最近の日記

BSE感染リスク者となってしまった;;

80年から96年までフランスかイギリスに1日でも滞在した人は献血ができなくなった。私の家族は93年にイギリスのキャンプに2週間ほど参加した。よって見事に該当者。これで年に2回はしていた献血がアウト。そしてBSEの感染リスク者とされたわけ。あの時、マックでフィレオフィッシュを食べたと思うが(牛肉は食べてないと思うのだが・・・)、ほとんど記憶がない・・・。う〜む。

 * * *

友人の状態のその後の情報が入らない。知らせがないのも苦しいものがある。どうか自分の中に閉じ篭らないでほしい。

5年の月日

親父が亡くなってから5年ぶりに家内と田舎に帰ってきた。表向きの理由はお袋が気管支炎をこじらせたため。なぜ5年も空いたのか−信仰上の対立もあったが、私的には親父のいない実家に帰ることが実はこわかったのだ。"そのこと"を認めなくてはならないから。あの時から私の時間が実は止まっていたことに気がついた。

今回時間が十分に経ったためか、"そのこと"を直視することができた。ようやく親父の死を受け入れることができたのかもしれない。お袋も外見上はあまり変化がなく、ホッとした。

『バカの壁』の養老猛司氏が若くして父親を亡くし、そのときは何も感じなかったのに、はるか40歳を過ぎてから、電車の中で突如涙がこぼれ出し、号泣してしまい、それでようやく父親の死を受け入れることができたと証言しているが、私もやはり5年の月日が必要だったようだ。

隣近所の人々のあり様の大きく変わっていた。亡くなった人も多く、刑務所に入った人など、5年の月日は人の人生を大きく変えるに十分な時間だった・・・。そして私にはまだ福音に猛烈に抵抗する弟との和解という大きな仕事が残っている。

生と死のはざま

人の死に直面し、生と死を分けるものは何か、すこしく考えている。もちろんクリスチャンは滅びるわけでもなく、それを決めるのは神であるが、神の御心を見失いそうになることもある。「何故ですか・・・」とうめきをもって問いかけたくなる瞬間もある。

「人の齢は70年、長くても80年」と詩篇にある。ゆえに最低でも70年は祈り求めることができると信じたい。少なくとも地上での責務を果たすまでは、その「はざま」を超えるべきではないのだ。わが兄弟よ!

ラザロのIさん召される

寿町のカナン教会の佐藤先生と久しぶりでお話しができた。とてもうれしく感じたが、その話の中で、ミッションラザロのひとり、I さんが2月16日に昇天されたと伺った。

彼は元手配師であり、上野駅などで上京した若者をスカウトして、男は工事現場(タコ部屋)、女は熱海の芸妓置き場などへ売っていた。月に400万の荒稼ぎをした時代もあったそうだが、流れ流れて寿町のドヤで一升瓶を抱いて寝る生活に落ちた。

しかし主イエスによって立ち直り、細やかな心遣いで奉仕していた。人生の酸いも甘いも知り尽くした感のある味わいのある人だった。家族とは何十年も音信普通で、戸籍も抹消されていたが、数年前復活し、二人の妹さんと連絡が取れるようになっていた。

しかし長年のアルコールによって肝臓がやられ、肝硬変を呈しており、病院をたらい回しにされて入院した時には手遅れだった。彼の遺骨は妹さんが引き取ったそうである。地上の幕屋を脱ぎ、苦痛から解放された彼は、今主の元にいる。

わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう(イザヤ書32:18)。

感謝です、道が開かれました!

彼が今日、医学的処置を受ける決心をしてくれました。あす病院で検査を受けるそうです。主が触れてくださったこと、皆様の祈りに支えられましたこと、本当に感謝です。結果や転移の有無などはすべて主の御手にお委ねします。主は真実です!

主が下さった彼(および、私)に対する御言葉です:

イザヤ46:12-13
わたしに聞け、心のかたくなな者よ/恵みの業から遠く離れている者よ。わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くはない。わたしは遅れることなく救いをもたらす。わたしはシオンに救いを/イスラエルにわたしの輝きを与えることにした。

その後・・・

皆様から友人の件につき祈りに覚えていただいている由のメールをいただいて感謝です。この半年間ほどは目を離せませんので、あまり自分勝手なことを書き連ねることは避けたいと思っています。とりあえず、お心にかけていただき、主にあって深く感謝いたします。

ココの凍結のお知らせ

さて突然ですが、先の兄弟の状況に思いと祈りを集中するため、しばらくこの日記を凍結いたします。再開時は未定です。

真夜中の事件

午前3時ごろ、長女が突然の腹痛を訴え出した。その苦しみ方が尋常ではなく、顔面が紫色になり、前かがみになったまま、悲鳴を上げつつ、震えが来るほどに苦しんでいる。

前にも便秘で苦しんだことがあるが、ちょっと今回は違う・・・。「もしやイレウス(腸閉塞)かも?」と思い、もしそうならば緊急オペが要るからと考えて救急車を呼び、市民病院の救急外来に搬送してもらった。

で、X線写真を診ると・・・やはり便が溜まっている。処置してもらっている間に、嘔吐と排泄があり、輸液をしてもらっているうちに安定した。やれやれ。

で、あたふたした結論は、疲労の蓄積とそれによる胃腸障害の模様。血液検査も白血球が高値。なにしろ午前5時からマクドナルドのバイトをし、管理栄養士試験の準備とで、睡眠時間3時間のかなりのハードスケジュール。とりあえずノロウイルスなどの可能性も考えて、さらなる検査のために1泊だけ入院させ、今戻ったところ・・・。参りました(汗

健康は大切です。たった一晩でもこれだけストレスになる。先の兄弟のことが改めて頭に思い浮かぶ。

その後の状況

皆さんにお心にかけ、また祈っていただいている兄弟の件ですが、彼は私よりも年長なので、さらに彼よりも年長の方に説得いただけることになりました。その方とも20年以上のお付き合いですから、信頼することができます。もちろん私にできることはする心積もりでおります。自分の真実から逃げないことを、病にある兄弟に対しては願っています。

続けて覚えていただけますと感謝です。

休日の一場面

次女の入学式用のスーツを買いに、家内と3人で高島屋に出かけた。で、結論は、彼女たちの目利きに時間がかかり、私は内心で「いい加減にしろよ〜」と言うわけで、途中で分かれて、自分の物を買って帰りました。女のショッピングは苦手だよ、やれやれ。

しかし彼女は身長が178cmあるので、なかなかフィットする物がないのですね。ジーンズなどは男用です。帰ってきて、着用してみると、靴の高さも加わって180cmのスラリとしたモデル並みの長身。おお、江角マキ子かシャラポア並みだぞ・・・と、これは親の贔屓目。

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3月21-23日の流氷ツアーが催行決定。

・神秘の流氷
http://www.hankyu-travel.com/event/ryuhyou/?overture

ワクワクしております。

死と言うこと

そろそろ私も死を具体的に考える年代になった。昔ならば人生50年。私も後2年に過ぎない。禅僧では、浮世狂言止めたと、自ら食を絶って眠るように召される人がいる。達観した高僧は生死を越えた生き方をしている。

対してクリスチャンは死から自由にされたと言いつつも、けっこう生に未練がある。かく言う私も死はこわい。ただそれは自分が虚無の中へと消失する恐怖ではなく、未知の領域へと入るこわさと言える。新しい学校や職場に入る時の感覚に近い。つまり一方ではどこかに楽しみがあるのだ。

1日の労苦を終えて布団に入り、眠りにつく心地良さと似ているだろう。地上での自分の責任を全うしたら、おそらく「もうやることはやった・・・」という解放感と安堵感を覚える日が来るだろう。生と死を隔てる一線を超えて、主の懐にやすらうことのできる日が。

それまではSalt氏も言うとおり、その日その日の苦労があるのだ。Saltさん、私も登校拒否症、というより、この世にいること自体に適応障害を起こしていますよ^^

・Salt氏の日記(励まされます)
http://sakura.sarasou.com/cgi-bin/diary04/cdiary.cgi?room=ikemoto7

備えること

クリスチャンはしばしば超霊的になる。生命保険も入らない、医者にもかからず薬も飲まない、信仰によって神の超自然的癒しを求める。癒しの賜物のある器に祈ってもらう、などなど。

私は霊能力者でもなく、神学者でもなく、一介のサイエンティストなので、体に異常があれば、ドクターにかかる。またいい薬を処方してもらう。また年に1回ドッグで全身を調べてもらっている。血液データも学生時代から25年にわたって蓄積しているので、異常があればすぐに検出できる。自分の体の真実は把握している。

生命保険や癌医療保険、さらに損害賠償保険も入っているし、共済年金に加えて個人年金や子供学資保険も積んでいる。私が突如召されても、マンションのローンは団体信用保険でまかなえるし、残った家族を路頭に迷わすことのない備えをしている。子供の学資も私が召されたら年金が下りるし、節目節目でまとまった金が下りてくるので、きわめてありがたい。大学の資金としても200万は確保できるので、私立でも何とか可能となる。癌保険も、癌と診断されたら300万をもらえる。

こういった対策を不信仰であるとして、見下すクリスチャンも多いことを知っている。ある先生は「生命保険に払う金があったら信仰をもって献金せよ」と言われる。私はこうした奨めには拒否反応を覚える。古のヨセフを見ればよい。来るべき飢饉に対して計画的に備え、イザと言う時に国民を救ったではないか。

人間としてなし得る対策をなし、人間の側の責任を果たす必要がある。それを超えた分は神が責任を負ってくださる。昨日の兄弟に対しても、私は訴えたいのだ:「妻や子供たちのことを考えよ」と。自分の超霊性を保つために家族に犠牲を強いてはならない。・・・ただ、もう遅いかもしれない、その真実を知ることが、正直言って私もこわい。

ああ、兄弟よ!

わが兄弟のこと

彼とはもう知り合ってから20年以上になる。昨年から1年にわたり、頻尿と血尿が出て来て、ここへ来て痛みが加わった。

年齢的に言って、前立腺癌が疑われる。血中の前立腺癌マーカーを調べれば一発で診断できる。しかし彼は決して現代医学にかかろうとしない。いじられるのを好まないとのこと。経済的困難にプラスして、生命の危機に直面している。

私もどう祈っていよいか分からず、うめきを覚える日々が続いている。血尿があることはすでに尿道か膀胱への転移があるわけで、一切の治療を拒否しているために、ただ癌は進行していると推測される。私と同じ年齢の子供たちを抱え、まだまだやることがあるんだぞ!兄弟よ、私はどう祈ればよいのか!

一言映画評−アレキサンダー−

オリバー・ストーン監督作。彼独特のシリアスな視点からの作品であり、いわゆる大河物語とは一線を画す。若き王がどのように誕生し、どのような過ちを犯し、どのような苦悩を経て、どのような死を迎えるか、人間の心の闇に焦点を置いて作られている。

しかしあれだけの帝国を征服した彼の動機とエネルギーは何なのだろうかと、ふと考える。部下に裏切られ、母の影響に束縛され、自分の地上の王国を建てることにより自分を確立しようとしたのか。しかし地上の王国はやはりむなしい。

人は何も持たず、この世に来て、何も持たずに去っていく。地上の労苦は影を追うが如し。ただクリスチャンは主を知ることによって、主の懐に戻ることができる。ああ、そこは何と言う暖かさ・・・。