独り言

真の勝利とは?

昨日の「からさわ草」についてご質問をいただきましたが、実はこの花の写真、いつの間にかキャッシュに紛れ込んでいたのです。で、そのファイル名が"karasawaso.jpeg"だったわけです。どこで入ったのだろうか・・・?

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山谷少佐とCTの件は皆様が関心を持って覚えまた祈っていただいて下さるので、「後継者」が出て下さったようですよ^^相手と対峙する時に、押すばかりが能ではありません。まことの勝利は単細胞ブッシュの「行け行け」にはありません。主の十字架を見れば分かります。人の目から見てもっとも惨めな敗北が実は勝利なのです!

もう時間がけっこう経ちましたのでお話しても良いと思いますが、このBlogの古い読者の方はご存知でしょうが、かつて私のところにいた方が、ある場所(これも「2ちゃんねる」まがいの凄いところ)で、私のことを「ハーレムの牧師にして、KFCはカルトだ」とやり始めたわけです。その原因は、あることで私が彼をたしなめたためなのですが、それを「呪いの預言を受け、自分はうつ病になった」と騒いだわけです。

いやあ、人からこのような意図せざる粘着的な恨みを買うことは相当に気持ちのよいものではありませんが、しばらく静観していたわけです。そのうちその当初の問題もしかるべき手続きを経てちゃんと対処していることを知り、当事者に未成年者も関わっていたのでその将来も考慮して、除名処分を解除してあげたくなったわけです。

で、何と、よせばいいのに、愚かにも私自身がそこへ出て行ったわけです。案の定、牧師や教会に恨みを抱く人々から非難轟々を受けましたが(まさにニッポンキリスト教は病んでいることが分かります)、その際の彼の反応からみて、当初判断したよりも病理がやや深いこと、同時に彼の恨みは私に対する甘えと思い入れの裏返しであることが分かりましたので、こちらが全面的に降りて謝ったわけですね。かくしてDr.Lukeの面目は地に落ちることとなったわけです(削除をお願いして置きましたが、たぶんこの種の話は一部の人にとっては格好の嘲りのネタですから、いまだにそうなっていることでしょう)。

ところが数ヶ月して彼から祈りの要請と「自分が間違っていた、神に裁かれている、おゆるし下さい。もう敵とは思わない」と謝罪のことばをいただいたのですね。これはとてもうれしかったですね。私は「神は裁きませんから安心して、むしろあなたたちを理解して上げられなかったことを赦してくれたことを感謝しているんですよ。ちゃんと治療を続けて下さい」と申し上げたわけですね。・・・その後彼からは、「主が新しい次元に導いて下さった」とする証しのメールをいただき、安心したわけです。

これは私的には実に素晴らしい経験をさせてもらった事件でした。主イエスの十字架における屈辱は、私たちが主イエスに対してこのように申し上げる時に、主にとっての喜びに変わるわけです。イザヤ53章に「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」とあるとおりです。私たちを救ったのはまさに屈辱の中における「父よ、彼らを赦して下さい」と言う主の言葉だったのです。まことの勝利とは人間の目においては惨めな敗北と見えるところにあるのです。その事件の前後辺りでも書きましたが、それは自分を否む経験であり、否むことに比例して内側のキリストが生き生きと躍動する、きわめて甘美な経験なのです。

野の花を見るが良い

アップロードファイル 95KBこのところやや殺伐とした話題が続いたので、ちょっと一息つきましょう。人間相手でウンザリする時は、神が創られたままの自然に戻ります。ちなみにこの花、その名前を「からさわ草」と言うそうです(ほんとかな?)。

安倍さんの揺れ

アップロードファイル 58KBどうも安倍氏はA級戦犯や戦争の歴史認識をめぐって揺れている。靖国問題については明言を避けるとか、ハイとイイエがあいまい。これは以前にも指摘したが、この手の人たちはたいてい自己欺瞞を抱えている。首相になる前と後で微妙に発言が変わって来ているし、だいたい答弁が原稿の棒読み。田中真紀子氏による安倍氏の朝食への追及はさておいても、安倍氏はやや頼りない。それにしても訪中がいきなり決まった感じだが、裏ではすでに何がしかの妥協が行われているだろう。こういったコソコソした手法はどうもいただけないが。これから彼の心の真実と表の発言はますます乖離していくことだろう。それによって求心力も衰える。内閣のキャラもいろいろスネに傷を抱えているようだし。案外もろいかもしれない。かく言う同世代の私ももろいのだが・・・(笑)

(写真は『美しい国』の雲にけむる今朝の富士山)

"灼熱地獄"の中の女性?

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この写真は燃料の燃焼で鋼鉄が溶けたと説明される現場に立って助けを求めている女性です。"灼熱地獄"の中で、まさにスーパーウーマンですね^^

また同様の事件が・・・

中2男子生徒が同級生の女子生徒を20箇所もナイフで切る事件。周囲の話では好意を抱いていたらしいが、どうも町田、山口、そして今回と同じ臭いのする事件が続く。ここでも精神病理とある種の霊的存在が相互作用しているのです。

最近の事件の霊的病理
少年たちの心の闇を探る
青少年の怒りと犯罪

トコロテンだよ人生は

アップロードファイル 3KB拓郎とかぐや姫の静岡の「つま恋」コンサートで35,000人(のオジサン&オバサン)が酔ったそうです(→記事)。う〜ん、私も行きたかったかな・・・。高校時代、自作のアンプで拓郎の『結婚しよう』とか、かぐや姫の『赤ちょうちん』などを聴き(+陽水の『心模様』)、ギターをボロンボロンやったものでした。

昔、親父とお袋が昭和30年代の懐メロ番組を観て懐かしがっているのを茶化したものですが、今や70年代の曲を聴いていると息子が茶々を入れてきます。わがカラオケのレパートリーもほとんど70年代。かくして人生はモ・0年代の曲を聴いていると息子が茶々を入れてきます。わがカラオケのレパートリーもほとんど70年代。かくして人生はトコロテン式に押し出されていくわけで・・・。

安部氏と統一協会

再建主義の富井氏が述べていますね。統一協会は一部の米福音派組織にも資金提供しているなどの話も漏れ聞こえています。安部氏はTime誌でも「危険なナショナリスト」として紹介されていましたが、実はグローバリストに利用されていると言う主旨です。BBSでも通行人さまが紹介してくださったビデオで統一協会との関係は明らかですが、果たしてその正体は?私の印象では表の現われには相違して、霊的にも、精神的にも、かなり深い病理的要素を持っていると感じているのですが・・・。

形ある物と形なきもの

そろそろ後期が開始。私たち大学の教員は普段学生に、「講54

オウム事件の10年

オウム事件。日本にとっての9・11。ついに、というか、ようやく麻原氏に死刑確定。しかし裁判とは不思議なもの。私たちの裁判も8年間かかったが、いったい麻原の弁護士はどのような使命感でしたのだろうか?ビジネスと割り切って?ちなみにライブドア事件と麻原事件は多分に似ていると感じているが、ホリエモンのヤメ検の代理人はビジネスのようだが。訴訟指揮においてもかなり混乱したが、明らかにある種の霊の介入がある。

上裕氏が自分は坂本弁護士とサリン事件が教団の仕業であると知っていたと告白し、当時はウソをついていたと認めているようだ。面白いのは彼の目が今と当時ではまったく違うことだ。

からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい

とあるとおり、人と接する時、目は人を判断する大きなポイント。先に書いたネットにおける自己表現の怖いところは、相手の目が見えないこと。文章だけからするとまともに読めても、その人物が見えない。目が見えない状況はひじょうに不安を覚える。(ロリコン植草教授も理路整然としているが、目がアブナイ・・・)

心理学的には、意識的な言語のやり取りの間、無意識のうちに目によるコミュニケーション・リンクを確立し、無意識はそれで相手を判断しているのだ。だから意識の上では同意でも、感覚的には釈然としないことが起きる。BBSにカキコがあったので追加的に触れたが、この釈然としない不協和感覚を大切にすべきである。

上裕派サイトでは

人である教祖を神としたことが事件の原因となった点では、元代表に限らず、多くの信者に責任があることを深く反省し、今後は真実の道を切り開いていきたいと思います。

と声明を出している。私なども一部では「カルト教祖」にされたりもしたが(やれやれ)、人が神に奉られたら、昭和天皇ではないが、互いに不幸を招く。

果たして上裕氏らは「道」を見出すことができるのだろうか。まことの道はJESUSである。中途半端に霊的事象・世界に関わると、かえって混乱に落ちることは、聖霊派あたりのクリスチャンを見ていてもよく分かる。ちなみにまたまた本件についての山谷少佐のBlogが実に面白い。この4つの判断基準、キリスト教界でもかなり?

最も怖いもの

それは病んでいる人の心から出るもの。その真実に直面し、それをまともに受けること。実に怖い。

自分と関わりのない人であれば、当たり障りなく流せばよろしい。別に何でもない。

しかし自分に関わりがあり、自分が愛する人の真実を見ること。これはものすごく勇気が要る。

神の愛は恐れを取り除くが、人の愛は人を臆病にする。マザー・テレサが「愛は傷つく」と言われたとか。本当に人の真実をすべて受けることができる方はイエスのみなのだ。

彼の打たれた傷によってわれわれは癒された。

追記:もし十字架のイエスの口からあの言葉がなかったなら、もし罪のない方を十字架につけたその裁きを宣言されていたら、これは全宇宙を恐怖と絶望に突き落とす。

父よ、彼らを赦して下さい。自分が何をしているか分からないのです。

言霊(ミーム)の風


例えば「イスラエル」。イスラエル・フリークはもちろんのこと、イスラエル至上主義の某福音番組などを長年視聴して(刷り込まれて)いる人たちは、「イスラエルは神が選びし民、神の瞳であって、彼らに逆らうならば呪われる」と無意識に判断している。そこでは現実世界でイスラエルがなしている行為や、それに対する自分自身の感覚や考えは拒否されている。

あるいは「リバイバル」。この単語を前面に出されてしまうと、あたかも水戸黄門の印籠のごとき力を発揮して、異議を唱えることができなくなる。すべてを正当化してしまう単語なのだ。かくしてニッポンキリスト教においては、天皇制の是非を論じる以前に、すでに自分たちが諸霊の支配下にあることを知るべきである。表看板が「基督」か「天皇」かの違いであって、彼らが服している霊は一緒なのだ。現代の使徒だ、預言者だ、油注ぎの器だと、彼らがプロモートする風(霊)に吹き回されている様は、かつての「挙国一致」、「鬼畜米英」と吹き回された時代となんら変わりがない。だから「われら天皇の臣民は、自らを否み、自らの十字架を負って・・・」とごく当たり前のようにできてしまうわけ。

戦前と前後において、入れ物(社会システム)は「現人神社会」から「民主主義社会」に変わったとは言え、人間の本質は何も変化していない。同様に基督者と非基督者においても、その支配する霊が同じ点で何も変わらない。戦中のように、共に八紘一宇の実現のために邁進する場面が再現することは、今後十分に考えられる。問題は風の吹く方向。今回の安倍さん旋風と同じ。

さあて、今後このギョウカイ、どっちの方向へと流されていくことであろうか?

同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。
;">;">これは何も「人権」に限ったことではない。放送禁止用語や差別用語の問題や、いわゆる社会的タブ・言霊(ミーム)の風

理系と文系の違い

今、日本史をずっと学び直している。特に古代史と戦争の前後。日本古来の「神」はクリスチャンの神とは全く違うわけだが、礼拝対象として問題が起きてくる。アマテラスとはいったい何者か?卑弥呼との関係は?また一説によると現人神崇拝の国家神道はキリスト教国家のマネをしたとも言われています。

そこで『日本書紀』や『古事記』を学ぼうと言うわけだが、理系バカの私たちにとって文系学問の難点に突き当たっている。それは歴史は必ずそれを書く人の歴史観あるいはフィルターを経ていることだ。征服した者が征服された者の不義性と自分の正当性を記録するわけ。そこで歴史を知るには第一次の史料に当たる必要が生じるわけだが、今さら『日本書紀』や『古事記』をそのまま読んでいる時間もないし、そもそもそれらが当時の資料を編纂したものらしい。また戦争前後の全記録文書を括るわけにもいかない。これが実に困るのだ。

その点理系の学問は、たとえば相対性理論を学ぶにしても、アインシュタインの原著論文を読む必要はない(科学史の専門家でもない限り)。教科書なりでそのアイディアあるいは仮定を理解したら、後は自分で数式をいじくり回せば、アインシュタインの頭脳で行われれたことを追体験できる。教科書は出来不出来はあっても、決して違う結論を導くことはない。

しかし歴史は違う。書く人のフィルター次第で結論は正反対になり得るわけ。かくして誰を信じて良いか分からなくなってしまう。いわゆる山川出版などの教科書にはあまりイイ思い出がないし・・・。と言うわけで自分が読んでいる本がどんなフィルターを介して書かれた物かをよくよく吟味しつつの学び直しとなって、悪戦苦闘しているわけです。もっと言えば、わが理系オツムの再構築。いやあ、本音のところ、文系の人たちはよくこんな曖昧模糊とした不安かつ茫漠たる作業をやり続けることができるものと感心する次第。

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明日はいよいよ万系一世男系男子天皇制(Y遺伝子)の維持ができるかどうか。何となく男児誕生のような気もするのだが・・・。(それにしてもいったいこのY遺伝子は誰をルーツとするものなのか・・・?アマテラスは女だし・・・?)

安部氏と統一協会

再建主義の富井氏が述べていますね。統一協会は一部の米福音派組織にも資金提供しているなどの話も漏れ聞こえています。安部氏はTime誌でも「危険なナショナリスト」として紹介されていましたが、実はグローバリストに利用されていると言う主旨です。BBSでも通行人さまが紹介してくださったビデオで統一協会との関係は明らかですが、果たしてその正体は?私の印象では表の現われには相違して、霊的にも、精神的にも、かなり深い病理的要素を持っていると感じているのですが・・・。

形ある物と形なきもの

そろそろ後期が開始。私たち大学の教員は普段学生に、「講義」と称してあれこれしゃべっているが、何しろ言葉には形がない。空中に飛んでいって、ふ〜っと消えてしまう。ある種の刹那的なものだ。バプテスマのヨハネみたいなものか。あるいは発音が忘れ去れた神聖四文字"YHWH"みたいなもの?ドラえもんで、しゃべった言葉が文字化して固まる装置があったが、私はまじで欲しい。

それでも学生と空間と時間、さらには言葉によるある世界を共有できると非常に楽しい充実感も味わうことも事実であるが、何しろ形がない。まあ、それで無理やり本や論文の形に残そうとするわけ。しかし一方で言葉は今回のローマ法王のように、相手によっては大変な事態も引き起こすからこわい。

アップロードファイル 15KBこれに対して陶器師などのアーチストの作業は形が残る。実にうらやましい。小学生の頃、図画工作で粘土をこねて陶器を焼いたが、あの頃がやけに懐かしい。粘土をいじりたいとか、絵を描きたいとかの欲求が最近こみ上げてくる。私の大学にも芸大出身の日本画家の先生がおられるが(彼が私の中学の同級生の夫君の同級生だったりして、世間は実に狭い)、作品を着々と残されている。

「男はつらいよ」で寅さんが人間国宝の作品の価値が分からず、灰皿にしていたと言う笑い話もあったが、アーチストにとっては作品を金で換算することは、人によってはプライドを傷つけるのだ。彼らにとっては無心で作ること自体に価値がある。そんなひとりの作品が写真の湯飲み。友人の明石庄作氏の作品で、ある機会にいただいた一品。俗人であるDr.Lukeとしては、彼が人間国宝になったら、これもけっこうイケルかもと内心期待しているのだが・・・。

ところで今、江戸東京博物館で特別展 「始皇帝と彩色兵馬俑展」が行われている。これもすべて陶器でできている。テトラグラマトンは発音が消失して姿かたちがないが、こちらはそのままに残っている。2,000年以上前のどんな人々が、どんな気持ちで作ったのか、時間と空間を越え、日常性を抜ける体験を、この機会に味わって来ようと思っている。