* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
このところ株が好調。窓を開けての12,000円越え。小生もポツポツとゲットしている。外国人の買い越しが多いようだが、やはり小泉流は外国人には受けるのか。
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kamekameさんが境界線について論じておられたが、霊的な世界にはいくつかの原則がある。これは神の働き方の法則であって、我々はこの法則を変えることはできないし、ただそれに服するのみである。前に重力のことを例にあげたが、「重力は質量の積に比例し、距離の二乗に反比例する」。これを変えることは人間にはできない。ただそれを受け入れて、それに服するのみ。
『境界線』については出版社が送ってくれたので、ざっと目を通したが、その印象は「御言葉を用いた(で飾った)心理学である」、だった。心理学(Psychology)=魂学(Psycheのlogic)。いかにも"Keep your distance"のアメリカらしい。もともと「境界」の概念は精神分析にルーツがあり、別に新しいことではない。特に分裂病の精神病理では「自我境界の曖昧さあるいは消失」として論じられる。日本でも精神病理学者の木村敏が「間の病理」として論じている。その本質は、"I'm OK, You are OK, so everything is OK."である。それは魂を救うことを意図する。
しかるに霊的な神の法則は、「自分の魂を救おうとする者はそれを失い、失う者はそれを得る」(ルカ9:22,23)である。十字架は「死と復活の法則」の適用である。いにしえのモーセにせよ、ヨセフにせよ、いかに境界線の逸脱によって魂に苦しみを得たことか。しかしそれが神の働き方であり、死を通してのみ復活のいのちが働く。
まあ、日本人的な甘えの病理でややこしくなっている人間関係の理解には役に立つとは思うが、霊的な法則には即してはいない。御言葉に立ち、かつ霊的法則をわきまえ、かつ魂と霊の分離(=これも境界線?)を少しでも知っていれば、何もお祭り騒ぎをすることではない。
次から次へと新しいものが吹き込んでくる昨今、神の言葉は明らかにこう言っている:「初めから聞いていたことに堅く留まりなさい」、「教えの風に吹き回されることなく、騙し事の哲学に欺かれることのないように」と。我々の霊的歩みにおいて知らなくならないことはさほど多くはない。そして私がしつこくMSGで語ることは、「教えではなく、パースン(お方)」。この意味でkamekameさんの2番目のレスにはまったくアーメンである。
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ふぅ〜、ジョッギングした後の冷えたビールが実に旨い!霊も、魂も、体も健康であること、これに勝る幸いはない。