最近の日記

雑談2話

10日ほど前に息子とプロレスごっこをして、思わずムキになってしまいました。それというのも、すでに彼の身長は私を超え、筋力も(最近私はさぼっていますので)勝っている感触でした。で、脅威を感じて、つい本気で彼をヘッドロックで締め上げたわけです。

するとなんとどうも肋骨にヒビが入ってしまったようなのですね。咳をしたりくしゃみをすると、ビビビっとくるわけです。やれやれ。ムキになった時点で、私の負けです。もう彼とは組み合うことはできません。父親の複雑な気持ちを味わっています。(体力だけでなく、頭も鍛えてくれよ、と。ヘブル書の父の訓練を思います。)

 *  *  *

雅子様はかなり重症ですね。おそらくストレスによる消耗性の鬱病でしょう。昨日の皇太子の会見もかなりの緊張感と神経質な様が見て取れましたが、周りが彼女の人格とキャリアを否定しているなどの発言は、ちょっと尋常ではありません。

皇太子も感情を抑えつつ、原稿に目を落としながら慎重に言葉を選んでいましたが、ある種の憤りを抑えた口元の引きつりは隠しようがありませんでした。

彼らをそこまで追い詰めるものって何なのでしょう。誰が雅子様の人格とキャリアを否定するわけでしょう。伏魔殿があるのですかね、あの業界にも。食う心配は何もなく、皇室スマイルやっていればいいと私ら庶民は愚考するわけですが、大変なんでしょうね。多分。

一方、こちら側でも、牧師たちも「センセイ」と呼ばれて、献金で食えていいなあ思っていたら、けっこうエライしんどい世界のようですよ。私はパウロ・スタイルで行きます。あえて権利を行使せず、天幕を作り続けます。

コワイですよ、献金を当てにするのは。私が自由に物を言えるのも、ココをニッポンキリスト教界に渡していないからです。「手づから食い扶持を得よ。働かざる者、食うべからず」、と明確に書いてあるのですが。

菅さん、逝く

ついに、ですね。こんなことで・・・と悔しいでしょう。これで政治家としてもほぼ終わり。彼は結局チャレンジャー・メンタリティーから脱皮できなかったのです。小泉さんに「残念だったでしょうね。政権を取りたかったでしょうから・・・」と言われてしまいました。

ニッポンキリスト教も1%メンタリティで、この世での受けを気にしているようでは、足をすくわれます。

「未納三兄弟」はともかくとして、せめてタレントの江角さんを国会喚問せよ、だけは何とか避けられなかったのか。辻元さんといい、菅さんと言い、自滅しています。

野党には踏ん張ってもらわないと、なんですが。自民のS.Kさんとか、悪は一杯いるんですが。

これもWinny作者の逮捕と同じような。どうも「やられ所」がある感じです。私などもよく些細な違反で切符を切られるのですが(ム!)。

Winnyの作者東大助手逮捕

P2P接続の画期的通信ソフトWinnyの作者が著作権侵害幇助罪で逮捕された。使用者が違法にソフトを流通させての逮捕ならば理解できるが、ソフト自体の作者が逮捕とは、ちょっとこわい。京都府警はこのソフトで内部資料が流出しており、そんな因縁もあった模様。

前にも画像処理ソフトの作者が違法画像の流布を幇助したとして逮捕された事件があったが、これも割り切れないものを感じた。

このWinnyによって相当規模の被害が出ていることは確かのようである。が、作者はその幇助になるのか?2CHのカキコに現行の法律に穴を開ける的な挑発的発言をしていたらしいが、もしこれが証拠として彼が有罪となれば、私がある種の人々の健康を害しようと意図して、おいしいカロリーたっぷりのケーキを発明して販売し、それに誘惑されてたらふく食べた人が肥満になって心臓病で死んだら、わたしは殺人罪、あるいは自殺幇助になるのだろうか?

どうも税金や年金と同じで、当局は取り易いところ、あるいは検挙し易いところを狙い撃ちしている感じもする。もっと凶悪な社会に脅威を与える犯罪者がうろうろしているでしょうに。何しろ刑事事件の検挙率は25%でしょう。4人の犯罪者のうち、3人は逃げおおせているのです。東大助手などというか弱い人を捕まえる前に、この3人を何とかしてほしいと思うのですが。

老後の保証

年金問題で菅さんもついに降板のようです。小沢さんが立つかどうか、私は前から一度彼に総理をして欲しいと思っています。

なかなか一本気で、自分の主義主張を譲りませんから、それなりに整合性のある政治を期待できると思っています。民主党と結んだことは少々意外で残念でしたが、彼の一途さが人々を敬して遠ざけさせてしまうようです。

人徳がないと言えばそれまでですが、ニッポン型でないのかも知れません。私なども相当に人徳はありませんから。

かくして年金はあまり当てにならないと思えるようになりました。老後はどうしましょう。主は言われます:

「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

御言葉を取るか、年金制度に頼るか、私たちの老後はここにかかっています。

見えるところによらず、真理によって、御言葉に頼って生きること。老後の保証はここにあります。

未納大家族と虐待軍隊

いよいよ泥沼です。菅さんがやめれば、次は政府の未納議員がやめざるを得なくなり、この繰り返し。実は私と家内も未納状況を確認することにしました(多分ないはずなのですが、自信がなくなりました)。今は私学共済に入っているのですが、昔は国民年金+国民年金基金の時代もあったからです。それにしてもこんなことで応酬合戦を繰り広げていたら、本質的な論点は棚上げです。私たちの時代には年金はやはりナシなのでしょうか?

アメリカでもラムズフェルド氏が辞任しないとか、がんばっているようです。ブッシュも民主主義も完全ではなく、今回の件はアメリカ全体の意志ではないとのこと。苦しいですね。すでに大義はない上に、フセインと同じことを繰り返したわけです。国内は経済も上向いているようですが。

両国の状況は何かシンクロしている感じです。どうもこの世の君がある波紋を起こすのには、一定のリズムと言うか、波があるようです。いずれにしろ、正当な権威が崩されていきます。この世の君の策は、この世あるいは家庭あるいは教会における権威の流れをズタズタにすることです(権威主義を主張しているのではありません)。

なお、田中氏の新しいレポートをまたリンクしておきます:

「ブッシュ再選のために食い止められたイラク総攻撃」
 http://tanakanews.com/e0508iraq.htm

アメリカの正体

が見えてしまいました。もちろんアメリカ全体ではありませんが(多くの人は善良で、ある意味でナイーヴです)、やはり彼らは白人なのです。

彼らの優越感はニッポンに対する要求を見ても明らか。イラクの債務帳消し、復興援助に1500億でしたか、さらに国連では常任理事国でもないのに、アメリカに次いで財政援助しています。ニッポンとアメリカ。この腐れ縁。貢ぐ女に貢がせる男。

せめて信仰の世界では自立して欲しいのですが、現実は逆。アメリカ発の霊の風が次々に流れ込んでいます。だから「ニッポンキリスト教」と自嘲気味な表現も真実味を帯びてしまうわけです。

注:BBSにも書きましたが、「ニッポンキリスト教」はDr.ルークのオリジナルではありません。鹿島春平太氏の用語です。

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福田氏はさすがに老獪ですね。菅さんはどうするのでしょう。原則はこうです:失うまいとすれば失い、失えば得る。

「霊と魂」再考

私が「パッション」騒動に感じる違和感は、映画がリアルに良くできているできていない、ではなく、結局のところ、霊と魂の次元を混同していることにある。

はっきりと言うが、どんなによくできていようといまいと、それは魂の次元のものに過ぎない。その感動は単なる魂と神経系の興奮に過ぎない。「パッション」と「キャシャーン」とどこが違うのか。もし「違う」という人があれば、すでにフェイクとリアリティの混同に落ちている。このようなものをたいそうに扱う人々の内面性がコワイ。オタクである。しかしリアリティはどこにあるのか?霊の次元である。

19世紀から20世紀初頭にかけて、ジェシー・ペン・ルイスやオースティン・スパークスらが警鐘を鳴らしていた:「今後の教会は魂の力による魂の次元での現象を追求するようになるだろう」と。彼らの予言は的中している。一方で「パッション」や世に媚びる砂糖まぶしの「福音」、一方で金歯金粉の追求。

御言葉は霊と魂を切り分ける。それには痛みが伴う。十字架は私たちの霊と魂の間に切り込むのであり、この分離によってのみ、私たちは霊的リアリティとタッチすることができる。

「思い(Mind)」をくらますことが終わりの時代の敵の策略である。これは信者・未信者を問わない。次のように書いてあるとおりである:

2cor: 4:4
そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

2cor:11:3
しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

続「パッション」考

Salt氏がご覧になって、次のように評している:
http://app.memorize.ne.jp/diary/24/57910/

かなりの酷評であり、ある種の人々は彼には霊的感受性がないと言われるやも知れない。しかし私は実はホッとしている。

私が恐れていたのは、本当は血と肉が飛び散ることではなく、"私の主"をそこに見ることに耐えられないことだったのだ。私は私を救ってくださった主がそのような目に会うことを正視できない。もし「パッション」の"イエス"に私のイエスが投影されるならば、私の情緒は多分耐え切れない。これが怖かった。BBSを見ていても、「感情移入できずに違和感が残った」と言う評もあり、再度安心した。

私のイエスはすでに苦難を経てくださり、しかも私はその場面を目撃しないですんだ。「見ずに信じる者は幸いである」と主は言って下さった。今私たちに問われるのは、「私の十字架を負うこと」であり、これこそがまことのイエスの霊的リアリティへと導く。

なぜこのような映画でクリスチャンたちが騒ぐのか、ますます不思議である。このような映画が伝道に用いられると考えているのだろうか。浅薄である。あなたの、そして私の主はどこにいるのか。そして福音の本質とは何か。まあ、このような問題提起をする機会となったことは益であるかもしれない。

谷間の世代

連休も終わってしまいました。あっという間でしたね。さて明日からまた月月火水木金金です。

テレビで芸能人のドキュメンタリーをやっていました。中でも加藤登紀子の人生がよかったですね。東大出の女は不幸になるということから歌手になったとか。いえいえ、最近の東大の女子学生は菊川怜を筆頭に、みな才色兼備です。私の頃はちょっと恋愛対象とは思いませんでしたが、可愛い子もいました。

学生運動家との恋、妊娠、相手の投獄、そして獄中結婚と。出所後のささやかな幸せもつかのま、有名妻を持つ夫の悩みによる確執から別居。そして夫の癌での死亡と。60年代を象徴する哲学的な人生です。

私は東大紛争当時は小6でして、テレビで安田講堂の攻防戦を見ていました。当時は自分が東大に入るなどはまったく考えてもいませんでした。ただあの60年代の匂いは実は好きなのです。ジョーン・バエズに象徴される反戦フォークに、機動隊。歌謡曲では「ブルーライト横浜」。

私たちの時代は上は団塊の世代、下は新人類に挟まれた「谷間の世代」と言われて、何も取り得のない世代。社会に何か主張したこともなければ、働きかけたこともない。ややシラケの入った屈折した部分を持っている世代なのです。

この傾向はクリスチャンになってもあまり変わらず、いつもいいますが、裸一貫から苦節云十年、伝道に命をかけるといったことがダメなんですね。MSGに燃えると忘れるのですが、いつもはどこか白けている部分があり、物事を斜めに見ている部分があるのです。

Salt氏がいみじくも告白しておられましたが、このひねくれた自分が主イエスに対しては素直になれる、主はすばらしいと。私なども主に出会わなかったら、きっと発狂していたでしょうね。生きることのナンセンスさに。

最近、ようやく生きることをいとおしく感じることが出来るようになって来ました。

Dr.ルークの一言映画評−キャシャーン−

家内と実写版「新造人間キャシャーン」を観て来ました^^。隣は「パッション」でしたが。

宇多田ヒカルのご主人の紀里谷氏の作品であるが、ハリウッドの1/10の予算と秋葉原のパーツ屋で集めた自作PCで作ったCGにしては、かなり良い出来。

テーマは愛と憎しみと赦しと復活の希望と!?どっかと似ています。善とは何か、悪とは・・・?イラク戦も重なっており、血もたくさん出ていましたが、絵の具ですから安心でした。

唐沢寿明が悲しき運命の悪の親玉でしたが、どうしても財前教授に見えてしまい、その上あの弁護士のミッチーもいて、なにやら「白い巨塔」を引きずりました。唐沢氏は田村正和と同じで、何やっても同じかも(要するにダイコン)。

私は、映画はとにかく単純にカタルシスができるものがいいです。ハイ。

主の十字架と自分の十字架

ニッポンの病理のコワイところは、「一色」になることである。チャーチスクールが流行ると、われもわれも、と。「パッション」がいいとなると、また同じ。

木村敏という精神病理学者は、分裂病の原因は人と人の「間の病理」であると、言っている。つまり距離感を喪失している。分裂病の方は、あるいは心を病んでいる人は、たいていここに問題を抱えている。昨日書いたように、ベッタリ(陽転移)とその裏返しの恨み(陰転移)との間を揺れ動く。

ニッポンはすでに分裂病であると言ってきたが、ニッポンキリスト教も同じ。はっきり言うが、病んでいる。その距離感の喪失は実は希薄なアイデンティティによる。だからニッポンキリスト教徒は、映画などのメディアで世の中に取り入れられると喜ぶわけであるが、実は世との距離がすでに取れていない。

チャーチスクールやパッション現象を見ていると、ますます私の診立てが正しいことを確信するが、そこから出る予後予測(これはまだ公表していない。多分受けられることはないだろう)にも蓋然性が高くなる。

ただこういう言い方はしておこう。現在はリバイバルどころではなく、純粋な信仰のサバイバルの時代である。そして真理を語ることが、例えばフランスなどのように、むしろカルトとして排斥され、世に媚びるお体裁の「福音」がもてはやされることであろう。

パッションを観て"感動した"人にはこう言いたい:

主がそこまでして勝ち取ってくださったものをあなたは自分の十字架を負って守ることができるか?

映画「パッション」を観ざる者は

クリスチャンにあらず、といった雰囲気があるようです。○○クラブではチラシを100万枚配ったとか・・・。やれやれ。クリスチャンメディアが喜ぶ話題づくりは上手です。

どうしてこうも毎回毎回、前の駄作「親分はイエス様」だって、これでニッポンを感動の渦に巻き込み、リバイバルだあ〜と。実際はあまった前売り券を押し付けられたりで、惨憺たる状況だったでしょうに。映画にリバイバルを期待するのはあまりにも・・・ですね。

私は前から言っています。所詮フェイクです。真理そのものではありません。私は血はダメですので、できればご遠慮申し上げたいのですが、非天国民にされそうな・・・汗

追記:しかしインパクトがあることは事実のようだ:
http://www.passionforum.jp/news.html

観た人たちの感想コーナー:
http://www.passionforum.jp/forum/posting.php?mode=reply&t=7

カッコーの巣の上で

どうも昨日あたりからサーヴァが不安定です。接続できたり、できなかったり。原因を解明中です。

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私も意図せざる形でニッポンキリスト教と関わりを持ち、まあ、いろいろなことを見聞きしてきましたが、やはりあまり深入りはしたくない、というのがますますの本音です(笑)。当たり前が当たり前でない閉鎖社会。黒が白で、白が黒の世界。自分ことが自分でできない人が多過ぎます。そして牧師にベッタリで、期待が外れると、今度は一転恨みに変わります。

むしろ、「健康な者には医者は要らない」とばかりに、病んでいることが当たり前になっています。私のところには電話やFAX,メールなどでいろいろな相談が寄せられるのですが、正直言って奇奇怪怪。チャーチスクール・スレでも分かるとおり、エキセントリックな状況です。リバイバルどころではありません、サバイバルの世界です。

私は普通のオジサンとして主と共に人生を愉しんでいたいのですね。この業界に足を取られたら、とてもではありませんが、ジャック・ニコルソンの「カッコーの巣の上で」の世界になってしまいます(御存知ですか?)。

寅さんの名言:「オレが芋食ったら、テメエの尻から○が出るかあ〜?」。自己責任の原則を全うしてほしいものです。

久しぶりに休みが取れましたが・・・汗

一日ずっと家の中でボーっとしていました。疲れを抜くには精神をアイドリング(意識的受動性)するのが一番。お風呂に入って、缶ビール(小)を飲んだところです。(聖書にはお酒を飲んではいけないとはありませんよ。放蕩があるから、酔ってはいけないとあります。)

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Dr.ルークもついにネット上でカルトの教祖となりました^ ^。カルト告発のすざまじいHPがあるのですが、そこで私から恐ろしいマインドコントロール(MC)を受け、呪いの預言を受け、鬱病となったと告発されています(表向きは匿名ですが)。かつて私のところにいた頃、ICFと言うところでご自分で発言して問題を起こした時は、私からのMCを受けており、正常ではなかったと書いておられます。やれやれ。

この方は前に未成年者との不適切な男女関係をめぐり、私との間でトラブルとなり、除名処分をせざるを得なかった方ですが、私に対する憎悪と怒りの思いの丈を書いておられます。同時に私に悔い改めを求めているのですね。

正直申しますと、このような感情を向けられるのは、さすがの私もあまり気持ちのいいものではありません。最後の決断をするときにも何度かメールのやり取りをし、接点を探しましたが、残念ながら平行線となってしまいました。同時に彼の言葉に従って何人かの若い兄弟姉妹が離れていきました。ご自分たちで集会を始められたようですが、そこに主の臨在と恵みがあることを祈ります。