* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
これから温泉に出かけるところ、ちょっと一言:
山谷さんの「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義を指向する」傾向に対して、Sola Gratiaらクリスチャン・トゥデイ側は、そのような矛盾した立場を標榜する者は異端者だと、断罪している。山谷さんはご自分で彼の言う「宗教文化多元主義」を「諸霊の下に管理され、治められているところの中間期における、一般恩恵」として説明している。中間領域があると言われるのだが、私の言い方では「人間の自由裁量権」あるいは「モラトリアム領域」である。道元などもここに存在する。
しかし道元の『正法眼蔵』を紹介するや、聖霊派あたりカゲキな人は、「お経の紹介とは何事か!イエスの名によって異教の霊を断ち切れ〜っ!」と批判する人もいるようだから、私も山谷さんと同様に異端宣告されるのだろう。と言うか、ニッポンキリスト教と関わってからと言うもの、カルトだの、異端だの、パクリだの、危険だの、とありがたくもかしこくも散々の評価をいただいておるので、何を今更という気分でもあるのだが・・・苦笑。私はなぜ彼らがそう言われるのかをできる限り理解しようと努めて、こういった文章も書いているわけだが。
再建主義の富井さんに絡まれた時も同じであったが、彼は私を理解しようと努めることなく、"彼の理解しているディスペンセイション神学"を私も信奉していると彼の脳内で勝手に思い込んで、それを批判するわけである。彼の"ディスペン神学"では、この世はサタンによって支配されているからクリスチャンは何もできず、主の再臨を待ち望みつつサタンの横行を許している負け犬だけだとする「絵」である。
対して再建主義では、律法の適用によってこの世を神の御国へと変えよとするわけ。律法の適用領域は御国であり、非適用領域はヒューマニズムであり、サタンの領域だと。かくしてオセロゲームのように黒を白へとをひっくり返していくわけだ。私もヒューマニズムは福音に対する現代の敵であると認識しているし、今の何でも愛して許しての人間中心の砂糖まぶしのキリスト教に対して警鐘を発している。この面では富井さんにかなり同意できる。(私のヒューマニズムの理解はコチラを、人間性のありか方についてはコチラを)。
またウイットネス・リーなどは、生まれつきの人の体にはサタンが受肉しており、そのような人が支配するのがこの世であって、そこにキリストを内住させ、神と人の混ざり合い=教会=を建て上げていき、サタンの受肉の領域(=この世)を、神と人の混ざり合いの領域(=御国)へと変えていくとするわけだ。彼らの絵も、サタンの受肉の領域と神と人の混ざり合いの領域のせめぎ合い。で、これも白黒のオセロゲーム。こういった白黒の世界では道元を評価するなどもっての外であるし、事実そうなのだ。ローカルチャーチでは禅の本などすべて焼き捨てよ、と言われたもの。
結局彼らは彼らの「内的世界モデル」に従って、外界を評価し断罪するわけだが、その際、外界を理解しようとする姿勢はまったく欠如している。"彼らの理解する道元"に従って、道元を断罪するだけだ。つまり自作自演の一人相撲。この「内的世界モデル」を認知心理学では「内部表現」と呼ぶ。これは専門家のドクター苫米地のBlogを参照されたい。なお、彼は多分クリスチャンではないと思うが、「イエスを理解していない人たちへ―仏陀を理解していない人たちも」と題して面白いことを書いておられる。彼も現代のアメリカのカルト性を指摘し、パワー・フォー・リビングなどの原理主義キリスト教がイエスから程遠いものであると主張している。
生の相手を理解することなく、自分の脳内モデル(内部表現)に従って議論を進め、それを相手に認めさせるか、さもなくば敵であるとする姿勢こそ、クリスチャン・トゥデイから受ける印象なのだ。彼らの理解するダビデ・張像をそのままに認めるか、認めないかを私たちに迫り、認めないで批判するのであれば名誉毀損で裁判も辞さずと恫喝する。これはウイットネス・リーも同じ。終わりの時代のただ一人の預言者リーの"啓示"こそすべて、リーに異議を唱えるものはサタンに唆された者であり、神の敵である。かくして批判者はすべて裁判に訴える始末。これはもう立派な訴訟パラノイド(好訴妄想)と言えるだろう。再建主義の富井さんはまだ名誉毀損で訴えるとはおっしゃらないし、人から何を言われようと自分の信じた路を歩まれているだけ、立派なものだ。
お分かりになるでしょうか。キリスト教が根本的に宿している病理―自分は神の側・相手はサタンの側。かくして白から黒を見るとカルトで、黒から白を見てもカルト。何とまあ、眩いばかりの倒錯の世界(笑)これに2ちゃんあたりの倒錯者たちが輪をかけると。この世もニッポンキリスト教界も今後ますますこの倒錯現象が進行するだろう。ここでひとつ判断法を紹介しておこう:もしこのような教えがすべてになったら世界はどうなるか、と思考実験してみてください。すべてが再建主義、あるいはウイットネス・リー、あるいはダビデ・張の教えになってしまったら・・・・。
で、極私的には、道元を安心して紹介できるニッポンキリスト教であってほしいものと思うのだが、やや無理か・・・。では、中間時代における一般恩恵としての温泉を享受してまいろうか^^