独り言

自律と他律?

山谷氏のBBSにすごい投稿がありますね。日本を「目には目を、歯に歯を」の同害復讐法を採用する警察国家にせよ、検察よ、ガンバレと・・・。この方はここでも「ヒューマニズム」のところでレスを下さった方ですが、再建主義の方だったのかな?

再建主義では、人間は全的堕落で、意志すらも堕落していますから、すべては神によらないとダメなわけです。要するに自律性が一切排除されます。これはハードコア・セッションでも富井氏が、「聖書はすべて神の命令であって、一字一句服従するのだ」と言っておられるとおりです。かくしてこれを社会に適用すればモーセ律法を一字一句遵守することになるわけ。よって「目には目を、歯には歯を」です。要するに人は枠にはめないと獣姦を犯す存在なのですね、彼らにとっては。自律性はヒューマニズムなのです。

下にも書きましたが、いのちの御霊の法則によって働くいのちは内的な性質として神の義を好み、神の聖に従うことを欲求するいのちなのです。人のいのちは四足で歩くことを好まず、二足歩行を好みます。同様にキリストのいのちに従えば、自律的かつ内的に神の基準を生きるのです。なぜなら御霊は神の義をlustするからです。このlustという単語は普通は「情欲」と訳されていますが、ガラテヤ5:17にある「霊の願うところ」(新共同訳)の「願う」の原語もlustです。ですから、御霊に導かれているならば律法の下にはいないのです(18節)。

まあ、彼らはこの律法をパリサイ学者の律法主義の律法だとしているわけですから、これ以上議論になりませんが。素朴な疑問として、憲法にも制定のままの純粋な憲法と、憲法学者の憲法があるのかなと・・・(笑)

いやあ、これほどに深刻な福音理解の齟齬があるとは思いませんでしたね。しかしこれをとおしてますます聖書の真理が明確になったことは事実です。聖書にはこうあります(向こうさんも使うかもしれませんが):

あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。



補遺:刑罰の程度はモーセ律法とは別に考えたらいいと思いますけどね。

普通であることの祝福

再建主義では「普通性」を極端に嫌い、その究極に獣姦があるという。これ自体ですでに彼らの病理性が分かるが、では聖書は何と言っているでしょうか。

1)人は神の形に造られた。しかし第一の人アダムはその実質である神のいのちの内住を得損なった。

2)神から断絶されて、いのちの木への道も封鎖された。かくして人は魂と体の生き方、つまり肉となった。

3)ローマ2:14-15にあるように、たとえ律法を持たない人あるいは生まれながらの人であっても、良心が善と悪をわきませさせる。これが私の言う「生まれながらの価値観」であり、自然法の根拠です。(再建主義はこれを一切認めない。)

4)人は善を行ないたいという意志はあるが、力がない。人は思いの中にある神の律法を行ないたいと言う法則と、体の中にある罪と死の法則のはざまで、神の律法を行なうことができない。つまりアダムのいのちには力がない。

5)キリストは最後のアダムとして旧創造を終わらせ、第二の人として復活の初穂となり、同時にいのちを与える霊として、御霊によって私たちに内住され、わたしたちのいのちとなられた。そのいのちはいのちの御霊の法則に従って働き、私たちを罪と死の法則から解放した。

6)御霊に従えば、このいのちの御霊の法則が自動的に働き、たとえ知識として律法を知らなくとも、律法の要求は私たちの内で満たされる。

7)ロマ書の語る私たちの生まれながらに持つ普通の感覚はいのちの実質を得るときに、実際に行なうことが可能とされる。つまり私たちはますます普通な人になるわけ。

8)カルトや異端はこの普通さをその教義や聖書解釈によって壊していく。もちろん私たちは自己中心で生きてきたから、例えば「得るためには捧げよ」と言う御言葉には当初は肉の抵抗を覚える。しかし自己をおろして従う(=自分の十字架を取る)ならば、むしろそれが解放であり、自由であり、喜びであることを味わう。

9)この自己を処理することは私たちの意志により、そのとき御霊は内なる業をして下さる。つまり「得るためには得よ」と言う価値観は、実は生まれながらのものではなく、世にある間に刷り込まれたもの、つまり普通ではなかったわけ。これを経験させてくださるのがキリストのいのちである。

10)かくして神の形である人の中に神のいのちの実体が満ちる時、そのいのちに従った行動やあり方を実現する。このいのちの性質に従った統治が行なわれ、御国は成長拡大する。これはモーセ律法よりはるかに上位互換のいのちの御霊の法則によるわけ。

注:ここで富井さんが言う「超民族化・普遍化されたモーセ律法」とは「いのちの御霊の法則」ではないかと問いましたら、明確に「違う!」とのことでした。これは致命的ですね。

11)かくして十字架と共に働く御霊の造り変えが私たちの内で進めば進むほど、私たちは普通になっていくのです。しかしそこにキリストの香りと何かが表現され、世の人とは異なるのです。普通ですが、何かが違うのです!

12)キリストの形が形づくられる(メタモルフォーシス)ならば、キリストは私たちを迎えに来て下さる。私たちの希望は神学のドグマや油注ぎの器ではなく、土の器の中の宝物、すなわち内にいますキリストである。このキリストを知るならば、失望することはないのです!

ニッポンキリスト教界と付き合って

何だか不思議と言うか、ワケの分からない世界であるなあ〜、と最近とみに感じております。表は不自然にニコニコであるが、妬みと敵意とに満ち、互いのシマを守り、羊泥棒を警戒する先生たち。かと思うと、ヤクザの世界よろしくいきなり因縁を吹っかけられて、対話を試みると、捨て台詞を吐いて去っていってしまう「神学者」。モーセ律法を「守る」人たちがローマ2:14-15に反する振る舞いをする。聖書と言う共通の土台では話ができない。

他方で妄想を持つ人々、「ファイア」で倒れて床を転がる人々、自分の功績を目一杯誇る立派なセンセイたち、自分で物を考えることをせず、飼い慣らされて疑問を呈することもできなくなっている従順な羊のみなさん。人間的勲章を求めてのしていくセンセイたち。ビョウキの人が「まとも」で、まともな人がむしろ排除されるギョウカイ。何なのだろう、この世界は・・・と。

この4,5年見たり、聞いたり、否応なく巻き込まれたりする間に感じたこと。一言、まともではない。いずれにせよ、このギョウカイ特有のシキタリがあるようで、普通のセンスはどうも通じないようだ。ヤクザの世界に巻き込まれて、そのシキタリに目をパチクリしているような自分の位置づけを感じている次第。そのシキタリに従わないと異端とかカルトにされるようだ。

繰り返しなるが、このギョウカイにドップリは相当に危険なこと。単純さと喜びと健やかさを失い、いのちを消耗していくことはマチガイナイ。かくしてビョウキの人が再生産されていく・・・。このギョウカイの将来はいったい・・・嗚呼

悪魔が来たりて・・・

「自分の中に悪魔が入ってきて、女の子を殺してしまった。自分ではなく、悪魔が殺したんだ」と。悪魔は確かに実在しますが、人の責任がある。聖霊派では何でもかんでも「悪霊じゃあ」とやっているようですが、霊的な影響力に自らさらすからなのです。こちらの側につけこまれる何かがあるわけ。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

どうもこのピサロと言う人物は乖離性人格障害あたりだろうと推測される。要する一種の多重人格傾向。人格障害者による犯罪は確かに増加している。この事件の後また少女が刺されたようだが、実にイヤな事件だ。私にも二人の娘がいるが、まだ私たちの子育ての時代はのどかだった。まあ、宮崎勤事件がこの種の犯罪の先駆け的事件だったが。

今後、世においてばかりでなく、キリスト教界の中でも人格障害や精神障害を持つ、しかも病識の欠如した人々によるわけの分からない事件が起きてくると予想しています。いや、もうすでにけっこう起きているのです。「リバイバル」ではなく、「サバイバル」です。

実に面白い現象

今、お昼休みですが、拝見したところ、富井氏がまた興味深い本の翻訳を紹介されています。「クリスチャンはトーラーを誤解している」という論文ですね。歴史的な考察がなされていて、これはこれでなかなか面白く、参考になりました。

ただね、不思議なのは、「Dr.Luke氏は1m原器である神の言葉を受け入れていない。それはすなわち自分を神より偉大とすることだ。彼はクリスチャンではなく、ヒューマニストだ」と言われるのですけど(ヤレヤレ、どうしてこう空転するのでしょう?)、私的にはどうしてこういった人の書いた論文あるいは神学に基づいて論じる必要があるのでしょうね。御言葉に書いてあるでしょうに、特にローマ書とガラテヤ書に。御言葉に留まっていないのは彼なんですね。

私が批判しているのは1m原器(御言葉)ではなく、1m原器を歪んだ物差しで計っている富井氏を通して見えてくる再建主義なんですね。それはとても御言葉から乖離している。多分他の再建主義の方々も相当に迷惑していると推察しているのですが・・・。自分を神としているのは、むしろ<自分の唱える再建主義=神の言葉>とする富井氏なのです。

私の専門からすると非常に興味をそそられる現象です。でも彼に対しては何と言うか、あまり敵愾心を覚えないのですね。逆になんと言うか、ある種のシンパシを覚えるのです。彼は真剣に私をコキおろしているわけで、あまり悪意が感じられず、むしろ「傷ついた純粋さ」、「痛々しい青さ」(ある方の印象)による悲壮さが感じられるからです。しかし、まあ、永遠のすれ違いでしょう・・・か。

(上の論文は、なぜか、その後削除されました)

何だかすごいですよ

再建主義の富井さん、生まれながらの価値観に従うと獣姦もする、と言い出しましたね!?彼の言う「生まれながらの価値観」って自然法のことでしょう?自然と律法とは別に対立しないと思うのですが。

私は聖書の旧約律法は本来の人間性(神の姿に造られた純粋な存在のなごり)にすばらしく適合すると感じるのですけどね。マラキ2:15にこうあります:

神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。

どうも彼の人間観についての内面性が垣間見えるようです。最近もサタンの攻撃を受けて、何か事件があったようですが、本当に大丈夫でしょうかね。むしろ私の専門的見地から見て心配になります。(ある「診断」はできているのですが・・・)

すでに話が山谷さんともかみ合ってませんし、他の再建主義者にすら相手にされずに、孤高を囲う自閉世界に突入してしまっているようです。

かような思想にはまった人がどのような実を結び、いかなる人生を送るのかぜひ知りたいので、私的には今後長期観察したいと感じます。

恋は盲目の大脳生理学

アップロードファイル 32KB私のメッセにはイロイロな感想があるようです。笑い方がアブナイとか・・・。不思議なもので、対人関係で一番のファクターは何かというと、初対面の印象なんですね。ボクシにはボクシの臭いがあり、医者には医者の、教師には教師の印象があります。ちなみにカミさんが私をはじめてみた時(当時はパーマでクルクルの髪でしたから)、「ああ、三流大学のアホな学生だ」と思ったそうです(写真参照。現在は本数が・・・嗚呼)。

アップロードファイル 24KB未知の物に対する大脳の反応をMRIで診てみると、大脳辺縁系の一番奥にある偏桃核と言う部分の反応で分かるのです。シャイな人は未知の人に会うとここが過敏に反応するのですね。

アップロードファイル 41KBまた好みの人に対する反応はシナプスのドパミンの放出で分かります。これはいわゆるランニング・ハイの状態を作り出し、ある種の恍惚状態を作るのですね。「恋は盲目(アバタもエクボ)」状態はドパミンで酔っている状態なんです。タレントの翁菜恵とか山口萌がIT企業の社長と結婚する時、シンデレラになれる幻想を見ていたわけで(萌ちゃんはマダですが)、これはひとえにドパミンの作用なんです。

かくして「恋なんて幻想」となるわけで、精神分析学者の岸田秀氏は『性的唯幻論』なんていう本も書いている。「ああ、Dr.Lukeの話を聞いているとロマンスがなくなるなあ〜」と言う声が聞こえてきそう。私は人の転機が見える時があることは前に話しました。タケシの自殺未遂も、逸見さんの悲劇も予言というか予測できましたしね。あと、伊丹監督の自殺も。前のトリインフルエンザの隠蔽の時も、今回の建築疑惑でも自殺者の可能性を感じていました。姉歯氏も危ない感じ。保護してあげる必要があります。

で、結婚したカップルがどうなるかも大体分かります。それは目を見ればいい。焦点が定まっていない泳いでいる目の人はまず騙されています。ピタっと焦点の合った目をしている人は大丈夫ですね。ちなみに相手が自分に好意を持っているかどうかは、瞳孔の大きさをみるのです。開いている場合は、目は潤んでおり、これは行為のシグナル。閉じている時は鋭く警戒感の表れ。ネコの瞳を見れば分かるでしょう。ニンゲンも同じ。

かくして人の印象とかはほとんどその実質と離れており、意図的に操作して欺くこともカンタン。ですからギョウカイのいわゆる評判なるものも当てにならないのです。ところがキリスト教界ってところはほとんどがこのドパミンで酔っている人や、自分の幻想の世界に生きてる人が多いわけ。

焦点の会った目を持つ必要があるのです。

アッパレQちゃん

もうダメかと思っていました。年齢も33歳。引き際をわきわまえた方が・・・と今朝まで思っていました。

立派ですね。2年前に負けた坂の前からスパートをかけると。「あの坂に負けたくないという気持ちは持っていた。自分自身の思い出との戦いだった」と。

女々しいクリチャンたち特有の自己憐憫の一片もない。人が悪い、人が自分に何した、あの人に傷つけられ、あの人に裏切られ・・・。自分を省みることができず、自分から脱することができない人々の群れ。

このジメジメ感がキョウカイの現状だが、Qちゃんの清々しさにホッとする感覚をいただいた。次のオリンピックでもう一度勝たせてあげたいと期待も膨らむ・・・。

泣けるお話

どこぞにアスファルトを破って生えてきたど根性大根があるそうな。えろう評判になって、めげている民を励ましたそうな。ところが、どこぞの不届きモンが、大根のクビを切り取ってしまったとか。

で、近所のオバチャン、「誰がこんなかわいそうな事をするんかねぇ。情けないねぇ、涙が出てくる。かわいそうにねぇ・・・」。

ところが犯人、心が責めたのか、大根の頭を元に戻したとか。そこでマスコミのお兄ちゃん、東京農工大の先生に「元に戻りますかぁ〜!?」。先生「いやあ〜、それは無理でしょう。でもかろうじて花を咲かすことはできるかも知れませんよ」。マスコミのお兄ちゃん、「ああ、よかった〜♪」。

たかが大根、されど大根。ど根性大根ともなると、人の心に感動を与えるのでありまして。おでんを食する際、永遠に語り継がれることでしょう。殺伐とした昨今、ホッと一息つけるお話。お後がよろしいようで。

女子高生惨殺さる

今度は女子高生が惨殺された。同級生によって50箇所も刺されたとのこと。尋常ではない。加害者も思春期のエネギーを抑圧してきた分、多分その子の「言葉」によってキレて爆発したのだろうが、ふだん大人しい人はけっこうコワイ。

私などもそのような抑圧された病的な感情をモロにぶつけられることが多々あるが、人の心のコワサを心底感じる瞬間である。彼らとは決してガチンコしてはならない。彼女は多分彼にとって致命的な言葉を投げたのだろう。彼らの感情をかわすこと。かわし損なうとこちらも傷を受ける。

感情と言うものは適切に解放する必要があるのであって、ニッポンキリスト教的聖人を装っている人は実はコワイ。正直言って、私は牧師たちを見ていると、表面では柔和な笑顔であるが、目が笑っていないのがコワイのだ。本心が見えない。絶えず人を値踏みしていると言うか、そんな眼の動きを感知し得る。その表情は作られており、どこか自然ではない違和感を覚えるのだ。医者でも科によって顔が違うが、私はこれを「牧師顔」と呼んでいる。

イエスはこのようなニンゲンの暗い感情をすべてご自身に引き受けられた。十字架をネックレスにしてぶら下げている人もいるようだが、本当の十字架は実にコワイのだ。そこにニンゲンの心底がすべて露にされるから。主がゲッセマネで何ゆえに十字架を避けようとしたのか。単に十字架で殺されることを恐れたのでないのだ。それは罪を知らない方が罪とされること。罪に触れること。ニンゲンの真実を引き受けることだった。

Fujimori氏の意図

前々から気にかけていた、ペルー元大統領フジモリ氏(このサイトは外国語っぽい日本語で独特の雰囲気があり、オモシロイ)が日本を出て、チリに入国し逮捕された。彼が曽野綾子氏の元に「保護」されていたことは有名だが、今回の件は何を考えてのことだろうか?

あの大使館事件を見事に解決してから人気が高まり、その後自分に反対する議会を解散したり、憲法で禁じられている3選を果たしたりと、徐々に「独裁者」と見られるようになり、ついに議員の買収工作が発覚し、失脚。故郷の日本に逃げていたわけだが、それにしては今回はオソマツ。

が、これで、すでに30%あると言われる支持層に加えて、さらに同情を誘って復帰する意図があるとも言われている。こういったケースでは裏読みがオモシロイ。ちなみに小泉氏もFujimori氏の二の前にならないとイイが・・・。

ひるがえって、今回の内閣改造で大臣になった人々が嬉々としているのを見て、「そんなに大臣になるのってうれしいのかなあ〜」と不思議に思っていたが、大統領職も一度やると二度三度となるのかなあ〜と、さらに不思議を覚える次第。(ドン小西氏が小池氏と猪口氏の服装に対して、乳牛が工事現場の青いシートをひきずっていると評したのには爆笑したが・・・)

「末は博士か、大臣か」と言われて(ないが)、私は一応博士にはなったが、別に何てこともない。小市民である私などは、八ヶ岳の麓に300坪ほどの土地を買って、ログハウスができたらそれで十分満足なんだが・・・。

スゴイです-サイボーグ・テクノロジー

今晩の立花隆による『NHKスペシャル』、ごらんになりました?ニンゲンとマシンを脳で直結するテクノロジー。脳の細胞から出る電気信号で、人工の腕やコンピューターを自分の意志で動かす。さらには人工内耳で音を聞き、人工網膜で物を見る。驚きです!

かつて私も東大の医用電子研にいたときに、隣の研究室では山羊を使った人工心臓で世界記録を樹立していました。生きたまま脇腹にパコパコしている人工心臓を着けられて、機械につながれている山羊に同情を覚えたものです。

また別の研究室では犬の心臓をドライアイスで焼いて心筋梗塞状態を作って、2次元心電計の開発をしていました。また一方で当時U病院で精神病患者を人体実験に使って東大の脳研を追われたU教授もいましたね。

私はと言うと神経症の治癒過程を統計数理モデルを作って、カセクトされた精神的エネルギーの放出過程(放射性元素の崩壊過程とほぼ同じ)として説明すると言った訳の分からない研究をしていたわけですが・・・。

まあ知識の木の実を食べた人間はどこまでも追求するわけですが、ほとんど映画『マトリックス』の世界がそこまで来ています。何がリアリティで何がヴァーチャルなのか、ほとんど区別がつかなくなりつつあるのです。

もっと言えば、体のほとんどを失っても、脳が生きていれば、その中にいる「私」は世界とコンタクトすることができるのです。「私って、一体何?」(クリックして下さい)とかつての三田何とか氏の文学のテーマがきわめて迫る現代科学の最先端です。

対してキリスト教界の幼稚で不毛な神学論争を見ていると、何だかあらためてニュートン以前と・・・。やれやれ。

 * * *

バイブルカレッジは続々と早速申し込みがきております。意外に反応いただいており、うれしく感じております。

健やかさの追求

意に反して、ここ数年にわたりニッポンキリスト教と接触して分かったこと:繰り返しになるが、病んでいます。何か、ジメジメ、ネチネチ、イジイジ、イライラ、ブツブツといった冷たく陰湿で暗い霊を感じるのです。それにコワイ。しかも自分のビョウキに気がついていない。すでに相当に深く要塞化しています。あるクリスチャン・メディアの人も「凄い世界ですよ」と言っていた。

パウロはテモテやテトスに対して、「健全な言葉」とか「健全な教え」を何度も繰り返して強調しています。現在この「健全さ=健やかさ」がほとんど感じられません。ガンバッテつくろっている表のキレイさはあるのですが、どこか無理があって不自然な違和感を覚えます。

健やかであること−これはの主観的表現。ほがらかさ、解放感、安らぎ、満足、安息と平安、伸びやかさ、あらゆる面で健康であり、満たされること。そして普通であること。これが神の子の特権なのです。健やかになるコツは健やかさ(の霊)に触れること。それはジーザス。

BBSにあるとおり、多くの兄弟姉妹がシンドイ思いをされて来られたようですが、キリストにある自由を見出し、解放を得られていることは感謝です。むしろ苦しさに気がついた人は幸いです。ガムバッテそこそこやれてしまう人は気の毒。一方で、私はますますニッポンキリスト教とは関わりを持ちたくないと感じています。

凄い事件です

高校1年の少女、母親にタリウムを飲ませ、その体調の悪化状態をBlogで公開・・・。イギリスの毒殺魔に憧れてのこと!?来るところまで来てますね・・・。