新約の奉仕について
奉仕とは何でしょう?いろいろな答えがあると思います。「私はフルタイムで牧師として、また伝道師として、あるいはパートタイムであっても教会の役員として、教会の運営の奉仕に与っています。」「私は信徒の立場で、教会運営を補助し、伝道し、証しし、あるいは集会の賛美をリードしています。」・・・などなど。もちろんこれらの目に見える活動はきわめて重要であって、地上におけるキリストの体の現れの具体的証しを支える尊い働きです。では、身体が不自由であって、例えば五感がすべて麻痺していて、外界とのコミュニケーションが一切取れない人の場合は、その人にとっての奉仕とは何なのでしょう。もし何らかの活動が奉仕であるならば、彼は奉仕することができないのです。
さて、ここで少し立ち止まって考えてみますと、奉仕の本質はどこにあるのでしょう。上の例からも、一つ一つの活動それ自体にあるのではないことはすぐに分かります。その活動の目に見える成果が、その奉仕の有効性を測る物指しでもないことも分かります。では、その本質とは何なのでしょうか。旧約時代においては、祭司はモーセの律法に従って、いわゆる贖いの儀式に携わっていました。幕屋において、日々絶やすことなく祭壇で火が炊かれ、祭司が民の罪のために動物を屠っておりました。また預言者は民の罪を指摘し、悔い改めを求め、あるいは神の言葉を預かって、民を励ましたり、叱咤激励を与えておりました。そして王は油注がれた者として、民を神の義に従って統治する責に任じられておりました。これらの祭司、預言者、王の役職は、もちろん、新約におけるキリストの職位を予表したものであって、それらの役職はすべてキリストにあって実際のものとされました。キリストこそ、まことの大祭司であり、預言者であり、王であるのです。
私たちもまたキリストの贖いによって、神の所有とされ、聖なる国民、また祭司とされました(1ペテロ2:5,9)。また教会には預言者も与えられていますし、私達も熱心に預言の賜物を求めることを勧められています(1コリント12:28;14:1)。さらにキリストと共なる王とされています(1ペテロ2:9)。その実際はどこで確認することができるのでしょう。肉の目に見える私たちのアイデンティティーを見れば、私たちは日本において、ある会社の、ある役職にある、単なる一小市民に過ぎません。
しかし、霊の目によって見るならば、それらの御言葉がすべて真理なのです。すなわち、現在において、私たちの御言葉に記されているアイデンティティーは、霊の領域において確証されるべきなのです。私たちはすでにキリストと共に天に座らされているとあります(エペソ2:6)。しかし肉体はこの地上にあります。私たちはキリストと共なる共同相続人とされているとあります(ローマ8:17)。しかし肉体の目には何も見えません。なぜでしょう?鍵はすべて霊にあります。私たちが私たちの霊によって、これらの真理を実体化(substantiation)するとき、私たちは目に見える形でもその事実を私たちの経験とすることができます。これが信仰です(ヘブル11:1)。目に見えるものは一時のものであって、目に見えないものが永遠なのです。
私たちの奉仕も同じです。私たちはしばしば目に見える形の人の業を評価します。いわくAさんの奉仕は人々を救いに導くのに有益であり、Bさんの奉仕は賛美をリードするのに有効であり、Cさんの奉仕は教会の財政を支えるのに有効である、と。しかし大事な点は、神の目にあっては、私たちの目に見える形での何かではありません。霊における奉仕こそがまことの新約の奉仕なのです。すなわち私たちの霊と魂が分離されるとき、私たちの霊は地上における魂とか体の状態によらず、否、それらによって何らの影響を被ることなく、天において神の御前でとりなしをし(祭司職)、神の御旨に触れて、それを祈り(預言者職)、そしていのちにあって支配するのです(王職)。
パウロは2コリント3章において旧約の務めと新約の務めを対比して論じています。旧約においては推薦の手紙は石の板に書かれ、新約では心の板に書かれます(3節)。旧約は文字に仕えますが、新約では御霊に仕えます。文字は殺しますが、御霊は生かします(5節)。石に刻まれた文字の務めは死の務めでありますが、そこにもモーセの顔が輝いたように消え去る栄光がありますが、新約の務めは命を与える務めであり、そこには永続する栄光があります(6-11節)。古い契約が朗読される時には覆いが掛かっていますが、御霊なる主に向くならば、覆いは取り除かれ、自由があり、主の栄光を反映させつつ、御霊なる主によって主と同じ姿に変えられていきます(14-18)。すなわち新約の務めとは霊の務めであり、いのちをもたらす務めなのです。律法は聖なるものでありますが、命を与えることができないのです。
ポイントはひとえに霊と魂の分離にあります(ヘブル4:17)。この時目の前に何が起きていても、また魂や体の状態がいかに厳しいものであっても、霊は平安と安息において、神の御臨在のうちに、御霊の助けと共に、私たちの召しにふさわしい霊的な奉仕をさせて下さるのです。たとえ体は何らの活動に携わっていなくても、私の霊は神の御前で奉仕しています。地上における目に見える形でのいわゆる奉仕は、その見えない奉仕の反映に過ぎません。むしろ目に見えない霊的奉仕が、目に見える物理的奉仕の性質とその実を決定するのです。霊が絶えずキリストを目の前に置いて、その御臨在の内に留まる経験は何と幸いな経験でしょう。環境とか、魂のアップダウンとか、体の健康状態によらず、霊は絶えず神の御臨在にあって、安らいで、まことの霊的な奉仕に与ることができるのです。それは御霊に仕えることであり、命を与える奉仕なのです。すべてはこの命の基準によって計られる必要があります。これが新約時代に生きる私たちの得たまことの召命なのです。