独り言

神がかりのコワサ:T-5days

BBSで「反ユダヤ主義」の話題がありますが、キリスト教界と言うところのコワサは、人の(盲目的)熱心さと神がかりになることなんですね。ユダヤ人は神の選民、ゆえに神聖にして犯すべからず、○○主義や××神学は神の唯一の真理、ゆえに反対する者は悪魔に味方し、神に反逆する者・・・。やれやれ、お分かりになります?

人の血肉的熱心とそれを裏付ける神がかり、これがあれば人は何でもしてしまいます。かつての十字軍しかり、魔女狩りしかり、そしてKING KONGブッシュ(似てたぞ!)のイラク戦と(http://tanakanews.com/f1213Iraq.htm)。

私の本音:普通のノンクリスチャンとの付き合いのほうがどれほど安心していられることか。

クリスチャン、特に熱心で立派な人たちは互いに値踏みし合っている感じがしますね。だから、イロイロな団体に属して、自分は正統だと裏書がないとこのギョウカイではやっていけないらしいのだ。地域の牧師会も派閥ごとに分かれて、互いに値踏みし合っているわけで。なんだかとても疲れることです。と思いません?

神は人になられた―これはきわめて尊い奥義です。

アソビの病理(T-6days)

私のメッセージで、「霊と魂の分離」とか、「異なる火を炊かない」とか申しますと、何でも心配になる人がいるのですね。「今、自分は霊なのか、魂なのか」とか、「自分は今異なる火を炊いて裁きを受けるのではないか」とか・・・。分かります、この心理状態。要するにアソビがない!

ある聖霊派の人はすべてを聖霊様(私はこの言い方は苦手ですが・・・)に伺いを立てて聞き従うとかの導きを受けて、家から学校まで行くのに、交差点ごとに「聖霊さま、どちらへ行くべきですか」とやっていたら、学校に着けなくなったとか・・・。ほとんど笑い話的ですが、けっこうこの手のビョウキが多いのです。

皆さん、神の導きってそんなにタイトロープを渡るようなものだと思いますか?神は私たちをそんな緊迫感の中に置かれる方だと思いますか?断じてNO!神は安息の神であり、ゆとりの神であり、自由の神であり、私たちを楽しませて下さる神です。

人にはローマ書にあるとおり、自然の人であっても律法の教えるところをなそうとする心、つまり良心(岩波訳では「内奥の意識」)がありますし、さらにマラキ書2:15には「人には霊の残りがある」と書いてあります。

霊と魂の分離とかを神経質に心配するのではなく、普通の生活においてこの自然の感覚に信頼し、素直に従っていればよいのです。それは御霊の導きと矛盾しません。再建主義ではそれを認めませんし、自然に従えば獣姦を犯すと言うほどですが(相当に病的です)、それは聖書の語ることではありません。分かりますか?

霊と魂は相互作用しながら、私たちの心の動きを綾なしています。その時に御霊は私たちの良心と共に働かれるのです。パウロはこう言っています:「私の良心も聖霊によって証ししています」と(ローマ9:1)。これが私の言う「普通の生き方」です。自然ですし、力みなく、滑らかで、楽です。

ただ私たちの肉、特に魂の中に条件付けられたアダム的な価値観や生き方に対しては諸刃の剣よりも鋭い御言葉で手術を受ける必要があります。これによって真に霊のものかどうか見極めることができます。それをして下さるのはオペの達人霊的財前五郎であるキリストです。これは時に従って神が取り扱って下さいますから、安心して任せて下さい。

自分で取り越し苦労して、自分をクルシチャン状態に追い詰めている兄弟姉妹があまりにも多過ぎます。神は私たちの父・パパ・ダディ・お父ちゃんです!パウロはこう言っています:

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

「アバ、父よ」と呼ぶとき、内側が甘くなりませんか?神は甘美な方なのです!子たる自由をエンジョイしましょう!

カウントダウンT-9Days

ふう、今日も一日終わり。温泉まであと9日と。ニンジンをぶら下げて、カウントダウンしている間がいいのですね。食べてしまうとややさみしくなるわけで・・・。

で、どこかイイ温泉を紹介してと兄弟姉妹にも言われますので、Dr.Lukeお薦めの宿をちょっと(伊豆に絞ります):

南楽:瓶の露天風呂があり、天井の低い和屋敷で、色は黒を基調としてものすごく落ち着く。囲炉裏つき和室で懐石風料理を堪能できる。

金屋旅館:何と言ってもプール並みのヒノキ造りの千人風呂。ちょっと古いがそれが魅力。

堂ヶ島温泉ホテル:西伊豆の海辺にあるヒナ壇作りのホテル。三四郎島へトンボロ現象で歩いて渡れる。露天風呂は駿河湾の夕日を見ながら最高。

土肥館:若山牧水ゆかりの旅館。露天風呂には巨大なゴムの木が。太鼓で出迎えてくれる。

玉樟園新井:今年の予定。土肥の老舗。TVドラマの舞台や将棋戦の場としても有名。

伊古奈:温泉婁がみごと。別館への回廊は見もの。

白壁荘:石川さゆりの「天城越え」の舞台となった宿(今日のTVででも紹介されていた)。露天の巨石風呂と巨木風呂がすごい。仲居さんが新宿2丁目系の野太い声で世話してくれる。わさびが最高。

山海亭:駿河湾と富士を一望する露天風呂が最高。西伊豆は魚が新鮮。

湯本館:川端康成が『伊豆の踊り子』を執筆した渓流のほとりにひっそりと立つひなびた宿。夜は星がキレイで、シーンと静かです。

白雲荘:万葉の里。白壁造りの落ち着いた宿。高級な料亭風で、懐石料理が美味い。

北川温泉ホテル:太平洋を一望するロケーションが最高。料理は豪華。食べ切れない。温泉は豊かにあふれている。

黒船ホテル:豪華絢爛のホテル。設備、料理共にすごい。風呂は下田港を一望。実は私どもが新婚旅行で泊まった想い出の処でして、当時はこんなに立派ではなかった・・・。

と言うわけで、これまで訪れた温泉の中でごく一部の思い付いた処をご紹介しました。また思い出したらご紹介します。

究極のメタ言語

パウロは言っている。

あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

つまりコリント人そのもの、彼らの生そのものがキリストを語るものであり、すなわち彼ら自身がキリストを説明する言語、つまりキリストのメタ言語だと。キリストのメタ言語の特徴は次のとおり。

真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

閉鎖性の病理

カルバンとアルミニウス(決定論と偶然論)の議論が現代科学ではまったく意味のないことをすでに述べましたが(「いや、神学的には意味があるのだ」と言われれば、「ああ、そうですか、勝手にどうぞ」となります。ますます神学は・・・となるだけですね)、文句の言いついでに、進化論に対する批判について、私はクリスチャンですが、批判してみましょうか。

よくご丁寧にエントロピーを持ち出して無秩序から秩序が生じないことを「論証」しますが、われわれから見ると、足し算引き算しか知らない小学生が、微分積分に異議を唱えるようなものです。無秩序から秩序をエントロピーの法則に矛盾しないように作ることができるのです!これを「自己組織化」あるいは「散逸構造定理」と言います。

また確率論を持ち出して、DNAができる確率は、バラバラの部品を空に投げたらジャンボができる位の確率だとして、自然にはできないことを「論証」しますが、これもナンセンス。

自然数の個数は無限個ですね。では自然数の比で表される有理数の個数は、もちろん無限個です。ではどちらがたくさんありますか?もちろん分数・・・ではありません。自然数と有理数は同じ個数です!しかも任意の二個の有理数の間には無限に有理数があります(これを稠密性と言います)。

さて√2などの実数は有理数ではありません(整数比では表せない)。で、無理数は無限個ありますが、これは自然数や有理数の無限個よりもさらに大きな無限個です(正確には「濃度」と言います)。この有理数と無理数をあわせて実数と言いますが、かくして「自然数の個数/実数の個数=0」なのです(正確には測度論を必要とする)!言っていることが御分かりでしょうか。確率をパスカルの古典論でいじくりまわして「確率が限りなく0に近いから起こり得ない」とする神学者の「論証」はナンセンスなのです!

このように私たちサイエンティストから見ると、こう言った幼稚な進化論批判などはますます真摯なサイエンティストをのけぞらせ神から遠ざけるだけでしょう。独り善がりのオメデタ・キリスト教徒となるわけです。これは神の創造を信じる私ですら、このニッポンキリスト教界と触れているとますます強く感じることです。閉鎖社会の中でメンツを張り合って空回りしているだけの「井の中の蛙」なんですね。

「リバイバル音頭」で酔ったり、「何とか神学」を狂信する前に、もっと真摯かつ謙虚に学ぶべきでしょう。

聖書の読み方

赤子さんがハードコアでとても大切な問題提起をして下さっています。私が神学について苦言を呈する理由もそこで述べておきましたが、神学は単なる「メタ言語」に過ぎないのに、その対象である御言葉に置き換わる危険性を指摘しておきました。御言葉から離れて「メタ言語」内での空理空論に落ちる危険があるのです。(これを「ピグマリオン症候群」と言います)

メタ言語の病理については→科学と信仰

はっきり言って、私はカルバンとアルミニウスなどまったく知りませんでした。が、一応クリスチャンと思っています。御言葉を読む時に、別に神学を知らずとも、御言葉を理解することができます。

例えば、神学で「義認」と言いますが、「義認とは・・・である」などど神学的定言を知らずとも、私は次のようにアプローチします:

ローマ4:6以降で「行いによらず神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は幸いである。主から罪があるとみなされない人は、幸いである』」

ここを読めば、「罪を赦され、覆われる」ことがひとつの段階であり、次に「罪があるとみなされない」ことが続きます。ですから私は、神学書など一冊も読んでいませんが、「義とされることは罪があるとみなされないこと」と理解するのです(※)。これが何神学かは知りません。

※Darby訳では欄外注に"not account of him as having any"の意味であるとあります。さらに意味が明確になりますし、確信が沸いてきます。つまり「たったひとつの罪も持っていないとみなされる」のです!

たとえれば、交通違反をして切符を切られますと、罰金を払います。これで不法が赦されます。払わないと逮捕されます。しかし点数は残ります。しかし神は点数も残らないと見てくださるのです。つまり私の神の前の点数は0点です。これが義とされることであると私は理解するわけです。

かくして聖書があれば、神学書がなくても、義とされることを理解することができるわけです。この理解が神学的に正しいかどうか、私は知りませんし、そんなことはどうでもよろしい。私と主との関係はこれによって確信をもち、ますますイエスを慕わしく思え、イエスとの交わりに大胆に入ることができます。

これが神学書など一冊も読んでいない、一サイエンティストとしての私の方法論なのです。

(本音:そもそも主流派とか福音派とか聖霊派なんていうのも知りませんでしたが、知らなかったほうが幸いですね。)

家康とキリスト者

徳川家康:人生は重荷を背負って、坂道を登るが如し。

主イエス:わたしについて来たい者は、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい。自分の魂を救おうとする者はそれを失い、わたしのために失う者はそれを得るであろう。

ある未信者:何だか同じだよ〜。クリスチャンになるの、ちょっとまだやめとこ。もう少しこの世を楽しんでから、そう、死ぬ直前に洗礼受けようと思います。

なるほど、現状では正解かもしれない。

クルシチャン諸氏よ、十字架は解放です!自分のために苦しむから苦しいのです。それは逃げようとするから。それは魂の粘着性。

ガイオン婦人は「十字架は甘い。私は私の十字架に口づけする」と言っています。

昨今の事件について

Dr.Lukeは:普通さ(健やかさ)が壊れているため。アダムが失った神のいのちによる癒しと回復が必要。なぜなら人は自ずと聖を求めるものだから。

再建主義者は:普通さの行き着くところ。だからモーセ律法を普及させ、例えば中絶した女性などは見せしめとして公開処刑にせよ。そうすれば犯罪はなくなる。

ちなみに今回の犯人の専攻は刑法、しかも「犯罪と刑罰」のゼミでトップの10%に入っていたようですね。オツムはよくても、あまりにも幼いのです。小児性があり、多分被害女児にある種のロリコン的愛情をいだいており、その彼女から自分のアイデンティティを傷つけられたのでしょう。

予備校(特にYゼミあたり)や塾などでは普通ではない、ちょっとアブナサのある人物の方が人気があります。小児性が生徒と共鳴して、受けるのです。元ヤンキーとか、「族」だったとか。大人は人気が出ませんね。

なぜかニッポンキリスト教界も同じ。もとヤクザだとか、ヤクをやっていたとか、フーゾクにいたとか、これがウリになるのです。共通する要素は小児性。牧師と塾講師の価値観も同じ。信徒と生徒の動員数がすべて。立派な箱物を作りたがるとか・・・。実によく似ていますよ。

また女児が・・・

オカルト的な猟奇的事件の後、すぐまた塾で講師によって女児が刺されて死亡とのこと。二人の娘を持つ父親としては何ともやり切れない。航空機事故などもそうなのだが、この手の事故や事件は続くのです。

確率論的には、こういった稀な事象はポアッソン確率過程に従います。この場合、待ち時間分布は指数分布となり、一度起きると比較的短期間で続くことは確率法則なのですね。ちなみに地震等も同じ。

しかし流行なども言えることですが、ある種の霊的な流れがあると感じています。空中の権を持つ霊たちが時々にこういった事件や事故に関わっている印象を持っています。確率法則の裏に霊的因果関係があるのか、ないのか、残念ながら現在のサイエンスでは実証できませんが、聖書的にはあり得ることでしょう。

サタンは人の、特に健やかさとか健康とか満ち足りることや安息など、そういった人間的要素を嫉妬し、破壊しようとするのです。被害者の方々が神の責任を問い、神を恨み、神の慰めを拒むことがないように祈ります。

悪魔の目的は盗み、殺し、破壊することですが、イエスは癒し、回復し、建て上げる方です。

わたしが来たのは羊がいのちを得、しかも豊かに得るためである。

名作『火の鳥』

余剰価値的一日でした。じつにまったりと・・・。

で、何気に山谷氏のBBSを見たら、まだ富井さんが私に対して訴えておられるとのこと。私が「神学の素人」で「クリスチャンでない」と結論されたのだから、もう十分ではなかろうかと思うのですけどね・・・。私的には大切な論点は網羅してしまいましたので。

何しろ私は神学書などは一冊も読んだことはありませんし、独学したこともない。高校の世界史レベルの知識、否、それすらもないなあ〜。何しろ高校時代は赤点すれすれ。入試では、当時は共通一次はなく、東大は独自の一次試験があって、理系も社会二科目を科せられていた。でもね、英数国理でほとんど100%取れるので、社会は0点でも通るわけ(イイ時代でした)。でも最終合否判定を考えてなるべく点を取っておこうと言うことで、過去問調べたら、四択で「2」の正解数が高い。で、・・・、と言うわけ^^まあその程度です。

かくして、<カルバンvsアルミニウス>なる議論も最近知った次第。で、ちょっとかじってみると、私たちサイエンティストから見ると決定論と偶然論をめぐる議論で、すでに述べたとおり、ill-posedな問題(無意味な論争)であることが分かってしまった。光は波動だ、いや粒子だ、とケンケンガクガクやっているようなもの。かなり脱力。ここでバルトがどうのと言われても、「へえ〜」としか・・・。そもそもこんなことで互いに異端のラベルを張り合っている神学者たちって・・・と。

再建主義者を見ていると、何だか(かつての)自分を見ているような感じがすると先に述べたが、これは本当です。手塚治虫の『火の鳥』に猿田博士と言う孤高の天才科学者がいて、自らの手で生命を創ろうしているわけ。しかし彼の創った生命体はガラスの中でしか生きることができない。彼は必死になって神に祈るのです、「神よ、私に生命の秘密を教えたまえぇっ!」と。

彼は自らの醜貌を恥じて人を遠ざけているが、実は温かい愛に飢えている。人の温もりに渇いている。それで自分を賛美するだけの美しい女性型ロボットを周りにはべらせるのだけど、心の空虚さが埋まらない。かくして、彼は・・・、と言う物語です。

再建主義者がヒューマニズムと断罪し、律法をもって埋めようとしている真空領域は、実はモーセ律法では満たされない。いのちではないから。モーセ律法はその型は持っているが、実質ではない。彼らはその真空領域を懸命に「学」の追求で埋めようとしているが、ガラスの外では生きることができない。彼らが求めるのは自分を認めてくれる人々。富井氏も私にある種の期待を抱いていおられたのかもしれない。残念ながら私はそれに応えることはできない。

再建主義者たちには、猿田博士の渇いた絶望的な追求の人生の道程を思ってしまうのですね。彼らは「イエスは主」と告白する以上、論敵ではなく、主にある兄弟なのです。

聖書と社会システム

山谷さんのBBSではコモン・ローの問題が再提示されてきました。で、過去ログを紹介しているので、読んでみましたが、これが実に面白い。自然科学と人文科学は一応カバーできていると思っている私ですが、社会科学はまったくの音痴です(経済学だけは数学の言語で語られますので少しは分かりますが)。が、その私にとってもかなり面白い。

ゲイリー・ノースの「Y2K世界崩壊」の外れ預言はコンピュータ・オタクの私にとっても一大記憶として鮮明に残っている。同僚の先生がエラク心配して、質問を受けたことがあったし、クランシーの小説もありましたね。しかしその背後にこれだけの思想体系が横たわっているとは・・・。

アメリカの政治システムについては鹿嶋春平太氏の『聖書が分かると世界が読める』において、共和党と民主党の本質が論じられており、けっこう面白かったが、さらに再建主義による国家建設を目指している人々があることはごく最近知った。

しかし日本においても、かつてレーガンがフリードマンのサプライサイド・エコノミクスと共に目指した「小さな政府」を志向するようになっているが、このレーガンを選出した一大勢力が新右翼思想と言われる再建主義勢力なんだとか。

こう見てくると、日本はアメリカの見える部分だけを真似しているだけとも思えてきますね。教界も、社会も。まあ、ベニー・ヒンがニッポンキリスト教の総帥となり、再建主義社会が実現するようなことはないと思いますし、そうならないことを祈りますが・・・。(考えただけでも震えます。)

紙一重の差

カルバン主義とアルミニアン主義はプロテスタントでの大きな分裂要因であるそうだが、実はその違いは紙一重であるらしい。私自身はどちらに属すかは分からないのだが、Dr.Lukeと富井氏の差も実は紙一重。両主義についてはこちらがよくまとまっている。

カルヴァン主義、アルミニウス主義、神のみことば

こういった議論をするのが神学だというわけだが、御言葉をこのようにニンゲンの頭に入る形で定式化した時点ですでに御言葉から離れてしまっている。ヴィトゲンシュタインは「言語は世界の映像である」と言ったが、「論」はまさに実体ではなく、映像なのだ。ところがいったん神学の定式化ができてしまうと、今度はその映像のレベルでの齟齬をめぐって議論が生じる。その際、御言葉(と主ご自身)はどこかに置き忘れられている。郡盲像をなでるが如し。対してチャック・スミスは御言葉をそのままに述べているだけ。私的には一番フィットすることは前にも述べた。

同じように、私たちの神への信仰と唯物論的共産主義は致命的に異なり、その間には絶望的なギャップがあるかのように見えるが、実はその違いは紙一重なのかもしれない。共産主義も「すべては唯一物論的に展開する」という一種の信仰だからだ。進化論も同じ。誰も見たことのない進化を、彼らは見ないで確信している。それはまさに信仰。世界を説明する映像の違いに過ぎない。

かくして私たちとの違いはその信仰の対象。だからこちらサイドからどれほどに合理的な説明をして進化論の矛盾を突いても、彼らにとっては無意味。彼ら自身が進化論には不十分な点があることは十分承知だから。日々彼らは進化のメカニズムの解明を試みているわけ。それぞれの神学の派の人たちも同じ。その枠の中で日々精進に励んでいる。

つまり進化論を選び取った時点で彼らのコースは決まっている。これは私たちの側も同じ。神を選び取った時点で私たちのコースは決まっている。神学の派も同じ。それぞれのコースに入れ込めば入れ込むほど軌道修正は困難となる。そしてそれぞれの実を結ぶに至る。しかし選び取るその瞬間にどちらを選ぶかは紙一重なのだ。ここに働くファクターは一体何なのだろう?なぜ私は神を選んだのだろうか?

ここまで来ると、私の頭はキャパを超える。一般恩寵によるのか、特殊恩寵によるのか、どうもそういった人間の言葉による"説明"はピンと来ない。ただ願うのは、時々において私が何を選ぶか、神の目から見て誤ることがないことを祈るだけ。ある人が言った:信仰とは選択である、と。

イエスの声

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

その声は威厳があり、しかし静かで安らかさを覚え、慕わしく、麗しい。これからの教界は騒がしい、派手な、人目を惹く声が多く聞かれるようになるだろう。その喧騒と混乱の中で、静まって、この方の声を聞き分けられる人は幸いである。

次の御言葉は・・・1ヨハネ2:26-29

私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。あなたがたのばあいは、キリストから受けた塗り油(原語)があなたがたのうちにとどまっています。

それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、―その教えは真理であって偽りではありません。―また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。

もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。

今となっては無理ですが、再建主義を代表する富井氏はこの御言葉をどのようにとらえるのだろうか?これも彼の言うTheonomyの一部なんですが。このような御言葉は彼の書き物にはまず触れられていません。

1)信者にはキリストの塗り油がある。

2)この油はすべての真理を教えるから、誰からも教えを受ける必要はない。

3)この油の教えるとおりにキリストにとどまる。

4)善を行なう者は神から生まれた者である。

どこにモーセ律法が出てくるでしょうか。生まれの問題、すなわちいのちの問題でしょう?

今日、確かに、惑わす者が多く現れていることは間違いありません。