* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
下で紹介した文書をお読みいただくと、日本福音書房社長のH氏はリーに関する真実を自ら知っているし、認めている。が、それを信徒に語るとつまずくから語れないと言うわけ。ここには明らかに偽りがある。信徒がつまづくことを恐れているのではなく、自分の手から彼らが離れることを恐れているのだ。なぜなら自分が血を流すほどに努力して得た者たちだから。そこにあるのは強烈な自分(Self)なのだ。自分を守っているだけ。見事な自己欺瞞である。
一方リーの直系の弟子だった中国人Y氏(日本の「使徒」)の証言もまとめてあるが、彼は一切の事実関係を捏造であると否定している。ところがリー・スキャンダルを最初に口にし出したのは彼だったのだ。しかし彼は途中でリーに屈して翻意し、最終的には精神科にかかるほどに心を病んだ。その弁護士の通告書、脅迫まがいの電話と手紙もいずれ公表するが、「お前は僕を殺す気か・・・」と妄想じみた発言をしている。私が真実を語ることを真に恐れたのだろう。良心を偽った刈り取りである。リーを拒絶した子供たちとも縁を切り、現在は孤独の中にいる。(しかし私はどうも妄想系の人物に絡まれるなあ・・・が、やや哀れさを覚える次第)
かくして人は偽りに落ちるならば、必ず病む。H氏も心臓を病み、Y氏は精神を病んだ。何かを守ろうとするならば、それを失うのだ。主は言われた:
自分の魂の命を救おうとすれば、それを失い。失えば、それを得るであろう。自分の十字架を負ってわたしに従いなさい
と。自分の努力、自分の成果、自分の何か、これらを失うまいとすればするほど、もっと大切な何かを失うのだ。人には霊がある。その一部が良心であり、人の心の灯火である。そしてこの良心を偽ることは決してできない。あの山崎豊子の名作『白い巨塔』の財前と里美の生き方に明確に描かれている。
逆に良心が安らかならば、人からの攻撃や批判はさほど問題ではない。私も「2ちゃんねる」で「在日の星」とか言われているわけだが、別に目くじら立てる必要もない。私は大昔の祖先はいざ知らず、当面の血統は純粋な日本人だからだ・・・多分(笑)。主は良心に何らの曇りもなかったゆえに、他者の罪を引き受けることすらおできになった。良心は何に代えても守る必要がある。
現在私の元にある資料をすべてpdfファイル化する作業に入っている。ホームページだと改竄される危険とサーバーが消失する可能性があるため。今回紹介する文書はウイットネス・リーのオフレコでの長老たちへのメッセージである。これを読むとヒトラーの最期の様を彷彿とするのだ。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。
【続き】
この交わりにおいては無駄話も批判もあってはならない。いかにある人(リー)を批判しようとも彼は変化しない。また意見を表明してはならない。意見は交わりではない、それらは人を殺す。交わりは交渉ではない。われわれは政治をしているのではない。− ポール・ホン
過去15年間私たちは交わりを持ってこなかった。これは新しい光である。この新しい光の故に主に感謝する。ブラザレンは真理の議論に落ち込んだ。そこで学校にあったとき、私は小さな群れを教えることにひかれた。60年以上、通行量の多いハイウエイのように、多くの車が排除され、また多くの車が入って来るような状況であったが、私たちは固体ではない。私たちは叫ぶことができる、しかし私たちの行動は私たちの言葉に適合していない・・・過去における長老の訓練はすべて事務的なこと、あるいは意見の表明のみであった。私たちはこの言葉を必要とする−継続的に(リーの)教えと交わりに留まり続けること。− フェイス・チャン
この交わりはその使徒(リー)から始まって、聖徒達、すべての体へと拡大する・・・神は台北を全地上のシオンにすることを望んでおられる!彼の経倫においては彼は人が加わることを必要とされる。私たちはミニストリーとともに、三一の神とともに、彼の地上での目的を成就するためにそれに加わるのだ。これは調和である・・・その使徒はわれわれをその交わりにもたらした。諸教会はこの交わりを解き放つために祈りにおいて率先すべきである。その使徒が解き放つことは何でもそれが地上に解き放たれるために祈りが必要である。私たちはみな一つの事の交わりの中へともたらされた。その使徒はそのことで率先し、私たちは祈りでそれに従うのだ。 − ダン・トウ
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下でリンクしたサイトによると、ローカルチャーチは変わっていないなと感じる次第。最近でもタイタス・チュー兄弟と彼につく人々が"反逆"の働きを始めたとして、全世界のローカルチャーチから"quarantine(検疫)"されたようだ。私も彼を知っているが、かつては台北の長老であり、ウイットネス・リーの忠実な僕だった。
リーの弟子たちの主張は下の資料をご覧いただけると分かるが、「ひとりの使徒・ひとつの務め(ミニストリー)・ひとつの教え・ひとつの心・ひとつの実行」を何よりも重んじる。この「ひとつ」とは何を意味するかは容易にお分かりいただけることでしょう。かくしてこの「ひとつ」を壊す者は反逆者とされ、"検疫"されるわけ。まあ、彼らが自分で"Lord's recovery has not changed since the passing of Brother Lee."と言っているとおり、相変わらずですね(笑)。
ただこのような流れ、ローカルチャーチだけに留まっていないようだから不気味なのだ。ピーター・ワーグナーとかシンディ・ジェイコブズらの「現代の使徒預言者による宗教改革」などにはまさに同じ臭いを感知する。
【資料】1987年6月“台北における長老の訓練”からの引用:
リー兄弟は1984年10月にニューウエイを取るために戻ってきた;どの時代にもただ一つの動きがある・・・どの時代においても神は一つの動きを持っている。神は生きている、だから彼は動きを持つ。神は人間をご自身の動きの手段として必要とされる。神の動きは一つである。だからただ一人の人がいる。− アンドリュー・ユー
今日主の回復において私たちが真に一つ心を望むならば、私たちは同じラッパを吹かなくてはならない。そこで、神の新契約と主の回復においては、私たちはこのミニストリーに私たちの教えを制限しなくてはならない。あなたの発言は小さくはない。もしそれが異なっているならば、それは損傷を引き起こす。異なった発言は異なった動きに導く。−アンドリュー・ユー
台湾においては私たちはどのような異なった発言も許さない。ある者はリー兄弟は法王であると言う。しかしどのメッセージにおいてもリー兄弟は神の新契約の経倫の要点をついている。だからわれわれは彼に従うのだ。この訓練において私たちが実行したい第一の点は、絶対的に意見を言わないことである。椅子を動かす際にもそう言われた通りにせよ。今日あまりにも多くの意見がある。今日の主の回復においては、同じ事を語り、彼と同じラッパを吹くのである。この長老の訓練では、私たちはこの霊に入り込む。彼が語る事を我々も語れ。− アンドリュー・ユー
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「2ちゃんねる」に工作員と思しき方がスレを立てて下さっており、関連してご質問もいくつかいただいておりますので、この機会にちょっと触れておきましょう。彼/彼らはここもよくご覧いただいているようです。「2ちゃんねる」の方々も匿名の闇に隠れていないで堂々と対面で議論しませんか?私の方はすべてをさらしているのですから。
以前に公開していたサイトがGeocitiesの大幅な改変で更新ができなくなったことと、その内容があちらの微妙な変化によってやや修正が必要なので、現在作業中です。(山谷さんの立場がよく分かります・・・。)
1)まず「2ちゃんねる」のスレはおそらくリー・シンパあるいはローカルチャーチの人が、あえて私のクレジットを貶めるために立てたものと思われますので(しかしそんなに都合が悪いのかな?)、その内容にひとつひとつ応答・反論する必要はないでしょう。そこにすでに悪意がある以上、主の公義の御手にお委ねいたしましょう。
2)歴史的にウォッチマン・ニーはマダム・ガイオン、アンドリュー・マーレー、オースティン・スパークス、G.H.ペンバー、ジェシー・ペンルイス、特にJ.N.ダービーのブラザレンの影響を受けております。その原点はこちらです(→オリーブ園)。ちなみにこの管理者はローーカルチャーチの人ではなさそうです。以前にもここで申しましたが、私はローカルチャーチで福音に触れましたので、私のルーツおよびニーによって多大の影響を受けているコリン・アーカートのルーツもここにあります。
3)ウイットネス・リーの問題はこのような流れにあって、自らの偽りを、「真理の回復」として混ぜ込んでいる点にあります。完全な偽りであれば誰も騙されませんが、90%の真理に10%の偽りを混ぜると一緒に飲み込まされます。彼の教えの最も本質的な問題点は:
a)神は父・子・聖霊として区別された存在であるが(三の面)、同時に御子イエスは御父であり、キリストは聖霊である(一の面)。「三位格にして一つの本質」は三神論である。
b)善悪の木はサタンであり、その実を食べた時、人の体の中にサタンが内住した。これがローマ書の擬人化されている単数形の罪である。つまり人の肉体はサタンの住まいであり、邪悪である(肉=サタンの受肉)。
c)一方、神は人となった(第一の「なった」)。すなわちイエスとして神性と人性を混ぜ合わせた(mingling:ミングリング)。キリストはサタンをご自分の体の中に捕らえて十字架につき、サタンを滅ぼし、サタンを墓に残してご自分は復活された。かくして手順を経て「いのちを与える霊」、すなわち聖霊となって(第二の「なった」)、人の霊に住まい、私たちの人間性と神性を混ぜ合わせる。こうして人間は神になる(神化)。ただし神格は持たない。
d)教会は神と人が混ざり合った存在であり、イエスにおける受肉の拡大である。神と人(=教会)は混ざり合って、ついにはキリストとまったく同じ神・人(God-men)=受肉した神/肉において現れた神、となる。この完成が新エルサレムであり、それは神と人の混ざり合いの究極の姿である。
e)地上の教会は各行政区ごとにひとつだけ。これを「地方にあって合一の立場に立つ教会」と称する。正常な霊的生活、教会生活はこの立場に立つ教会「○○に在る教会」にあってのみ可能である。他はすべて分裂の教会であり、バビロンの娘たちである。よって例えば東京で福音を伝えるにはすでにその立場に立っている「東京に在る教会」に合流するしかないわけ。
f)ウイットネス・リーは現代の唯一の預言者であり、神は彼を通してのみ「回復の啓示」を与え、その御業を進めておられる。よってリーに逆らうことは神に逆らうことと同じである。個人的な罪は赦されても、神のこの行政に逆らう者は赦されず、裁きを受ける。
というわけで、おいおい私の元にある膨大な資料と欧米のサイトなども紹介しつつ、問題点を洗って行きたいと思います。とりあえず、前に紹介したRick Rossのサイトと、Christian Apologeticsを紹介しておきましょう。
追記:けっこう世界のあちこちで問題提起が起きているようですね。(向こうサイドのサイトもありますよ^^)
・ConcernedBrothes
・Nee,Lee&The Lord'sRecovery(ここで触れた諸論点について有益な議論がなされています。)
・The Lord's Army
どうもこの20年間、彼らの抱えている本質的問題は時にいろいろな形で噴出すようですね。
神は無秩序の神ではない。
とあるのですが。
CTのサイトを見ると分かるが、彼らは「全教会の一致」をさかんに強調する。山谷氏のBlogにおいてもそのことをもって同氏を糾弾している。
実はウイットネス・リーも同じ。彼らは「ひとつの行政区にひとつの教会」を「地方合一の立場に立つ教会」とか「地元にあってひとつの立場に立つ教会」と称して、その他の教会を「宗派」すなわち「分裂の教会」として断罪する。かくして自ら「○○に在る教会」と称するわけ。ところが、その名称で宗教法人格を取得しているのだから理解に苦しむ(笑)。この論で言えば、東京23区が独立行政区となったら、23の教会となるわけだ。
この教えはすでに問題を起こしている「東京キリストの教会(ボストンチャーチ運動)」においても継承されているようだ。韓国CTがリーの著作を掲載するのも「教会の一致」の根拠として「地方合一性」に共鳴するためかも知れない。かくして前に触れた漫画『20世紀少年』のカルトリーダー「ともだち」の世界が実現するわけ。そこでは一切の批判は許されず、「ともだち」に逆らうことは「絶交」を意味する(=粛清)。同様に「教会の一致」を壊すものは「神に逆らう者」、「呪われる者」とされる。リー教会の言葉で言えば、「個人的な罪は赦されるが、神の行政に逆らう罪は赦されない」となる。
以前に今後の教界のあり方を予想したが、メガチャーチや諸々のムーヴメントなどの「教えの風」の流行から見て、すでにそのようなフェイズに入っていることを今回の一件から確認した。山谷氏も私も「時代の霊」に触れてしまったのであろう。
昨日の件は非常に驚きました。山谷さんが言われるとおり、前代未聞ですね。例えば、私が今ここで朝日新聞を批判したとします。朝日は左翼傾向で、事実よりは記者自身の価値観を述べる傾向がある・・・と。で、この個人Blogに朝日新聞から電話があって、記事を削除せよ、さもなくば法的手段を取ると警告(実質的には脅し)をしたとします。皆さん、いかがでしょう?アンビリーバヴォ!!!朝日もいよいよ狂ったかと思うのが普通の人の反応でありましょう。
しかし今回、自称超教派的クリスチャン・メディアが個人である山谷氏に対してソレをなしたわけです。明らかに常軌を逸しています。ウイットネス・リーやサイエントロジーなども、欧米では訴訟マニアとして有名ですが、この日本でこういった事態を目の当たりにしますと、やはりある種の霊の活動が活発になっていると感じざるを得ません。もっとも、TVによく出られる脱カルト協会の浅見先生などもあちこちのカルトから訴えられておられますが。
批判者をすべてつぶすして口を塞ぐ―この背後に働く霊を識別する必要があるでしょう。それこそ、こういう場面でこそ"What Would Jesus Do?"と問うべきです。これはイエスの霊、キリストの霊でしょうか?かえって教界の中においてこそ、戦前の戦中のアノ霊が働いている感じがします。三猿の霊(見ざる・言わざる・聞かざる)と言いますか、挙国一致大政翼賛会の全体主義の霊と言いますか。まさに「物言えば、唇寒し秋の空」。今後のニッポンキリスト教界の命運を予言する事件です。
神よ、人が何者なので、これほどに御心にかけてくださるのでしょうか。
神は私たちの成り立ちを知り、私たちがちりに過ぎないことを心にとめてくださる。
この大祭司はわたしたちと同じ血肉をもたれているので、わたしたちの弱さを思いやることができない方ではありません。
ホーリネス系の年配の牧師の方がわたしの元に来て言われました:「私は長年にわたり"きよめ"について説教してきましたが、実は"きよめ"が何なのか分からなかったし、私自身ずっと葛藤して苦しんできたのです・・・」と。この方は真実な方です。
実際、私たち精神病理の学徒からみて、ウェスレーあたりの教えをまじめに実行しようとすれば、強迫神経症になるか、自堕落になるかのどちらかでしょう。リッパにやれてしまう人はウソをついている人です。
人間性を忘れ、人間の成り立ち、精神の法則、そして限界を知らない神学はこのような自前の苦しみを作り出す(→聖書的啓示と現代精神科学)。クルシチャンを見ていると、要するに自作自演の空回りをしている。髪の毛を自分で引っ張って、空を飛ぼうとしているわけ。ご苦労様なこと。
そしてもっとも深刻なことは、そのことを指摘すると、「自分はこれほどに真剣に、熱心に、頑張っているんだ!とやかく言われる筋合いはない!」と言われる。では、勝ヘ人になられた―真に奥義であり、これを知り、味わったら歓喜することでしょう。
牧師制度の話になるとけっこうセンシティブな反応が出ますね。本質的病理はBBSで書いて下さっているとおりです:
牧師制度に頼り過ぎている牧師と、なんでも牧師に頼る信徒。頼るべきお方が、なおざりにされている。
現状の問題点は本質的アイデンティティと経綸的(機能的)なそれが混同されていること。これがためにいわゆる教職者と信徒の間に質的相違があるかのように錯覚されているわけ。真理は、何もない!
私たち大学の教員が(繰り返しますが、私は「牧師」ではありません^^)、私は博士で教師だよ、君たちは単なる学生だよ・・・とやったらまったくの笑い話になる。しかしこれがニッポンキリスト教では当たり前のようになっている。Am I Right?
私たちの本質はキリストを長子とする兄弟姉妹、その中である人は・・・と任職がある。救世軍の山谷さんを意図的に引き合いにしているようですが、私が山谷さんに共鳴し、評価するのは、彼が少佐だとか、神学校の教職だとかによるのではありません。彼の信仰のスタンスと生き様に感銘を受けるからです。彼は親愛なる主にある兄弟であり(本質的アイデンティティ)、主にあってその委託を、たまたま救世軍と言う枠組みの中で少佐として(機能的アイデンティティ)忠実に果たされているのです。お分かりでしょうか?そこを山谷さんもちゃんと知っておられるのです。
カンコクキリスト教では特にこれが完全に混同されているわけで、「牧師様(ボクサニム)」として信徒の上に君臨する場合がままあるわけです。アメリカキリスト教ではパスターでは満足せず、アポストロにプロフェットになりたい人が多いのですね。本質的アイデンティティと経綸的(機能的)アイデンティティを混同する悲喜劇はそろそろ卒業すべきでしょう。(まあ、これ自体が私的には病理現象と言えるわけですが)。
精神分析療法は、それが可能な限り禁欲のうちに行わなければならない。つまり、患者が(治療の中でみたされない願望や欲望を治療者以外の人物との間でみたそうとする)行動化を起こしそうになったり、治療者との間で、甘えたい、愛されたいという転移性の要求を満たしてほしいと執拗にせがんでも、それを許容してはならないというのが禁欲原則である。
もし分析者が患者を助けてやりたいと言う気持ちでいっぱいなために、およそ人間が他人から期待することのできるすべての満足を患者に許し与えてしまうとすれば、患者はそれを快適に感じてしまって、人生の困難から抜け出して、好んでそこに避難所を求めると言う結果にしかならない。これでは患者を人生に対してもっと強健に、彼ら自身に課せられた課題に対して、もっと行動力を豊かにしてあげるという治療的な努力を放棄することになる。・・・分析療法では、この甘やかしは一切避けねばならない。分析医は患者に、満たされない願いを十分に残していなければならない。
どうでしょう。愛がないと言われるDr.Lukeの自己弁護の根拠です。現在のニッポンキリスト教のベタベタした気持ちの悪さ、ビョウキの人々が跋扈している現状に対するもっとも必要な警鐘です。しかし献金で食っている牧師にとっては大変なことでしょうね。
BBSで「牧師らしくなくて」とカキコしてくださった方がいました。おっしゃるとおり、私は「牧師」ではないのですね^^だいたい聖書に牧「師」なんてありませんから。牧者です(預言師じゃなくて、預言者でしょう?)。職業として献金で当たり前に食べてる先生たちからすると、お怒りをいただくでしょうが、私は偽牧師です(笑)。
前にも書きましたが、このニッポンキリスト教の「献身」制度がおかしいのです。考えてみて下さい、高々1%の業界で牧師家族を養い(下手すると子供の大学資金から退職金まで!?)、会堂を建て、働きを負担することがどんなことを意味するか。パウロは新しく生まれた教会(建物でもなく、教団でもなく、召し出された人々のことです)に対して一切の負担を負わせないように、自ら働いたのです。
さらに使徒行伝をよく読んでください。どこに牧師などの単語があるでしょう。そこでは長老たちが手紙をやり取りし、その中で「兄弟から、兄弟へ」とあります。また彼らは日々信徒の交わりをしていたのです。いわゆる教職制度は聖書にはありません!すべての人が聖徒であり、献身者であり、祭司であるのです。その中である人は使徒、ある人は・・・と経綸的な職務があるのです。それは油塗り(アノインティング)によるのであり、それを与えるのはイエスご自身であり、しかもそれは永遠のものでもなく、もしアノインティングがなくなれば、その人の役割はそこまでです。しかしそれにしがみつく人がいるので、周りは苦労するわけです。「牧師先生」をたてまつるために、ね?じゃないですか?
福音を普通のオジサン・オバサンの手に取り戻すこと。普通の生活を当たり前に淡々と送る中で、インマヌエルなる主と交わること。この時すべての人が証し人なのです。はっきり言いますが、一度現在の先生方には総辞職していただいて、ちゃんと仕事をしてもらい、自分の生活をきちんと建て直してから、福音を語っていただくべきでしょう。誰にも負担をかけないように、あえて献金で食べる権利を放棄することです。これが病んだニッポンキリスト教が再出発する第一歩です。まあ、これに触れることはタブーですからね、無理かな?
下のモラトリアム領域についてご質問を受けました。「もし神の御旨に反した意志の用い方をしたらどうなるのかこわい」と言われるのですね。大変すばらしい感受性です。
もちろんその決断の実を自分で刈ることになるでしょう。例えばあえて姦淫に落ちるならば、AIDSなどのSTDに罹ることもあるでしょうし、幸いな結婚生活を破壊することでしょう。この意味で
神はあなどられる方ではない。人は皆自分の撒いたものを刈り取ることになる
とあるとおりです。 とあるとおりです。が、パウロは と問題提起し、自ら回答を与えています。 鍵はキリストと共なる死にとどまることです! とあるとおりです。鍵は とあるとおりです。鍵は 神は宇宙の全権を有していますから、私たちの不実すらその上に主権を行使できるのです。ハレルヤ!
しかし不従順の罪のためにイエスの血が流されています。悔い改めによる赦しの道がつねに開かれているのです。何度でも十字架に立ち返ることです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
しかも私たちの不従順あるいは不真実ですら神の真実を無にしません。むしろ神はそれを摂理によって用いて、ご自身のご計画を推進されるのです。かくしてまたもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
石、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわFられた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
イエスはこのとき明らかに「杯」を回避しようと願った。が、それは父の御旨ではないと知っておられた。イエスの意志と父の意志が葛藤したのである。 再建主義の富井さんが救世軍の山谷さんに再び挑戦しておられる。山谷さんはもはや乗られることはないだろうが、富井氏の「黒か白か」、「0か1か」の有無を言わせないスタンスは相変わらずだ。もちろん真理にはグレーゾーンはない。しかし私たち人間と霊的世界の関わりにおいては、私たち人間の自由意志、あるいは裁量権の領域がある。神学では中間領域と言うようだが、心理学的にはモラトリアムの領域と言うべきか。ここで私たちは自分の良心と聖霊の関わりにおいて、自分の意志を通すか、神の意志を通すかの選択が任されている。ローマ書2:14に とあるとおり。このモラトリアムの領域には諸霊が働きかけ、イエスに対して悪魔がなしたように時に誘惑し、葛藤するイエスに対して天使が仕えたように時に私たちが神の意志を選べるように助けてくれるのである。 イエスの苦しみの足りないところを補うことは真に栄光でもあるが、私的には避けたいのだ。ある人の祈りがある:「主よ、今はあなたに従えません。しかしあなたの愛は必ず私を服させ、あなたが勝利されることを私は知っています」。 神は人になられた。しかも30年、ナザレで淡々と大工の倅として生きられた。この奥義は真に奥義である。 【追記1】富井さんのパーシャルプレテリズムに基づく黙示録の構造図解は面白い。これは資料として保存しよう。
主は何を恐れたのであろうか。イエスがもっとも恐れたこと―それは磔刑の苦痛ではない。人類の罪に触れること、いやそれをすべて引き受けること、いやさらに一体とされることだ。汚れをまったく知らない聖なる方が罪とされること(1コリント5:21)。病んだ人間の心の事実に直面することは、実に、イエスですらためらわれ、恐れたのだ。それほどに人の心は汚れ(マタイ15:18)、病んでいる。人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
実に天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。
人間性を忘れ、いのちに仕えない神学などは何の役にもたたない。それは見かけは立派でも食べたら腹を壊すいのちのない蝋細工。それ自体が人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。
そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
【追記2】山谷少佐の13日の記事は情報として非常に重要です。クリスチャン・トゥデイ紙については脱カルト協会でもやや問題提起されております。しかしこのメガチャーチ幻想に基づく「教会国家」はヒトラーの「第三帝国」や「文化大革命中国」と同じ臭いを醸していると感じ、私も鳥肌が立ちますね。前に書いた予測の不気味な成就です。ここで紹介されている「キングダム・ロスト」は私も気になっていた作品です(最近「キングダム・ニューヨーク」とか言うマルチ商法詐欺をしていたのがあったりで・・・汗)。
下のモラトリアム領域についてご質問を受けました。「もし神の御旨に反した意志の用い方をしたらどうなるのかこわい」と言われるのですね。大変すばらしい感受性です。
もちろんその決断の実を自分で刈ることになるでしょう。例えばあえて姦淫に落ちるならば、AIDSなどのSTDに罹ることもあるでしょうし、幸いな結婚生活を破壊することでしょう。この意味で
神はあなどられる方ではない。人は皆自分の撒いたものを刈り取ることになる
とあるとおりです。 とあるとおりです。が、パウロは と問題提起し、自ら回答を与えています。 鍵はキリストと共なる死にとどまることです! とあるとおりです。鍵は 神は宇宙の全権を有していますから、私たちの不実すらその上に主権を行使できるのです。ハレルヤ!
しかし不従順の罪のためにイエスの血が流されています。悔い改めによる赦しの道がつねに開かれているのです。何度でも十字架に立ち返ることです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
しかも私たちの不従順あるいは不真実ですら神の真実を無にしません。むしろ神はそれを摂理によって用いて、ご自身のご計画を推進されるのです。かくしてまたもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
イエスはこのとき明らかに「杯」を回避しようと願った。が、それは父の御旨ではないと知っておられた。イエスの意志と父の意志が葛藤したのである。 再建主義の富井さんが救世軍の山谷さんに再び挑戦しておられる。山谷さんはもはや乗られることはないだろうが、富井氏の「黒か白か」、「0か1か」の有無を言わせないスタンスは相変わらずだ。もちろん真理にはグレーゾーンはない。しかし私たち人間と霊的世界の関わりにおいては、私たち人間の自由意志、あるいは裁量権の領域がある。神学では中間領域と言うようだが、心理学的にはモラトリアムの領域と言うべきか。ここで私たちは自分の良心と聖霊の関わりにおいて、自分の意志を通すか、神の意志を通すかの選択が任されている。ローマ書2:14に とあるとおり。このモラトリアムの領域には諸霊が働きかけ、イエスに対して悪魔がなしたように時に誘惑し、葛藤するイエスに対して天使が仕えたように時に私たちが神の意志を選べるように助けてくれるのである。 イエスの苦しみの足りないところを補うことは真に栄光でもあるが、私的には避けたいのだ。ある人の祈りがある:「主よ、今はあなたに従えません。しかしあなたの愛は必ず私を服させ、あなたが勝利されることを私は知っています」。 神は人になられた。しかも30年、ナザレで淡々と大工の倅として生きられた。この奥義は真に奥義である。 【追記1】富井さんのパーシャルプレテリズムに基づく黙示録の構造図解は面白い。これは資料として保存しよう。
主は何を恐れたのであろうか。イエスがもっとも恐れたこと―それは磔刑の苦痛ではない。人類の罪に触れること、いやそれをすべて引き受けること、いやさらに一体とされることだ。汚れをまったく知らない聖なる方が罪とされること(1コリント5:21)。病んだ人間の心の事実に直面することは、実に、イエスですらためらわれ、恐れたのだ。それほどに人の心は汚れ(マタイ15:18)、病んでいる。人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
実に天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。
人間性を忘れ、いのちに仕えない神学などは何の役にもたたない。それは見かけは立派でも食べたら腹を壊すいのちのない蝋細工。それ自体が人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。
そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
【追記2】山谷少佐の13日の記事は情報として非常に重要です。クリスチャン・トゥデイ紙については脱カルト協会でもやや問題提起されております。しかしこのメガチャーチ幻想に基づく「教会国家」はヒトラーの「第三帝国」や「文化大革命中国」と同じ臭いを醸していると感じ、私も鳥肌が立ちますね。前に書いた予測の不気味な成就です。ここで紹介されている「キングダム・ロスト」は私も気になっていた作品です(最近「キングダム・ニューヨーク」とか言うマルチ商法詐欺をしていたのがあったりで・・・汗)。