最近の日記

弱い者は幸いだ

これまで多くのクリスチャンと称する人々を見てきたが、一つ言えること:

 弱い人は幸いだ。

自分にあって強い人はどうも神の取り扱いの御手も重くなる。もちろん神が人生の悲惨や困難を演出されるわけではない。その人の強さがそれらを招く。

ウォッチマン・ニーはこう言っている:

 レンガのようであってはならない。繊細な十字架の
 タッチを受ける時、ビスケットのように崩れてしまう
 ならば幸いである。

友人のその後の容態

皆様に祈りに覚えていただいております友人は、一応危機的状況を脱し、今日スパゲッティ状態から解放され、来週中に退院できる予定とのことです。

ただガンの種類が抗ガン剤と放射線が効かないタイプのため、病院でできることは外科的処置のみで、肉眼的に取れるだけは取ったとのことです。後は取り残しの有無や再発・転移を監視し、体力勝負となります。丸山ワクチンなども試みるようです。リハも含めてこれからが正念場となります。

奥さんからもお祈りを感謝しますとのことですので、ご報告いたします。

激流の行方

どうも私が予測したとおり、小泉氏のシナリオどおりに進みそうですね。これは別に郵政民有化の賛否を問うているのではありません。小泉氏もそれは知ってのこと。建前なのです。これまでのニッポンの政治の手法がここで淘汰されているわけ。

サンプロで石原氏が「これで社民党は消えるね、共産党も減るでしょ」と予言していたが、これは、間違いない!私の印象ではニッポンキリスト教と社民党あるいは共産党は同じ臭いを発している。「カミっさまっはあ〜」のあの独特の金太郎飴口調もすでに鼻についているが(不思議とどの派でも同じ!?)、社民党の党首のあのオバチャンと同じトーン。

で、今後の命運は多分同じ。立派で・霊的で・清く・正しく・貧しくのセンセイたちの時代は終わりです。否、献金で食べているあまり役に立っていないセンセイにはどんどんご勇退いただくべきだろう。ニッポンキリスト教○○派××連盟理事長だとか、なんとか神学校学長だとかの"ワッペン"は何の意味もない。この世にあって、この世にない魅力を醸していない者に誰が目を留めるだろう。まさにさみしい独り芝居。

今後の流れは二分化。そして下手をすると社会からこぼれた自己責任の取れない、自己憐憫に満ちた人たちがキリスト教界に満ちるようになる。今キリスト教メディアなどが吹いているリバイバル音頭などは幻想であることはすぐに明らかになるが、それどころではなく、これらの人々によって、何でも愛して・許してのニッポンキリスト教界は大きな混乱に満ちることであろう。私はその前に避難するつもりだが・・・。

自作自演の小泉流

彼はすでにシナリオを書いていました。彼にとっては法案が否決される・されないは問題ではなく(もちろん可決がいいに決まっていますが)、要するに旧い体質の一掃を計っているだけ。粛清ですね。しかも彼自身が与党と野党の両サイドの役を自作自演していますから、民主党なども何を主張していいか、ただ翻弄されています。

で、結局小泉氏の改革(粛清)が成功したとして、問題は我々がどのようなメリットに与るかですが、これは前に書いたとおり、弱肉強食の二分化社会になります。上位と下位がきれいに分かれます。学歴も経済も生活ぶりも・・・。

そしてそのように層別化された社会では、子供たちもその層の中でしか生きられないパタンとなります。北朝鮮の「出身成分」と事実上は同じです。すでにアメリカでは国富の80%を人口の1割で独占しています。そして低所得層では高学歴を得ることは困難になっています。下層階級から抜けることは容易なことではないのです。

果たして日本人がニッポン人化して、そのような社会に耐え得るかどうか、肉食のアングロサクソンの価値観に中毒を起こすのではないかと、私などは懸念するが。

所得格差については→http://www.hi-ho.ne.jp/marken/2004.07.htm

教会の成熟

昨日は御巣鷹特番があちこちであった。実はBBSで紹介したリンク先には事故現場の生々しい写真もある。これを見るとき、人の生のはかなさを覚えると同時に、こういった不条理に対して、教界がほとんど関与し得ていないことを感じる。「私たちの不条理はイエスの究極の不条理で飲み尽される」という理屈は語り得ても、本音を言えば、被害者の方々を受け止め、かつそこでイエスを証しすることはきわめて難しい。彼らに何をどう語るのか・・・。

ところがニッポンキリスト教の中ではそれぞれの教勢を競い、紅貧らに酔っぱらい、弟子訓練だ、幸せを得るセミナーだと忙しいようだが、この世との関わりにおいて、特に8・12のような事態に対して、その苦しみや重荷を共有し、関わることにおいてはほとんど無力、否無関心であるような感じがする。もっと言うと見ようとしていないというか・・・。

ニッポンキリスト教という閉鎖空間でのリバイバル音頭の一人芝居を見させられているようだが、おそらく真のいのちの成熟はこういった世の悲惨との関わりにおいて証明されるのだろう。イエスの十字架は私たちが満たされて、恵まれるためにではなく、むしろ彼らのためにあったはずなのだから・・・。

8・12負い続けるもの

あの御巣鷹の事故から丸20年。あの日のことは昨日のように覚えている。当時長女がようやく8ヶ月で、田舎の諏訪に帰省していた。

夕方、突然NHKで木村キャスターが「そんなこととはどうでもいいから、乗客の氏名を読んで!」と叫び出した。JAL機が行方不明とのことで、一時は不時着したようなニュースも流れたが、結局はダメだった。大脳研究で有名な塚原仲晃氏も乗っていた。

先ほどの再現ドラマによると高浜機長のご家族は世間の非難を一身に浴びた15年を過ごされた。ぶつけどころのない怒りを遺族もどうしようもなかったに違いない。共に被害者なのだ。ヴォイスレコーダーが公開されてようやく和解の時が訪れた。

私もこの事故に関する本をできるだけ集めてきたが、最近出た本でDVDに音声とCGによる再現映像を納めたものがある。ある新聞社の元記者の方が書かれたが、これを見るとその緊迫感がモロに伝わり、特に最後の衝撃音を聞くことは相当に勇気が必要。事故調の文書化された台詞と、DVDの音声は明らかに異なるものがある。

結局事故調の報告に疑念があることを指摘しているが、いったい当局は何を守るために、何を隠しているのだろうか。救助に向かうまでの混乱も疑問。アメリカ軍は場所を特定していたのだ。ここにもアメリカの国益が絡んでいることは間違いない・・・。

高浜機長のご家族と乗客の遺族の皆様の負い続けてきた、そしてこれからも追い続けなくてならないものを思うとき、実はイエスがそれをすでに負って下さっていることを彼らが知ることができるように祈るのみである。

舶来モノはもう十分でしょう?

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トム・クルーズが『ラスト・サムライ』で「ここには教会はないが確かに霊性を感じる」と言い、「日本人は日本に目覚めよ」とメッセージを送っていた。

舶来モノの形だけ真似することはもう十分でしょう。内なるキリストを見出していないから、「白いモノ」や「色物」を追っかけるのです。

学生に日本人の精神病理を説明する時に問うのですが、「モンゴル人がモデルのファッション雑誌を読みますか?」と。同じように、『境界線』をベトナムの学者が書いたら、みなさんありがたがって追っかけますか?

そろそろ地面に足をしっかりつけて、じっくりと生きることを味わうべき時ではないでしょうか?

十字架と境界線

このところ株が好調。窓を開けての12,000円越え。小生もポツポツとゲットしている。外国人の買い越しが多いようだが、やはり小泉流は外国人には受けるのか。

 * * *

kamekameさんが境界線について論じておられたが、霊的な世界にはいくつかの原則がある。これは神の働き方の法則であって、我々はこの法則を変えることはできないし、ただそれに服するのみである。前に重力のことを例にあげたが、「重力は質量の積に比例し、距離の二乗に反比例する」。これを変えることは人間にはできない。ただそれを受け入れて、それに服するのみ。

『境界線』については出版社が送ってくれたので、ざっと目を通したが、その印象は「御言葉を用いた(で飾った)心理学である」、だった。心理学(Psychology)=魂学(Psycheのlogic)。いかにも"Keep your distance"のアメリカらしい。もともと「境界」の概念は精神分析にルーツがあり、別に新しいことではない。特に分裂病の精神病理では「自我境界の曖昧さあるいは消失」として論じられる。日本でも精神病理学者の木村敏が「間の病理」として論じている。その本質は、"I'm OK, You are OK, so everything is OK."である。それは魂を救うことを意図する。

しかるに霊的な神の法則は、「自分の魂を救おうとする者はそれを失い、失う者はそれを得る」(ルカ9:22,23)である。十字架は「死と復活の法則」の適用である。いにしえのモーセにせよ、ヨセフにせよ、いかに境界線の逸脱によって魂に苦しみを得たことか。しかしそれが神の働き方であり、死を通してのみ復活のいのちが働く。

まあ、日本人的な甘えの病理でややこしくなっている人間関係の理解には役に立つとは思うが、霊的な法則には即してはいない。御言葉に立ち、かつ霊的法則をわきまえ、かつ魂と霊の分離(=これも境界線?)を少しでも知っていれば、何もお祭り騒ぎをすることではない。

次から次へと新しいものが吹き込んでくる昨今、神の言葉は明らかにこう言っている:「初めから聞いていたことに堅く留まりなさい」、「教えの風に吹き回されることなく、騙し事の哲学に欺かれることのないように」と。我々の霊的歩みにおいて知らなくならないことはさほど多くはない。そして私がしつこくMSGで語ることは、「教えではなく、パースン(お方)」。この意味でkamekameさんの2番目のレスにはまったくアーメンである。

 * * *

ふぅ〜、ジョッギングした後の冷えたビールが実に旨い!霊も、魂も、体も健康であること、これに勝る幸いはない。

怨念の政治

小泉氏の支持率61%、内閣の支持率46%だそうだ。ポピュリズム嗜好を刺激された大衆は、迫力ある(というか、鬼気迫る)パフォーマンスに実に弱い。反対勢力は「造反組」とレッテルを貼られ(何となく中国の文革や北朝鮮を連想させるが・・・)、すっかり悪者扱い。いわゆる勧善懲悪ドラマと同じ構成。このあたりはブッシュと共通する。対するオッボチャマ民主党は小泉氏の迫力に押され、どうもその存在自体が薄い。

あの目つきはどうもフツウではないと感じていたら、午前の番組で小泉氏のルーツがあの「角福抗争」に由来していることを解説していた。要するに中曽根氏の"裏切り"で福田氏が角さんに負けた因縁の一件。小泉氏は福田氏を抱いて号泣したそうだ。前の中曽根氏に対する態度も、対する今回の参議院の中曽根Jr.の動きもなるほど、その因縁と分かる。「派閥をぶっ壊す」はここにある。また小泉氏が郵政大臣だった時に官僚から受けた仕打ちに対する因縁も篭る。

衆議院を当て付け的に解散し、造反組をあくまでも冷遇する小泉氏のやり方は確かにdue processかも知れないが、コワイものを感じさせる。怨念はコワイ。私なども意図せざるして人の恨みを買う経験があるが、その憎悪をぶつけられ、その心の闇の病理を目の当たりにすると、実にぞっとするほどに怖さを覚える。これがクリスチャンと称する人であるならば、いわんや小泉氏をや、である。

これまでの派閥政治を壊すはよし。が、その動機とエネルギーの源が憎悪と因縁にあるならば、これは将来に禍根を残す。これはブッシュとフセインの因縁によるイラク問題も同じ。どこに落とし所を想定しているのか?

今年の夏は確かに暑いが、クーラーが要らなくなるほどに寒々したものを覚えているのは私だけであろうか。

愛と境界線

ネットで知り合った札幌はすすき野で牧会をしているfisherさんの日記を紹介する:
http://geocities.yahoo.co.jp/dr/view?member=hopefisherman

"Hope of Japan"と言うサイトを運営されている。つねに、ややこしい理屈ではなく、素朴な彼の心の内を証ししておられる。上の日記で彼は

神様の愛に通じる犠牲愛、極端な愛です。牧会をすると境界線が見えてきます。確かに境界線を保つのは大切な教えかも知れませんが、イエス様は神と人という、最も大きな境界線を飛び越えてきた方であることを知ることは大切だと思います。愛することには、犠牲があるのです。犠牲のない愛は、厳しいかも知れませんが神の愛ではないのかも知れません。傷つくまで愛する、はマザーテレサの言葉でもありました。

と述べている。

こう言うと一部の人に怒られるかもしれませんが、私は自分に言っていることをお断りした上で、あえて言おうと思う。「境界線」は十字架ではなく、イエスに対しペテロが「ご自愛下さい」と助言した霊から出ていると感じる。それはむしろ自分を助け、自分を救うもの、つまり十字架に対立している。人が喜ぶことはしばしば神の喜ばないことである。

私も先にN兄弟に対して「一線を引いた」が、これは撤回したいと彼の日記を読んで感じた。愚かな者、うなじの強い者に対して、徹底的に付き合って下さるのが、インマヌエルなる主イエスである。

fisherさん、感謝です。

同級会2

名残が尽きず、男女有志数名でM君宅を訪ねる。彼とは97年に会って以来。当時彼は某大学のコンピュータシステムを立ち上げる際、酒だけで生きていたため、下宿でぶっ倒れ、そのまま地元の病院に担ぎ込まれた経歴を持つ。理系的な天才肌で、私が数学に目覚めたのは彼の影響。

病院では「アル中性飢餓状態」と診断された(こんな病名あるのか?)。ところがこれが誤診で、実はすい臓をやられていて、糖尿病状態。歯が抜け、ガリガリにやせ、寿町のオッチャン状態。でもかろうじて生きている!で、みんなで近くのウナギ屋のうな重で元気をつける。

かくして今年のタイムスリップは終わり。ひとり行方知れずがいるが、まだ逝った者はいない。優等生からゴタ小僧(諏訪の方言で、悪ガキの意味)が実によくブレンドされたクラス。職業も教師から芸術家からトラック運転手まで実に多彩。3人の孫を持つヤツもいる。今後も共に生き抜こう同期の桜。実に楽しかった、下中3の1同級会。

同級会

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              下諏訪中学3年1部の面々

飛騨から白川郷を目指すもあと30キロの地点で道が崩れておりアウト。遠回りでは100キロ以上で時間的に無理と判断。世界遺産の合掌造りを見たかたったがチャンスを残しておく。そこで帰途、飛騨大鍾乳洞による。ココは元海底だったところで、地形が隆起し、珊瑚などの石灰岩に穴が開いたもの。全長800m。中は天然冷蔵庫。自然は最高のアーチストであると実感。

 * * *

夜は中学の同級会。毎年やっているのだが、私は四年ぶり。パッと見ると誰かが分からないが、よ〜く見てみると、なるほどと、アノ時代に戻れる。50歳を前に、それぞれイロイロな境遇の変化や人生の波にもまれている。ちょっと前とは違った印象。

で、2次会、3次会と続き、また明日M君を訪ねつつ4次会と・・・。

上高地&飛騨

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               穂高連邦を望む大正池

カミさんと長女とお袋とで飛騨へ。途中上高地に寄る。ここは環境保全のため、マイカーは入れない。往復ひとり2,000円のタクシーかバス。何と言うか森が深い。穂高連峰や焼岳と絶妙のバランスのある風景。

夜は飛騨の温泉かけ流し民宿。ひとり9,000円であるが、これが中々GOOD。特に飛騨牛ステーキと地酒の冷生酒が絶妙で実に旨い。露天温泉は山を見ながら3回も入った。若い頃は海派だったが、このところ山に目覚めてきている。歳だ・・・。

山の香り

     何なのでしょう、この香り。
     腹の深くに吸い込むほどに人の心を癒し、
     時間の流れを遅くする。
     たった1日居ただけなのに、
     あたかも1週間もいたような濃密な時間。
     普段私たちは当たり前に都会に生きているが、
     その時間の密度と山の密度ははるかに違う。
     都会は情報量は多くとも、あまりにも無意味な時間。
     取り残されないように必死で生きている人々の群れ。
     この世も教界も同じこと。
     もう十分だな、彼らと共に生きることは・・・。