるようだ。

言語と論理は大脳の、特に左脳の働きのひとつの表現であるが、右脳の感性やイメージはどう見ても表現し得ない。これを最近では「クオリア」と呼んでいる。これを提唱した人物は、布団に包まってぬくぬくとしている時の感覚と喩えているが、実は私はこの「クオリア」が大好きなのだ。温泉もそのひとつかな?トロトロと夢うつつに頭を使う大脳のアイドリング的・緩衝的働きと言える。

クリスチャンも左脳的(理屈と自己努力の世界)になるとクルシチャン化するが、右脳的(直感的感性と信頼の世界)に生きればこの「(霊的)クオリア」を楽しむことができる。昨年暮から正月まで各教会は様々なイベントでけっこう忙しかったようであるが、私は3週間たっぷりこの「クオリア」を楽しんだ。物理的にも、精神的にも、霊的にもぬくぬく感を楽しんでいたいのだ。

(本音:リバイバルのために、祈って、祈って、祈りぬけ!とか、徹底的に聖別されて、神の戦士として、戦って、戦って、戦い抜け!とか言われると、このデリケートな「クオリア」がたちまち壊れてしまうのだ。ゲンナリ・・・)

いよいよ2006年始動

ついに明日から始動です。時の流れは実に早い。どうも私は寒冷アレルギーがあって、気管支の狭窄を起こして呼吸が苦しくなるのですね。ちょっとツライ。

 * * *

アーサー・C・クラークの映画『2010年』のDVDを観た。当時から見た2010年ももはや目前であるが、現実の方が進んでいる場面と、遅れている場面のズレが面白かった。HAL9000のような自由意志的意識を持ったコンピューターは絶対無理(HALはIBMを1文字スライドさせた)。コンピューターはまさにカルバン的。運命(プログラム)の中でしか動作しない。現在量子コンピューターが提唱されているが、これも自由意志は持ち得ない。

対して人間の意識は自由意志を持っており、同時に物理科学的現象とシンクロしている。私たちが意志を働かせる時、大脳内における物理化学的現象が生じるのだ。この意識と物理化学的現象の関わりのメカニズムはどうなっているのだろうか。

ウォッチマン・ニーらに影響を与えたG.H.ペンバーの"Earth's Earliest Ages"によれば、創世記2:8に基づいて、神が体(soma)を土から造られ(=物理化学的存在)、霊(pneuma)を吹き込まれたとき、体と霊の相互作用によって魂(psyche)が生じたと説明しているが、これはサイエンスから見ても実に興味深い研究領域なのである。

物質と精神の関わり−私もこの20年ほど考え続けている。

この世の空気

ほとんど使わないケイタイが不調のため、カミさんと横浜駅地下プロムナードをブラブラしながら、ヨドバシカメラで機種変更した。普段大学では自分の研究室にこもっているし(だいたいキャンパスで鶯が鳴くし、たまにタヌキもでるのだ。数年後に都心に移転するが・・・)、世の空気にはあまり触れていないので、人混みを歩くことはかなりの刺激である。東京に出てきた時、雑踏の中で酔ってしまったが、最近もそんな感じ。要するに「御上りさん」状態。

で、店員がケイタイのいろいろなサービスについてアレコレ説明してくれるのだが、サッパリ分からない。「○○をお付けしますか?」、小生「えーと、それ何なの?」。で、説明が延々となされるが、結局は分からないので、「いや、要りません」といった感じ。

要は電話とメールができればよろしい。メールもほとんど受信だけ(変なスジのメールがやたらと多い)。送信はあのちっちゃなキーをチャカチャカできないので、「分かった」、「了解」程度。それにしばしばケイタイを忘れてどこかに置き忘れる、自宅の電話をかけて呼び出し音で見つける次第。便利なんだか、不便なんだか、分厚いマニュアルは見るものもうっとおしい。(要するに歳だよ、と息子に言われている)

 * * *

長女が友人と観光気分で秋葉原を探索してきたらしい。秋葉は昔は電気のオタクで、私もアンプなどを作るためにわざわざ上京しては部品を買ったもの。ところが現在の秋葉系と言われる人種はいわゆる萌え系ヲタクばかりで、腰までGパンを上げてベルトを高い位置で占め、ナップザックを背負ったロリ系のキモイおじさんたちの天国らしい。

そう、メイド喫茶の本拠地なわけ。何とディズニーランドのようにキモイおじさんたちが行列をなしているとのこと。中にはひとりでフィギュアに向かってブツブツしゃべりかけたり、嬉々としてメイドギャルとプリクラを撮る御仁もいるらしい。

いつからこんなになってしまったのか、このニッポンと言う国は。引きこもりやニートがその余った妄想的リピドーを発散する倒錯した世界が現在の秋葉原。いやキリスト教界も実はあまり変わりない。困ったものだ・・・。

ご紹介

KFC最年長(お歳は秘密)のひろこさんがついにBlogを開きました。このご婦人は英国のFaith03DVDにドアップで登場され、日本のリトル・レディとして有名になった方です^^

まったくゼロのキーボードから学ばれて、ワープロ、ネット、メール、そしてBlogへとチャレンジして来られたのですね。詩は私に送ってくださっており、ここでもちょっとご紹介しましたが、皆さんにもお読みいただけるようになりました。

信じて一歩を踏み出せば、何事もできてしまうわけです!

休みもやることが・・・

大学は木曜日まで休みなので、ちょっとゆっくりできています。でもね、イロイロとやることがあります。一番気が重いのが帳簿付け。私は、教会の会計はもちろんですが、家計もこの10年ほどは複式簿記で記帳しています。家計簿は主婦の仕事と言うのが一般的ですが、収入と支出だけの記帳では不十分なのです。

お金の動きにはストックとフローがありまして、前者は貸借対照表(B/S)で、後者は損益計算書(P/L)で把握できます。これをキチンとつけますと、自分の資産と借金のバランスも、収入と支出のバランスも正確に把握できるのです。そして何よりもあらゆる必要を満たして下さる主の真実を知ることができます。不正の金でも友人を作れと主は言われますが、金に振り回されるのでなく、金を管理すること。これは神のエコノミーの一部です。

昔ドンブリ勘定でやっていた時代はお金については何となく不安がありましたが、簿記で自分の真実を把握できるようになってからは、漠然とした不安は解消しました。不安とか恐れは対象を明確に見抜いていないときに起こります。まずはその対象の真実を正確に把握すること。すると何をどうすべきか、明確な対応法も見えてきます。

アップロードファイル 44KBちなみに日本国の財政はつい数年前まで家計簿と同じで、フローしか把握していなかったのですね。国の貸借対照表ができたのはついこの数年のこと。一般会計80兆、特別会計200兆(これが曲者!)の日本の財政はまさにドンブリ勘定です。かくしてわれわれの年金原資もグリーンピアとかで消えているわけ。このドンブリ勘定を改めないで、増税の足音がヒタヒタと・・・。東大法学部出た連中には庶民感覚はありませんからね。東大こそ諸悪の根源なのだ!

(私は東大に対して文句を言いたかったので、東大に入りました。今人気の『ドラゴン桜』最終回の桜木健二の台詞はなかなかよかった・・・)

ネット年賀状2006

$FILE1_l今年はこの世もいろいろありそうですし、キリスト教業界はさらに混乱することでしょう。そんな中で、普通のオジサン・オバサンとして、当たり前の日常を淡々と当たり前に生きる。そこにおられるインマヌエルなる主の魅力をさらに知りたいと願います。よろしくどうぞ。

(写真は摩周湖です。ここはもう10回近く行っているのですが、いつも霧が晴れているのです。一度霧の摩周湖を見てみたいのです・・・。)

行く年来る年・・・

何となく部屋を片付けながら、掃除をしてと・・・。

アップロードファイル 42KBアップロードファイル 50KBいよいよ今年も終わります。今年はなぜか富士山に積雪がなく真っ黒でして、趣がありません。で、わが家のバルコニーから見た昨年の富士山の写真をアップしておきます。

では、みなさまも主にあって良いお年をお迎え下さい。

雑感

午後またまた映画。ニコラス・ケイジの『ロード・オブ・ウォー』。闇の武器商人の実話に基づく物語。結局彼らを利用して武器を途上国に売りつけているのは、アメリカ、フランス、イギリス、ロシア、そして中国の国連常任理事国。表の顔と裏の顔の乖離がすごいわけ。

で、これはニッポンキリスト教界も同じ。このギョウカイ、ビョウキの人々が群れている。表と裏の乖離はこの世以上のものがあろう。私もこの数年、ありがたくも様々な"すばらしい"評判と言うか、数々の"名誉勲章"をいただいた。この世からよりも、むしろニッポンキリスト教界の人々から絡まれるようだ。が、なぜか満足があるのだ。

それは主の御手の中に守られている証拠。病んだ世界で好評判を得ることが何を意味するかは自明のこと。自分自身に対するイロイロな告発に対しては争う必要がない。それは告発者自身の心の有様を露わにするだけだから。議論も同じ。相手の病理性を露わにすればよい。ただし真理に対する挑戦に対しては御言葉を語ることで対応する、が、相手が認めなければ、それは相手の責任なので、それ以上折伏する必要はない。こちらの姿勢として和解の可能性に対してはつねに開いておく。

そして淡々と主を楽しみつつ、寝ている時でさえも主と共に生きること。これで十分。後は「ハードコア」でも書いたとおり、淡々と御言葉を語り、淡々と種を撒くこと。「そうこうしているうちに種は育ち、刈り取りの時期を迎える」。その日に焦点をおいて生きること。こんなシンプルな生き方ができたら、これは大いなる祝福と恵みであろう。

2005年ともあと1日でさよなら。今年新たに出会った皆さん、また以前からずっと知っている方々、主の配剤で関わることができましたことを感謝し、それぞれの上に主の不思議な大いなる御手があるように祈ります。

with every blessing!

年賀状とお歳暮

本日ようやく年賀状を作成。いつもいつも伸ばし伸ばしになるのですね。でも、80年代からの年賀状(家族写真を載せているのです)を見ていますと、わが家の成長の記録にもなっています。子供たちの受験や入学・卒業など、時々が思い起されます。で、もうひとつ、お歳暮をいただくのですが、そのお返しの手はずに追われと・・・。なかなかやる事が途切れません。

温泉三昧

3日間、ゆっくりさせてもらいました。体は精密マシンですから、メンテが要ります。年末のあわただしい時とは拝察いたしますが、皆様もご自愛のほどを。

 * * *

で、帰宅しましたら掲示板にまたまた難しい注文が入っておりまして、今、ざっとご回答しました(ハードコアをご参照下さい)。「余剰価値」についても霊的経済学を述べたいと思いましたが、少々疲れますので後ほど、と言うことでよろしくどうぞ。

北の国から−都路村のご紹介

福島の都路村で知り合いになりました芋久保さん(HN)のBlogです。ご自分で山小屋を手造りされています。「北の国」からの黒板五郎を地で行くような。

芋久保さん、トラックバックしました。メールでお名前間違えてすみませんでした。今後ともよろしくどうぞ!

無邪気さの強さ:T-1days

フィギュアの浅田真央ちゃんは実に強い。プレッシャーもなく、伸び伸びと滑っている。勝とうとしていないし、うまく滑ろうともしない。ただ楽しんで滑っているだけ。あの無邪気さにベテランもかなわない。彼女たちもかなり良い成績を出したが、見ている方がハラハラする。特にラストの安藤美姫(18歳には見えない・・・)は緊張感がビンビンと伝わってきた。

ところが二位だった真央ちゃんにはそれがない。単純に演技を楽しんでいる選手を見ると、観客も楽しめる。実は私たちの信仰も同じ。勝とうとしたり、クリスチャンとして失敗しないように、あるいはうまくやろうと構えると、見ている人たちもハラハラ。無邪気さの中で力が抜けた真央ちゃんスタイルで生きたいと感じた。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

いのちのままに飛ぶ鳥。私たちはキリストのいのちを得ているのです!

さて、小生は明日から温泉であります♪福島でも抜けましたが、さらに力を抜いてまいります。

山小屋より帰還:T-2days

アップロードファイル 5KBアップロードファイル 7KB

福島は今日は快晴。付近の山をS兄弟と息子さんとで散策し、都路牛の焼肉で昼食。白い雪と真っ青な空のコントラストが素晴らしかった。原始生活の山の1日は文明で汚染されたこちらの3日分くらいの感じですね。じっくりといのちの洗濯ができました。

S兄弟との交わりも、「フォーカスはキリスト。残された人生、イエスの魅力を極めること」で決まり。ややこしい神学の議論ではなく、単純に御言葉のみ。いつか彼が下山した際にはメッセージをお願いしておきました。で、1時ごろ福島を出て、高速を飛ばして、今さっき到着。

途中、何となくコンビニで買った谷村新二の懐メロ風CDを聴いていると、ある映画の主題歌の『群青』が流れてきた。この旋律は日本人には実にしみる(※)この映画は戦艦大和の最期と、国のために捧げられた者として、年老いた父より先に逝く二人の息子たちの物語なのだが、ふとその映画の最期の場面が思い起されて、何と不覚にも涙が止まらなくなってしまったのだ。今流しているBGMの御父が御子を犠牲にすることと重なったのか・・・。最近歳のせいか、涙腺がゆるい。

そして今また大和の最期を描いた映画『男たちの大和』が上映中。これからカミさんとレイトショーに行って来ます。あすはメッセージもないので気分も楽なのだ^^で、来週は温泉というわけで、遊んでばかりだ。

(※)私はニッポン人は嫌いだが、日本人でいたいのだ。