最近の日記

ルターとヒトラー

前に外務省のラスプーチンこと佐藤優氏の『獄中記』を紹介した。その中で驚いた記述に出くわした。ヒトラーがニーチェの超人思想とワーグナー(反ユダヤ主義者)の音楽に相当に深く心酔していたことは知っていたが、何と彼は次のように述べている:

獄中生活を経てはっきり実感したが、僕の政治倫理は徹頭徹尾キリスト教的で、しかもプロテスタント的である。類型としてはカルバンに近い。しかし、僕自身はカルバンは決して好きではない。知らず知らずのうちに恐怖政治を行うのがカルバン・タイプだ。また、カルビニズムはイスラームではワッハーブ派に近い。神法が重要で、実定法に対する遵法精神はほとんどない。・・・僕自身の課題はカルビニズムから脱却することだ。

・・・キリスト教の外側から見るとルター派と改革派(カルバン派・ツビングリ派)は同じようなものだが、改革派から見るとルター派はむしろカトリックに近いくらいである。ルターの世界観も僕の規範からすると半分カトリシズムだ。ルターには狂気に近いものがある。ヒトラーが最も尊敬していた偉人はルターで、ナチズムはルター派の伝統なくして生まれてこなかった。獄中では近現代のドイツ哲学・思想を集中的に勉強したが、ドイツ的なものの見方・考え方の中に、現代の病理現象が圧縮されているように僕には思える。同著pp.360-361

カルバン派についてはそれを病理的に先鋭化した再建主義者を見ているとまったく同意であるが、ルターの評価には驚いた次第。彼には狂気に近いものがあり、その思想はナチズムに基礎を与えていた!確かにルターも批判者を十万のオーダーで殺しているわけで・・・。

いやはや私は思想なるものには怖さを覚えると前に書いたが、そのひとつの証左が与えられたかも知れない。キリスト教と言うキリストの影の固定化にして抜け殻を先鋭化するとき、神の名によって人を殺すことが自由にできてしまう!?狂気とはまさに「神がかり」のこと。それは赤軍派が「総括」と称して互いに殺し合ったのと同じ病理。ミームの伝染によりフォリア・ドゥからフォリア・トロア・・・と。日本がいわゆる「リバイバル」されることを私が恐れる理由はここにある。抜け殻としての「キリストの名」による神聖政治・社会などは、心底から恐怖を覚える次第。

キリストとキリスト教―そこには致命的な深い溝が横たわってはいないだろうか?

本日の一冊

昨日の記事について、すでに主日の定期的ないわゆる「礼拝」においてではなく、随時の交わりの中で人が次々に救われ、いのちの交わりに与っていますとの証を某地方からいただきました。また別の某地方でも新しい始りがあるようです。うれしいですね。こういった交わりが日本の各地に植えられ、育ってくることを夢見ております。

別にニッポンキリスト教から公認される必要はありません。

二人または三人がわたしの名へと(Gk:eis;En:into)集まるところにはわたしもまたいるのである。

でも中国では政府公認教会(三自愛教会)でないと地下教会とされますが、日本ではニッポンキリスト教公認でないと地下教会となるのかしらん?

 * * *

アップロードファイル 22KB1968年には何があったのか』―唐木田健一著。同氏は東大理学部卒、理学博士。先週、東大の安田講堂の攻防戦について、同僚である元東大全共闘議長の山本義隆氏について触れたところ、何と山本氏と共に闘った唐木田氏の奥様がKFCに来ておられ、今回同書の贈呈を受けた。ありがたく頂戴いたします。学士会名簿でもすぐ近くにお名前を発見致しました^^

当時私は小学校6年。東京への修学旅行でバスガイドが、「このすぐ向こうに有名な東大の赤門がございます」と言ったことをはっきりと記憶している。同時に「東大・・・僕とは関係ないな・・・」と想ったものだ。パラパラっとめくってみたが、なるほど山本義隆氏のお名前が出ている。テレビで観ていたアノ攻防戦の当事者の証言だけに、これはかなり楽しみ。じっくり拝読させていただきます。

多謝在基督

静かなリッチなじかんの流れ

アップロードファイル 754KB山小屋から帰りました。時間の流れが違います。

今回の交わりのテーマは一点基督にして固定化しないこと。たえず流れていること。時空間を超えた神(ある)を、私たちの言葉の中に固定化することは実に愚かなこと。集会のあり方も、今のようにワーシップの後、メッセージ、ワーシップ、交わり、終わり。といった固定化が儀式化へ、さらにキリストの「抜け柄」だけを守るあり方に堕する危険性が常にある。安定したい、パタンを守りたい、ここに集っていれば安心・・・。これらは人間の本性的欲求であり、水戸黄門があれだけ長く好視聴率を保つ理由である。

ちなみに英国のThe Way of the Spiritの事務局のあるNorwichでは、いわゆる主日礼拝を一切しない。日曜日の何時に礼拝に集まるといった形を取っていない。日常の生活の中で、生活を共有する兄弟姉妹が、随意集まり、いつでもどこでも交わり(コイノニア)ができる。未信者も、メッセージの中ではなく、その交わりの中で実際的に主を知る。その日常生活の中で互いの知り得たキリストを交換し、いのちの流れに与る。

誰かのメッセージを期待して集まり、満足させてもらう、恵みをいただく、潤してもらうといった、もらいたいクリスチャンがほとんどの日本でも、私たち自身、これは主の前に問いたいと思う。「もらいたい」から「注ぎ出す/与える/差し上げる」歩みへ成長することができれば、私たちにも存在意義がある。

今のKFCについても前から言っているとおり、ここから脱皮できなれば、私は直ちにたたむつもりであるし(私自身は常に引退の日を夢見ているわけで・・・)、今、主からこのことが問われている。この業界には気持ち良くしてくれて満足させてくれる先生は山ほどいらっしゃる。しかし真の豊かさは与えることにある。この意味でウォッチマン・ニーに神学注解書を書くことを主が許さず、むしろ自分を注ぎ出す運命へと導かれたことは、実に深い主の配剤的摂理である。その生と死が永遠の福音の実際的包括的メッセージなのだ。

・およそ病とは、心のとどまるをいふなり―柳生但馬守『活人剣』

・仏法にては、この止まりて物に心の残ることを嫌い申し候。故に止まるを煩悩と申し候―沢庵『不動智神妙録』

・流水腐らず―中国故事

禅ではその奥義は

 無所住心

且つ我等基督者に於いては

 基督在心

参考:意識の扱い方について

用いられることの逆説(つづき)

ウォッチマン・ニーは追求する人々の間では有名であるが、若い頃の彼を訓練した英国人バーバー婦人はほとんど知られていない。私もニーの本から断片的に知るだけである。彼女は中国大陸に宣教師として入ったのだが、大クルセードを開くこともなく、本を著すこともなく、ただ福建省の片田舎で、数名の若者を相手にしただけだった。

彼女が彼らに教えたことは、ややこしい神学や聖書の解き明かしでもなく、ただ自分の十字架を負うことだけだった。ニーはこの点でもっとも彼女から厳しい訓練を受けた。そして同時にニーは、彼女について、絶えず十字架につけられて焼かれている人を見ていた、と証している。その後彼女がどのような運命を辿ったのか、私はまったく知らない。しかし、今日、私たちもニーを通してバーバー婦人の放った香に与ることができる。

用いられることの逆説

ある兄弟から伺った話:

ウォッチマン・二ーは若い頃野心に燃える一兄弟だったらしい。彼は生まれながらの天才的な頭脳を有しているし、もしその道を行っていたら世の学問においても大いなる成功と栄光を収めたことであろう。しかし若い頃からすべてを捨て、独立の働き人として召されて、貧困の中で結核を患った。

ボロをまとい、杖をついて歩いているある日、かつて自分に目をかけてくれていた恩師と出会った。恩師は「君はなんと言う惨めな姿になってしまったのかね。目をかけてあげていたのに」と一言放って去っていった。ニーは自分の状態を見て、惨めさと屈辱に打ちひしがれた。「確かに先生の言うとおりにしていたら、今頃は・・・」。しかしその時彼は栄光の霊が臨むのを感じた。その栄光と恍惚感の中で彼は確認した:「いや、自分はこの方にすべてを捧げるのだ・・・」。

このような彼であったが、なお野心を捨てていなかったようだ。それは立派な体系的神学書を著すこと。確かに彼の頭脳であれば、どれほどのものが書けたことであろう。ところが主は彼にそれを許さなかった。彼はこれから人生の収穫の時期となる50歳で共産党に幽閉され、70歳でボロ雑巾のように召された(→彼の証し)。20年間、主は彼が公の場で働くことを許さなかった。もし解放されたら、彼は英雄となり得たが、解放することも許さなかった。ニーは淡々とその召しに服した。彼が若い頃夢見たように、雄弁に福音を語り、数十冊に及ぶ神学全集を著し、大いなる神の業を行ったとしたらどうだろうか。相当の実が実ったはずだ。

しかし主はそのように は彼を用いなかった。主は彼に大いなるものを委ねたゆえに、そしてご自身の証を守るために、彼をして自分を無駄に注ぎ出させた。彼は主の魅力のゆえにそれに応じた。彼のこの20年を思うとき、「何ゆえに・・・」と感じると共に、ただ神を拝するのみ。私が信仰を持ち続けることができた/るのも、彼のこの20年の秘密を知りたいと願い続けているからかもしれない。

あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

Christian Fellowship Publishers(ニーの同労者だったStephen Kaungのミニストリー)

真理は逆説

明日、急遽訪問することになった山暮らしのMr.Sugarがチャレンジを与えている:

*ア チャレンジ*
「主よ あなたの為に私のするべきことは何ですか?」
「何も無い。あなたが何かを始めることを恐れるので 
私は あなたを木に釘づけたのだ。あなたは今 
墓の中の腐乱死体ではないのか。」
死んでいること―これにまさる奉仕はない。


私は

・世に対しても、死んでいる(ガラテヤ6:14)。
・古い自分は死んでいる(ローマ6:6)。
・律法に対しても死んでいる(同7:4)。
・肉も十字架につけた(ガラテヤ5:24)。

そこで悪魔は私たちをこの真理から肉(肉の欲・目の欲・持ち物の欲)を刺激して這い出せようとする。ゾンビの如く。真理は

・死んだ者はキリストと共に生きることになる(ローマ6:4)

That's IT! これがすべて! 何も足らないことはない! +αは不要!

今日、諸々のいわゆる"教え/方法”、"ミニストリー"がゾンビ・クリスチャンを生み出している。

いろいろな異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。

温泉三昧

今回の温泉―これまで訪れた温泉の中でも五指に入りますね。値段も高くはなく、しかし、部屋、料理、風呂(特に露天)をかなり堪能できました。お奨め致します。

伊豆長岡温泉山田家

(下の紹介で敷地1万坪と書きましたが、建坪と庭園を合わせると2万坪だそうです。今回は一番イイ部屋に入れてもらいました^^)

相手を理解しようと努めること

これから温泉に出かけるところ、ちょっと一言:

山谷さんの「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義を指向する」傾向に対して、Sola Gratiaらクリスチャン・トゥデイ側は、そのような矛盾した立場を標榜する者は異端者だと、断罪している。山谷さんはご自分で彼の言う「宗教文化多元主義」を「諸霊の下に管理され、治められているところの中間期における、一般恩恵」として説明している。中間領域があると言われるのだが、私の言い方では「人間の自由裁量権」あるいは「モラトリアム領域」である。道元などもここに存在する。

しかし道元の『正法眼蔵』を紹介するや、聖霊派あたりカゲキな人は、「お経の紹介とは何事か!イエスの名によって異教の霊を断ち切れ〜っ!」と批判する人もいるようだから、私も山谷さんと同様に異端宣告されるのだろう。と言うか、ニッポンキリスト教と関わってからと言うもの、カルトだの、異端だの、パクリだの、危険だの、とありがたくもかしこくも散々の評価をいただいておるので、何を今更という気分でもあるのだが・・・苦笑。私はなぜ彼らがそう言われるのかをできる限り理解しようと努めて、こういった文章も書いているわけだが。
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患者の喜び

午前中、1ヶ月ぶりでプールとサウナ。体が疼いていたが、やはり実にイイ。サウナでタップリ汗を流した後、冷たいプールにザブン。キューっと、身がしまる。

で、午後、耳鼻科で「ああ、これはいいですねぇ、こんなに短期で上手くいきましたぁ」と医者に言われて、つい、「あっ、ありがとうございますっ」と。微妙にうれしいもの。教師も医者も褒め上手であるべきだ^^

あしたのジョーと団塊世代

本日のNHK教育の特番は面白かった。最近の『華麗なる一族』や漫画『20世紀少年』の時代であり、68年の東大安田講堂の攻防や、よど号ハイジャックなど、私は小学6年くらいで、テレビを通してバーチャルな世界として観ただけ。ちなみに私が学生時代(70年代後半)にも安田講堂はその痕跡を残し、臭いが何となくきな臭かった。

ジョーについては私はテレビで知ったわけで、それほどのめり込みもしなかった。あの虚無感がどちらかと言えば嫌だったかな。「サンドバッグに〜」というあの歌は渋くて好きだったが、むしろエイトマンや鉄人28号だったわけ。力石の葬式が行われた時は、「漫画のキャラクターの葬式?馬鹿じゃないの」と思った程度。

当時団塊の方々は内側に解消されない「何か」の葛藤を抱え、その不完全燃焼している自分の理想像を、灰になって燃え尽きたジョーに投影したようだ。対する力石は打ち倒すべき体制そのもの。しかし猪瀬氏に言わせると、みんなで連帯して垂直に飛び上がったのはいいが、着地する時は個々バラバラ。脚力によって骨折したり、うまく降りて会社人間になった者がいた、という次第。かくして彼らはその時代を総括し切れていない。この世代は壊したがいいが、何も築けなかった。ただひたすら経済大国まっしぐら。それも最後はバブルで崩壊したと。その団塊の世代の抱えた心の空洞をその子供世代が抱え込み、ニートだのフリーターだのといった現象として現れている。団塊の世代とニート世代の共通項は、2ちゃんの病理でも論じたがエネルギーの空転現象だ。
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得度

本日もプールとサウナはなし(体は疼いているのだが・・・)。長女の大学の卒業式で、朝から着付けやらパシフィコ横浜の国際会議場への移動やら、昼食抜きで4時過ぎまで、ややグロッキー。これで一つの仕事が終わった・・・。うれしいような、さみしいような・・・。

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アップロードファイル 40KB最近、俳優の保坂尚希氏が得度して出家したとのこと。何でも7歳の時に両親が自殺をしたようだ。高岡早紀との離婚会見などよく分からない部分があり、彼には何か屈折したと言うか、内側に忸怩たるものを抱えているように感じていたが、今回自ら真実を語られ、やや同情を覚える次第。

私も禅にはまっており、静岡臨済寺の倉内松堂師と一緒の写真もご紹介したり、永平寺76世管主秦慧玉師と間接的に関係していることも前に書いた。と言うわけで、実は私も得度を考えたこともあったのだ。今でも雲水には憧れがあるし、禅寺の生活には実に心惹かれる次第。彼らは野心に満ちて脂ぎった牧師先生よりもはるかにサラッと生きている。一言で言えば、捨てる生活。清々として。
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山谷真少佐vsCT石上麟太郎弁護士

山谷さんがBlog上で弁護士に対して回答したところ、直接自分に送ってよこせとの内容証明郵便が届いたとか。山谷さんはこれに対して3点質問事項を掲げている。この対応は実験的であり、きわめて面白い論点を含むものと思う。こちらにも掲載させていただこう。

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第一点 ブログを通信の手段とみなすことができないことについて、法律上の根拠を明示し、もしくは、慣習法上の決疑論的適用を行って、ご説明くださること。

第二点 小生のブログを媒体として株式会社クリスチャントゥデイへの返答文を発表することについての不都合、もしくは、不具合があれば、ご教示くださること。

第三点 株式会社クリスチャントゥデイが小生のブログの記事を毎日確認しておられるのかどうか、確認している場合、ログを保全しかつ印刷しておられるのかどうかについて、ご返答くださること。
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一仕事が

アップロードファイル 69KB終わりました。研究室移動のお達しが出て、荷物のまとめを7時まで。まあ、出ること出ること、パソコン関係器材と書類と本の山。で、不要になった本をブックオフとやらに売ってみたところ、2,090円で売れました^^小市民Dr.Lukeにとっては僅かでも微妙にうれしいもの。かくして冬眠もそろそろ終わり。残すは来週の温泉であるが、思えば何と2007年も1/4が終わらんとしている!?そろそろ体と心に喝を入れねば。

倒錯者の群れ

山谷少佐が2ちゃんねるでのCT側からの誹謗中傷・罵詈雑言を山谷節に乗せて楽しまれているようで、真に天晴れと思う次第である^^

先になぜか私に粘着する「暇人」なる人物の投稿をご紹介くださった際に、この方は教養もあり、社会常識もふまえ、地位もおありになり・・・と書いたが、何と某団体の理事をしているとおっしゃっているとか!?いやあ、驚きました。この方も一日中2ちゃんに書いている名物の方のようですが、さぞや優雅な生活をされているのでしょう。この方にとってはCT社長Sola Gratiaこと高柳氏の言動が不気味だとする私の方がカルトにして不気味なのだとか。また山谷少佐と私はアホであると・・・。お叱りをいただくことは実にありがたいことで、ぜひその団体名を知りたくなりましたね(苦笑)

ここに見られる感性の麻痺について下に書いたが、どうも2ちゃんあたりで一日中時間をつぶしていると明らかに麻痺が起こるようだ。このあたりの大脳生理学的機序については前にもどこかで書いたと思う。問題は当の本人がそれに気づいていない点。彼らにとっては自分は至極まっとうなのだ(笑)。2ちゃんなどに書く他の奴はまともではないと思いつつ、必死に書き続けるわけ。自分だけはまともだぞと確信しつつ(笑)。そこで彼らは当事者を引きずりだそうとする。「空詐話」が2ちゃんなんぞにのこのこ出てきたぞ、と。これを2ちゃん用語で「本人ご降臨」と言うのだそうだ。かくして祭られる者は反論の道を塞がれる。
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