* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
かつて私のところに来られていた方が、最近癌で亡くなったと伺った。どうもバリバリの聖霊派出身の方のようで、私の聖霊派批判でつまづかれたようで、このところ見えなかったようなのだ。
伺うところによると、癌に罹ったが、医学的治療を拒み、"信仰"によって癒しを受けようとされていたようだ。私はこの手の話を聞くと、何とも言えない憤りを覚え、さらに躓く人が出ることも恐れずに、聖霊派を批判したくなる。悔しいのだ。
私はリバイバル新聞に記事を書き、本やヴィデオも出したが、ニッポンキリスト教のペンテコステ/カリスマ派、あるいは聖霊派とはまったく関係がないことを改めて表明しておく。ましてや「霊能者」でもなければ、「預言者」や「使徒」でもない。ニッポンキリスト教的「牧師」でもないし、私は単なる普通のオジサンにして、サイエンティストなのだ。ただ霊的要因を考慮に入れる「霊精神身体医学」を提唱している。
昨年亡くなった友人もヨガにはまっており、彼特有の「癒し論」を聞いてもいたが、私からすれば単なる迷信。彼も霊験あらたかな水を飲んで医学を拒んだ。欧米ではベニー・ヒンあたりに頼る人々もいて、死んだ人を彼の元に運んでくるケースもあるようだ。ほとんどビョウキの世界である。
現代でも神の直接介入による癒しはある。が、現代では人間の裁量権が及ぶ領域が広げられており、医学を通して神は癒しをなさる(まあ、神学的には「一般恩恵」とか言うのだろう)。私たちは神の宮である肉体を適切に管理する必要があるのだ。これは自己責任の問題である。歯を磨かないで虫歯になって、ヒン様の聖会に行って金歯をもらうとか実に愚かしい。毎日歯を磨きなさい。その意味で、癌は早期発見、早期治療である。
クリスチャンにとって肉体の死は滅びではないが、この種の迷信によってあたら大切な肉体の命(bios)を損なう人々がこれ以上出ないことを切に願う。
兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
Dr.Kさまがウォッチマン・ニーの"The Normal Christian Life"をギリシャ語から再検討されています。鍵になる御言葉をひとつひとつ吟味しており、霊的真理に対する理解を深めることができます。再度、ご紹介致します。
・みことばざんまい by Dr.K
クリスチャン・トゥデイ紙については、正常な霊的判断能力があれば、諸々の証拠と共に限りなく黒に近いと判断し得るが、依然として同紙に記事を書いている人もいるようだ。何故人はこういった事象を見抜くことができないのだろうか。
理由は簡単、色気があるから。メディアに露出したい人、メディアを利用して自分の団体を大きくしたいとか、名前を売りたいとか。要するに下心があるわけ。こういった人々にはいくら証拠を提示してもまず目が覚めないのです。
騙される人は騙す人によってソコをつけ込まれるわけです。ある意味で持ちつ持たれつの二人三脚。これはアメリカ発の諸々の現象も同じ。パワー・フォー・リビングでリバイバルが起こると思いますか?アブソリュートゥリー・ノー!
主は決して欺かれる方ではありません。だからこそ究極的にご自分を捧げることができたのです。先に私が畏れる人は、真にへりくだった人と書きました。今日は、欺くことができない人は自分を捨てている人である、と書いておきましょう。
ずっと前にアメリカで、日本人学生が「フリーズ」の意味を知らずに射殺された事件があった。この場合は「止まれ」の意味だが、元々は凍ること。人は面白いもので、先の電車の中でのレイプ事件のような場面では、フリーズしてしまうのだ。思考停止、そしてアクション停止。
今回の米国の射殺事件のレポートをTIME誌で読んだ。非常に詳細に事件を記述しており、その臨場感のゆえに私までも背筋が寒くなった。多くの学生や教師がなぜたったひとりを制止することができなかったか。証言を読むとやはりフリーズしている。生存者の言葉があるが、頭の中は「次は自分だ」と、ただ机の下にもぐっていただけだったようだ。
これはまた致命的になり得る病気に罹患した場合なども同様。真実を受け止めることができず、恐れの感情によって思考が停止し、フリーズする。姿勢は受動的で、自らアクションを起すことがきわめて困難となる。
サタンもしばしばこうやってクリスチャンを威嚇する。例えば、クリスチャン・トゥデイやローカルチャーチのように裁判の威嚇をもって真実の隠蔽を図る。こういったとき、決してフリーズして受動的になってはならない。何らかの声を上げ、アクションを起すべきなのだ。
ちなみに今回山谷さんは提訴された場合、クリスチャン・トゥデイが2ちゃんねるでなした同氏と救世軍に対する名誉毀損に対して、1円の損害賠償金を求める訴訟を提起することも予定されているようだ。いいですね、大いにやりましょう。何なら、私も原告として加わってもいいですよ^^
かくのごとく、自分の立つところを明確に宣言すること。聖書の真理を自らに語り、また人に語り、サタンに宣言すること。サタンは恫喝の名人なのだ。多くの心病んでいるクリスチャンを見ると、ほとんどの人がこの受動性の罠に落ちている。自ら立つこと自体に恐れを感じているのだ。結果は、されるがまま。
最も効果的なことは主の御名を語ることだ。イエスの名を大胆に語る時、そこに主ご自身もおられる。あるという方がおられる。
神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
まず神に服すること、そして立ち向かうこと。神に対しては能動的に受動性を取るが、敵に対しては能動的に立ち向かうこと。けっして恐れによってフリーズして、されるがままにされてはならない。
聖書は創造主による人間の取扱説明書にして、霊的な精神医学書なのだ。
・受動性の問題について
山谷少佐はクリスチャン・トゥデイ紙高柳泉氏による民事調停という、水面下でコソコソと問題を処理する魂胆に対して、毅然と拒否する心を固めつつあるようだ(→こちら)。その場合、CTは訴訟提起するだろうから、裁判となるが、弁護士費用が必要となる。しかし彼は年収300万未満世帯とのことで、それは困難。そこで本人訴訟(弁護士をつけないこと)も検討中とのこと。
私どもとしては、CT高柳氏の一連のやり方に対して、主イエスの名によってその卑劣さを断罪する。もし彼(高柳氏)が本当に裁判に打って出るだけの気概があるのであれば、私どもは少佐に対する支援を喜んで申し出たいと思う。「支援する会」を立ち上げることもできるだろう。ここをお読みの皆さまもCT高柳社長のこれまでの振る舞いにより、クリスチャン・トゥデイの本質が十分にご理解いただけていると思います。
よく言われる、「この教えは聖書的、あの方法は聖書的・・・」と。しかしこの単語ほど罠になるものはないだろう。山暮らしのM.Sugar氏がチャレンジを与えている。ポイントは「聖書的」にあるのではなく、そのお方なのだ。そのお方を外したものはすべてフェイク。「罪」の意味は「的外れ」とは誰もが知っている。が、その的とはいったい何なわけ?バプテスマの方法、集会のあり方、賛美や奉仕、教会のあり方、それともホーリネス?
・あるチャレンジ by Mr.Sugar
『文藝春秋』今月号のウッドワードのレポによると、イラク戦について、ブッシュは秘密主義を通しつつ、「父」に相談して決めたそうだ。何を隠そう彼の言う「父」とは、パパブッシュではなく、天の父のこと。完全に神がかりです。真の天の父がイラク戦を進めますか?
かくしてここに教会と国家がひとつになることの恐ろしさの証明があるわけ。『キングダム・ロスト』の世界そのもの。キリスト教徒天皇をいただくキリスト教国家ニッポンなどができたら、私は真っ先にどこかに逃げますね。聖霊派(ばかりではないですが)あたりの牧師らが「神の名」によって、政治権力を持ち、経済を運営する社会などはそれは不気味そのものです。それは2ちゃんねる的倒錯の拡大であり、倒錯が一般化すれば、それが"正常"になるのです。まことに恐ろしい世界です。
ガラテヤ2:20はきわめて有名であるが、大いなる誤訳のある聖句でもある。ここのギリシャ語の構造は大変にややこしく、よって訳者の主観を入れて訳してしまうのです。
さっそくDr.Kさまが取り上げてくださり、次のように訳されました。これで大いなる解放が訪れるのではないでしょうか?昨今の人間中心の「○○さんの信仰は素晴らしい」と言ったヨイショ的"証し"を聴くたびに私はうんざりしているわけです。私たちは誰の信仰で生きるのでしょうか?
私はキリストと共に十字架に付けられてしまった結果、今私は死んでいる。
だから、もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中で生きている。
というのは、今私は肉の中で生きており、私を愛しそして私のために
ご自身を引き渡された神の子の信仰の中で、私は生きている。
となります。「私は死んでいる」ので信仰を持ちたくても持てないのです。死んだ私に代わって、主イエスの信仰(神への従順)が私を生かしているのだ、とパウロは言っているのです。
主イエスの信仰が私(たち)を生かしているのです。言い換えると、主イエスの信仰によって私(たち)は生きているのです。
ちなみに英訳では、分かりにくい訳ですが、YoungのYLTが一番ギリシャ語に近いと思います: with Christ I have been crucified, and live no more do I, and Christ doth live in me; and that which I now live in the flesh--in the faith I live of the Son of God, who did love me and did give himself for me
前に<カルヴァンvsアルミニウス>の議論が無意味なものであることを指摘した(このBlogの過去ログまたは「ハードコア・セッション」参照)。また今回、ウェスレーの「全き聖化」なるものにある人間性疎外を指摘し、ウェスレーのパーソナリティとその神学が不可分であると述べた。よって神学は「学」足りえないと。これで怒り出す人もいるとは思うが、事実である。
神学は単なる個人的信仰あるいは経験の告白レベルに留めておくべきと思う。無限なる神を人間の言葉の中に固定化する試みなどは恐るべき高ぶりの罪であろう。無限なる神とある種の病理傾向を持つパーソナリティが相互作用して言語化されたものがいわゆる神学に過ぎない。ウェスレー神学はウェスレーの人格(多分、強迫性人格傾向)の反映であって、それ以上のものではない。再建主義にはまる人たちもある種の精神病理傾向を帯びているし、福音派だの聖霊派だの人たちもまた同じ。
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WOW!!!
emiさんがすごいサイトを発見しました。先に紹介したバーバー婦人の歌もありますし、ウォッチマン・ニーやジェシー・ペンルイスの著作が読めます。念のためウイットネス・リーとの関係を調べてみましたが、彼らはリーはカルトであると判断していますね。よっていわゆるローカルチャーチとは関係ないようですから、安心して読むことができます。これは久しぶりの大きな収穫です!どういった人たちなのか?
・Spiritual Christian Life - Biblocality
入り口です。
このサイトの中の−
・Hiding History About The Local Church Cult
いわゆるウイットネス・リーのローカルチャーチの隠された歴史(リーの右腕として彼らの誇る『回復訳』を訳したJohn Ingallusの89年当時の証言。今私がまとめている内容と重複しています。)
・6 Major Sins of Leeism
リーズムの6つの主要な問題点を指摘しています。
前口上−ええと、本日、私儀の誕生日とのことで、各方面よりお祝いの言葉をいただきまして、恐縮至極であります。どこかで言いましたっけ?とにかく、主にありて感謝申し上げる次第です。(気持ち的にはやや複雑なのですが・・・。)
今、教会史をざっと眺めております。黙示録にも予言的教会歴史が描かれているのですが、時系列の中で起きている教会歴史ですね。まあ、Philip Schaffの著書などを繰るべきなのでしょうが、時間があまりありませんので、あくまでも「ざっと」です。一言で言えば、下で述べたキリストの固定化による互いの異端排除の歴史・・・。これに政治が絡むといわゆる西洋史が構成されるわけ。
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前に外務省のラスプーチンこと佐藤優氏の『獄中記』を紹介した。その中で驚いた記述に出くわした。ヒトラーがニーチェの超人思想とワーグナー(反ユダヤ主義者)の音楽に相当に深く心酔していたことは知っていたが、何と彼は次のように述べている:
獄中生活を経てはっきり実感したが、僕の政治倫理は徹頭徹尾キリスト教的で、しかもプロテスタント的である。類型としてはカルバンに近い。しかし、僕自身はカルバンは決して好きではない。知らず知らずのうちに恐怖政治を行うのがカルバン・タイプだ。また、カルビニズムはイスラームではワッハーブ派に近い。神法が重要で、実定法に対する遵法精神はほとんどない。・・・僕自身の課題はカルビニズムから脱却することだ。
・・・キリスト教の外側から見るとルター派と改革派(カルバン派・ツビングリ派)は同じようなものだが、改革派から見るとルター派はむしろカトリックに近いくらいである。ルターの世界観も僕の規範からすると半分カトリシズムだ。ルターには狂気に近いものがある。ヒトラーが最も尊敬していた偉人はルターで、ナチズムはルター派の伝統なくして生まれてこなかった。獄中では近現代のドイツ哲学・思想を集中的に勉強したが、ドイツ的なものの見方・考え方の中に、現代の病理現象が圧縮されているように僕には思える。同著pp.360-361
カルバン派についてはそれを病理的に先鋭化した再建主義者を見ているとまったく同意であるが、ルターの評価には驚いた次第。彼には狂気に近いものがあり、その思想はナチズムに基礎を与えていた!確かにルターも批判者を十万のオーダーで殺しているわけで・・・。
いやはや私は思想なるものには怖さを覚えると前に書いたが、そのひとつの証左が与えられたかも知れない。キリスト教と言うキリストの影の固定化にして抜け殻を先鋭化するとき、神の名によって人を殺すことが自由にできてしまう!?狂気とはまさに「神がかり」のこと。それは赤軍派が「総括」と称して互いに殺し合ったのと同じ病理。ミームの伝染によりフォリア・ドゥからフォリア・トロア・・・と。日本がいわゆる「リバイバル」されることを私が恐れる理由はここにある。抜け殻としての「キリストの名」による神聖政治・社会などは、心底から恐怖を覚える次第。
キリストとキリスト教―そこには致命的な深い溝が横たわってはいないだろうか?
ウォッチマン・ニーは追求する人々の間では有名であるが、若い頃の彼を訓練した英国人バーバー婦人はほとんど知られていない。私もニーの本から断片的に知るだけである。彼女は中国大陸に宣教師として入ったのだが、大クルセードを開くこともなく、本を著すこともなく、ただ福建省の片田舎で、数名の若者を相手にしただけだった。
彼女が彼らに教えたことは、ややこしい神学や聖書の解き明かしでもなく、ただ自分の十字架を負うことだけだった。ニーはこの点でもっとも彼女から厳しい訓練を受けた。そして同時にニーは、彼女について、絶えず十字架につけられて焼かれている人を見ていた、と証している。その後彼女がどのような運命を辿ったのか、私はまったく知らない。しかし、今日、私たちもニーを通してバーバー婦人の放った香に与ることができる。