独り言

科学の恵み

今日の日経夕刊に面白い記事があった。脳科学者の茂木健一郎氏が書いているコラムであるが、次のようにあった:

この辺で、もう一度、科学が人間にもたらした恵みを振り返ってみてはどうか。・・・相対性理論を創った天才アインシュタインは、「ある人の価値は、自分自身からどれくらい解放されているかで決まる」と言う言葉を残した。科学のすばらしさは、自分という特別な立場、利害を離れてこの世界を見ることを可能とすることである。・・・対象から距離を置き冷静に考えること。科学の恵みが由来するところを忘れてはならない。

最近私も熱い神学論争に巻き込まれたが、この「○○神学」こそは、まさに自分自身そのものの表現と言える。だから自分の神学を否定されることは自分を否定されることになり、我慢ならないことなのである。で、ついには相手を否定し、相手の人格攻撃で終わる。なんとも前近代的なわけ。これは皆さんが見ての通りの展開だった。

イエスは神学を押し付るために人になられたのではない。私たちを自己(Self)から解き放つために十字架に架かって下さったのだ。対してニッポンキリスト教は、自己を肥大化し、自分の中に自分を閉じ込めることが得意のようだ。なにしろ牧師からして、千人教会だの、自分の教派だの、地位だの、名誉だの、神学だのを第一として、「模範」を垂れているのだから^^。本当は牧師は「僕死」から始めるべきなのだが・・・(爆死は困るが・・・さぶっ)。

自分の魂を救おうとする者はそれを失い、失う者はそれを得る。

人生を楽しむコツは自分から解かれること。Enjoy Yourself!

注:私は神学を否定しているのではない。あまりにも論理と方法論において、「学」としてのレベルが低すぎると言っているわけ。もっと「学」の基礎的訓練を受けてからにして欲しいと感じるし、もっとcoolにやれないものでしょうかね・・・。

Dr.Lukeの輝かしき称号 !?

疲れました・・・。本日はAO入試。午前中2時間の試験監督と、午後18名の面接。試験監督ではリーダーの先生が立ちっ放しのため、われわれも立ちっ放し。彼が座ってくれると、われわれも座れたのだが・・・。私も一応気を遣うのです^^

午後は面接。受験生はただ一度の場面であるが、こちらは18名を相手。しかも、しかも、ですよ、彼らの言っていること、どうしてみんな同じなの!?言うことがワンパタン。マニュアルが出回っているのだろうか・・・。同じことを18回聞かされると、けっこう精神的拷問です。ふう〜。

 * * *

私は一応学歴もあり、自ら生計を立て、社会人として近隣と職場での評判もよく、学生からも慕われており、家庭では良き夫、良き父親として3人の子供を育て、ローンの返済も滞ったこと一度もなく、税金もかなり払っておるのでありますが、なぜかニッポンキリスト教界と関わるようになってから、直接・間接にいただきました称号は次の通り:

神に反逆する者、聖霊様を汚す者、呪いの預言者、カルト教祖、ハーレム主催者、虐待牧師、異端者、品性卑しき者、偽善者、多重人格者・・・汗

あの逮捕されたK牧師も真っ青・・・。ヤレヤレ。ありがたいことであります。彼らとあえて争うつもりはありませんし、和解できる場合はそれを望みます。このギョウカイで芳しい評判をいただくことの方がむしろアブナっかしいと思っています。肉に頼れば、そこそこ頼れないこともないのですが・・・、それにしても見事だなあ〜^^

いのちの現われ

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(Holiness)とは、客観的には神への分離(separation)、主観的には健やかさ(wholeness)。

いのちには必ず表現がある。鳥のいのち、花のいのち、それぞれに。その健やかないのちの表現は、自然さ、明るさ、解放感、伸びやかさ、さわやかさ、楽しさ、喜び、平安と安息、そして信頼感。どうもサタンはそれらに嫉妬するようだ。

そこに気張りはない。任せているから。自転車も最初は手放しなどできないが、法則をつかめば手を放せる。法則に委ねた結果。同様に私たちも主に対してどこまで手放せるか。いのちの法則をつかめばつかむほど任せることができるようになる。

かくして気張っていた魂から力が抜けるとき、伸びやかな魂の救いを味わう。

あなたがた魂において恵まれている同様に、あらゆることで健やかであるようにと祈る

もう少し遊びましょう

命題「p⇒q」とは、「¬(p∧¬q)」のこと。(「『pであって、かつqでない』ことはない」と読みます。例えば、「雨が降るならば傘を差す」とは「『雨が降っていて傘を差さない』ことない」ですよね。

つまり

「Windowsを使うならばMS-DOSを使っている」

ことを証明するには、

「『Windowsを使いかつMS-DOSを使っていない』ことはない」

ことを示します。

これを否定して矛盾を導く論証を「背理法」と言いますが、

『Windowsを使いかつMS-DOSを使っていない』

ことはあり得ません。そもそもWindowsはMS-DOSのカーネルの上に作られてきたのですから(今のNT系統は別ですよ)。これは事実に反するわけです。

よって証明終わり■

同様に「始めの契約(モーセ律法)」(MS-DOS)は「後の契約(いのちの法則)」(Windows)よりも劣りますが(これはヘブル書の語る事実です)、その原理は神の聖による愛と義に基づくものですから、後者は前者を否定しません(これは同意事項)。むしろ当然に含むわけです。よって上の証明がそのまま適用されるわけですね。

論理学的には・・・

富井さんとのディスカッションはかなりの相違点が露になると同時に、同意点も分かってきました。

相違の一番のポイントは、繰り返しますが、Windows(いのちの御霊の法則)とMS-DOS(モーセ律法)の関係なのですね。

論理学をちょっと弄すれば、

「xがMS-DOSを使う⇒xがWindowsを使う」は偽です。

逆に

「xがWindowsを使う⇒xがMS-DOSを使う」は真です。

同様に

「xがモーセ律法を満たす⇒xはいのち(Zoe)の御霊の法則を満たす」は偽です。

理由:モーセ律法は、そもそもそれを満たす力を持ついのち(Zoe)を与えないから。

この逆は真ですね。つまり、まずそれを行なえるいのちを得ることにより、

「xがいのちの御霊法則を満たす(十分条件)⇒xがモーセ律法を満たす(必要条件)」
 
ですから、私たちが満たせばよい前提条件は、いのちの御霊の法則に従うこと(=御霊に従うこと)で十分なのです。すなわち責任を負うのもこの法則あるいは御霊に対してです。

論理学的には、「モーセ律法を満たすための十分条件はいのちの御霊の法則を満たすこと」です。われわれサイエンティストはこのように論理を用いるものですが・・・。

注:「⇒」は「ならば」の意味で、英語では“imply(含意する)”のこと。

しかしこうやって話し合うのも結構楽しめるのだ・・・実は^^

MS-DOSへの郷愁

富井さんに対してWindows(いのちの御霊の法則)を持っているのに、何ゆえにMS-DOS(石に書かれた律法)を主張するか問いかけましたが、実際の話(喩えではなく)として、私はMS-DOSに対する愛着はけっこうあるのです。

どこかでも書きましたが、Windowsを始めたのは97年からですから。95年にお祭りのごとくにWindows95が発売になっても、かたくなに真っ黒な画面でやっていたのです!それもクロックが10MのPCで・・・。昔CP/Mをやってた頃は8ビットのZ-80で、メモリ空間はたったの64KB。ですから内部をほとんど把握していたのですね。

しかしWindowsはメモリ空間は膨大で、内部で何が起きているのか分からない。自分でやる主義の私は人の作った仕組みの中でやらされるのが嫌だったわけ。かくして世の流れに後れること2年。頑張ったのでありますが、やっぱりWindowsは便利だ。

それでも、現在なお、Windows版のFDというソフトで、中のファイルをすべて見ながら使っているわけ。皆さんはエクスプローラーでしょうが、これは見えるものが限られるのですね。

こんな次第で、再建主義も心情的にはかなり理解できるわけです。

ちなみにソフトウェア工学はかなり霊的なんですよ。特に最近のオブジェクト指向言語はね。こちらをどうぞ⇒JAVAと信仰

ディスペンvs再建主義(修正版)

前に展開された山谷氏と富井氏の議論をまとめておきましょう:Keywordは「中間(間接)」と「直接」です。

■ディスペン側■

・統治の形態:神→天使的勢力(ストイケア)を介しての間接的統治(中間領域)→人類

・教会の役割:この中間層にいる天使勢力が悪鬼化することもあるから、教会が監視する

・律法の評価:律法自体も天使を介して与えられた。モーセ律法は型・影・養育係だから、キリストの出現によって廃された(富井さん的には第3の意義も)

・この世の評価:再生されていない(=特別恩恵を受けていない)この世も、司法や科学など15つの領域においても一般恩恵によって御霊の照明を得ている。

・時代の評価:現ディスペンセイションはキリストの初臨と再臨の間の中間的時代→キリストは現在霊的には王であるが、再臨によって実際的王となり、御国が地上に出現する

再建主義大論争を回顧する

■再建主義側■

・統治の形態:神→律法による直接的統治→人類

・教会の役割:律法を自らに適用し、さらにこの世にも適用して、宣教によって「地を従わせる」ことにより、神の御国を出現させる

・律法の評価:人類を祝福へともたらす神の手段であり、聖霊の力によって守れば祝福された「生活」を送れる

・この世の評価:世は神を排除し、律法を組み込んでいないので闇の状態にあり、その結果人間中心のヒューマニズなどが蔓延っている。

・時代の評価:キリストはすでにあらゆる領域で王とされたので、地はその主権に服するべきで、それは律法をあらゆる領域に適用することによる。今はすでに千年王国であり、全人類が福音を受け入れるとき、その確立によってキリストは再臨される

キリスト教再建運動とは

つまり互いに相容れない本質的な相克があるわけです。「御国の建設」と「キリストの再臨」をめぐってですね。まあ、泥を掛け合うのも分かる気もしますが、ゲームには泥をかぶらない観客もいますからね^^。

救済の意味

単純な思考実験をしましょう。

■質問1:エデンの園でアダムが善悪の木の実を取らず、いのち(Zoe)の木の実を取っていたら(仮定法)、律法は必要だったでしょうか?
■回答:必要なかった。
■理由:律法はまことのいのちの実体であるキリストへと導く養育係だから。すでにいのちを得たのだから養育係は不要。

■質問2:アダムとエバがいのちの木の実を取っていたら、神が送ったと考えらえる聖霊によって律法を行なって得られるいのちと、ただ信じることによって得られる義認としてのいのち(Zoe)を区別する必要があったか?
■回答:ない。
■理由:いのち(Zoe)はすべてを包含する。つまり律法の第1,2の機能(影としての祭儀的意味)は排されたが、残っている第3の機能(律法の趣旨)もいのちの御霊の法則によってまっとうされるから。

■質問3:「救済」には、善悪の路線上のものと、いのちの路線のものがあるのか?
■回答:ない。
■理由:もしアダムがいのちの木の実を取っていたら、「救済」という概念自身が不要となるから、契約神学とか、ディスペンセイション神学とかも不要だった。つまりいのちの木の実を取りそこなったから「救済」が必要なのだから、「救済」とはいのちの木の実を提供すること。私の理解はこちら

【結論】:要するに、人類がアダムの得損なったいのちの木の実を取れば神のご計画は成就する。アダムの失敗があったので、キリストは贖いのプロセスを経る必要があった(救済)。それが完成されている現在、いのちを得るためには私たちがキリストの死と復活に結合されること、それはすなわち信仰による。

※注意※モーセ律法の趣旨である富井さんの言われる第3の機能(人を神の標準に導き祝福された生活を送らせる)を排除してはない。なぜなら、それはいのちの御霊の法則に含まれるから(上位互換)。

【神の御心】わたしはあなたがたのいのちとしてあなたがたの内に生きたいのです。神と人が共に住まうこと、父と子として、また夫婦として。だからわたしの独り子をいのちとしてあなたがたに与えたのです。このギフトをただ信じることによって得てください。

もうちょっとメモしておきましょう

■富井さんの構図は

聖霊
 ↓(神が送られたと考えられる) 
旧約の民→律法を行なう→いのちを得る(祝された生活を送る)

よって、律法は力はないが、いのち(Zoeではない)を与える

■私の構図は

律法はいのち(Zoe)を与えないから、キリストが死と復活を通していのちを与える霊となって

御霊の内住        
 ||
いのち(Zoe)なるキリストの内住→律法(それ以上)を全うする
 ||
力を得る(いのちの御霊の法則)

よって、いのちの御霊の法則はモーセ律法の上位互換である。(律法の第3の機能を排除していない!)

  

何だかうれしいぞ♪

映画の台詞がほとんど聴き取れるようになって来ました。うれしいですね。前にも書きましたが、内容のあるニュースやメッセージやレクチャーなどは比較的簡単に理解できるのですが、たわいもないことがむしろ難しかったわけ。単語自体は簡単ですが、発音がね、ブリティッシュは割りとピックアップしやすいのですが、特にアメリッシュがね・・・。

で、「速聴(R)」の訓練をしたわけ。これは田中さんというちょっとニューエイジ系の人の発案ですが、普通の会話を3倍速で聴くのです。ちょうど高速道路での速度に慣れると、一般道が遅く感じられるのと同じです。通勤の車の中で繰り返しやっていたのですが、何とここへきて、映画の会話がやけに遅く聴こえるようになって来ました。もちろんスラングとかは意味が分かりませんが(文脈から推測)、単語は聞こえる♪

この速聴をすると脳の活動度が上がるのですね。ボケにもいいそうです。昔巨人の川上が球が止まって見えると言ったそうですが、そこまでは無理としてもね^^。外の時間の流れと内的時間の流れがビミョウにずれるようです。お薦めします。

(ニューエイジだからアブナイとか言わないでね。それは聖霊派のパラノイド。生理的効果は切り分けて下さい。ヨガなどもです。私はストレッチでヨガのポーズを取っていますから)