最近の日記

新しいモノは・・・

私は今こうやってWWWサーバやメールサーバを自分のPC(これも自作です)内に設定したり、HPも自分で作ったり、また大学ではJAVAを教えたりもしているのですが、実は新しいモノにはカナリ抵抗感を覚えるのです。

95年にWindowsが出たとき、PCを持ってないオジサンまでもが大晦日の騒ぎのような盛り上がりムードにおされてWindowsを買い込むという笑い話があったほどですが、私はと言えば、実に冷ややかに観ていました。それまで8ビットのマイコン時代から来ている私は、真っ黒な画面のMS-DOSにファイラーのFDですべてをこなしていたので、それで別に不便はなかったわけです。

CP/Mの64KB(!)のメモリ空間をすべて把握しつつ、Biosのシステムコールを駆使しながらZ80のアッセンブラでプログラムを書いていた私たちは、Windowsのような人が仕掛けた環境の中で、人の組み立てたプログラムに"使われる"のが嫌で、約1年半時代の波に逆らっていたわけです。しかしついにインターネットをするにはMS-DOSでは駄目でして、97年にようやくWindowsを導入しました。

インターネットの前はパソコン通信というのがありまして、今のNiftyやNECのPC-VANなどでごくちんまりとメールなどの交換をしていたわけです。思えば85年ごろでしたか、エプソンがパソコン通信の実験を始めるというわけで、それに参加したのですが、300ボーの音声モデム、それも受話器をグサッと差し込むヤツで(知ってている人はかなりのオタク!)、トロトロと実験していたわけです(これが周りで音を立てるとただちに文字化けという代物なんですね)。それでも画面に文字列がゾロゾロ出てきただけで感動したものでした。

さて、そういうわけで何だかマイクロソフトに屈服させられたような感じでWindowsとの付き合いが始まったわけです。MS-DOSですと自分が入れたソフトのファイルを確認しながら使えるのですが、Windowsは中が見えない。これがエラク不安なんですね。そこで今でもWindows版FDを用いて、窓にアナを空けて中のファイルを見ながら使っている次第。

メモリもCP/Mの64キロバイトからMS-DOSの640KBになり、さらに仮想メモリ空間などを駆使して1Mもあれば十分だったのが、今や1G!HDDに至っては120Gそこらは当たり前。ビル・ゲイツですら80年代にはMS-DOSの640KBで十分だと預言していたくらい。この技術の発達はまったくおそろしいほど。かくしてPCがすべてネットでつながり、それぞれのリソースを共有できるようになったわけですが、ハッカーやウイルスの蔓延で防備も必要となったわけです。ケータイも絶対持つまいと思っていたのが必要に迫られてついに持つ羽目になり・・・と(しかし実はこれが使いこなせない)。いやはや、時代の流れについていくのは汗をかきかきです。

で、長々前説を振った後、何を言いたいのかと言えば、私もようやくデジカメ(しかも中古)を買ったのですね(何だよ、それだけ、という声が聞こえます・・・汗)。それまではCanonの1眼レフEOS-Kissで撮り、それをスキャナーで読んでいたわけで、それも二度手間でばからしいと思い至り、新品はやめて2年前の中古品をようやく買いました。

手始めにわが家のルーフバルコニーから冬は富士山がきれいに見えるので撮ってみました(ちょっと送電線がうるさいですが)。観てやって下さいませませ。

http://www.kingdomfellowship.com/Announce/Fuji.html

デジカメはどうもシャッターが下りるのが遅いような・・・いや、最新機種はもっといいのかな?

「正しさ」とは?―霊と魂の分離―

▼クリスチャン系のBBSを見ていますと、いやはや、ニッポンキリスト教徒は議論好きですね。互いに口角泡を飛ばして譲らず・・・。疲れるでしょうに。

▼そもそも自分の主張の正しさを論理の正しさによって訴えることが自体が問題なんですね。ゲーデルの「不完全性の定理」というのがありまして、論理の限界が明らかにされているのです。どうも神学者やモドキの人にはもうちょっと勉強していただく必要があるようです。

▼結局これらの主張の中心にあるのは、どちらの側にせよ、「自己」なのです。この「自己」を否定されることは決して認めることができないわけでして、これはアイデンティティに関わるからなんですね。自分の正しさを主張して譲らないのは、エデンの園で「善悪を知る知識の木」の実を食べて、霊の死によって真のアイデンティティを喪失したがために、魂の肥大化を起こし、そこに「自己」を置いている人々の悲しい性です。

▼BBSにも書きましたが、私はいわゆる聖書的整合性のある理屈は好みません。それが一部の隙もないかのように理路整然と組み立てられていればいるほどに、実はその霊的内実の空虚さを露呈するからです。啓示は矛盾だらけです。例えば、「3パースンズにしてひとりの神」など。

▼実存を知性に投影する時には必ず矛盾が生じるのですが、禅ではこれを嫌います。直接経験を大切にするわけです。禅的哲学者の西田幾多郎は理性を超えた実存の純粋経験を「多即一の絶対矛盾的自己同一」の経験であると言い、鈴木大拙は「AがAであり、同時にAでない」という「即非の論理」を提唱した。物理的実在である電子ですら、知性に投影すると、粒子であり波でもあるという矛盾した像を見せるが、人間の知性に対する神の挑戦でもあるように感じる。「わたしの創造、さらには創造主であるわたし自身があなたのその小さなオツムに入りきるかな?」と。

▼どうもニッポンキリスト教徒は頭は(中途半端に)でっかく、霊がまことに小さくかつ弱いようである。

 
 >神は霊であるから、霊と実際によって礼拝せよ(ヨハネ書)

 >人は知性によって神を認めるに至らなかった(ロマ書)

オジサン・ロッカー

森本さんの番組で、40,50台のオジサンの間で、60,70年代のロックを演奏するバンドが流行っているとやっていた。いいオジサンがエレキとドラムと汗まみれでシャウトしている様は、ある種の寂しさを覚えると同時に、ほほえましくも、ついエールを送りたくなった。

奥さんに24万円のベースをねだると、見事に却下されて撃沈されるオジサンは何ともほほえましい。昔の写真を披露しながらのコンサート風景はけっこういけてましたね。髪をボサボサにしてた大学生時代にかなえられなかった夢をかなえるオジサンたち、ぜひガムバッテ!

思えば小生もイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」にはまっていた時代もあります。95,6年頃にはよくLAに行ったのですが、この歌のモデルになったホテルがビバリーヒルズにあるのですね。見て感激したものです。今車の中でもよくかけるものですから、子供達がけっこうはまっています。

きのうも書きましたが、最近CMでメリー・ホプキンの「悲しき天使」やドラマで「Let My Name Be Sorrow」が使われていて驚いている次第です。プロデゥーサーがわれわれの世代なんでしょう。いや〜、思えば遠くへ来たもんだ。何しろ長女は来年成人式です。う〜ん、私も立派なオジサンですよね^^

  *  *  *  *

いよいよ回線がジャムってレスポンスが悪くなっていますね。今チャペルの回線を40M-ADSLに変えています。PCも高性能のものを入れて、サーバを立てますので、しばらくの御不自由を御寛恕のほどをお願いいたします。

ヤクザが来たりてイラク国民を解放した!?

イラク戦についてはクリスチャンの間でもケンケンガクガク。最近ケン・ジョセフとかいう御仁がよくTVでも出ており、アメリカは確かに国連決議によらず、独走したが、イラク国民が爆撃によってフセインの圧制から解放されることを喜んでいるので、以前はイラク戦反対であったが、自分は間違っていたとか語っているようです。

ある人に言わせると、フセインの横暴を警察(国連)に訴えたが取り合ってくれずにいたところ、ヤクザ(アメリカ)が介入してくれて、フセインの圧制から解き放ったようなものであるとのこと。やれやれ。

この人たちのこのような「信仰」は正直言ってコワイ。彼らは「御心が天になるとおり地にもなりますように」という主の祈りをどのように祈るのであろう。神の統治は愛であり、同時に義である。ヤクザによって解放されたイラク国民はこれから真の苦しみを経ることであろう。

面白いのはディスペンセイション主義のプレミレ的終末論(レフトビハインド系)を取る人は聖書の預言どおり世界は混沌の度合いを増しており、携挙と再臨が近い兆候だからむしろこのような事態は歓迎されるし、ポストミレの再建主義者によれば神の統治権を犯すものであり、よって断固糾弾すべしとなる。同じ聖書に立って正反対の評価が出ることはきわめて興味深い。

私はと言えば、プレミレであるが、前艱難期携挙は取っていないし、再建主義ではないが神の統治権をアメリカは犯していると前から言ってきた。アメリカは神に委ねられた権威の一線を越えている。よって神の裁きはあるだろう。神は人類の罪を結果として用いることはあっても、ブッシュはイスラエルの利益のため、また預言成就のために神が格別に建てたすばらしい神の器であるなどは、ほとんどカルト思考パタンである。

イラク戦が開始の際にも書いたが、主は何と言っているか、

 剣を取るものは剣によって滅びる

ブッシュよ、神の公義による裁きは貴殿の上にある。ネオコンに支配されたアメリカの命運は明らかである。

参考:イラク戦開戦に当たって→http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Articles/Iraq_War.html
神の御計画と陰謀論→http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing32.html

青い鳥はどこに?

家内と本牧のマイカルで映画を観て来た。題して『ミッシェル・バリヨン』。レーサーの家族を描くサスペンス調フランス映画である。フランス映画はフェデリコ・フェリーニ の『道』などのように淡々とした場面展開が特徴である。『道』は高校時代に見て、その白黒の場面の世界に何とも言えない感覚を覚えたものだ。黒澤の『羅生門』にも通じるかな?これでもか、これどもかというハリウッドに比べてカゲキなストーリー展開や場面があまりなく、平板に話が進む。しかし一応最後にはカタルシスを得られる仕掛けにはなっていた。

さて、さて、日本人にとっては外国はアメリカであり、この世も教界もアメリカへ外遊してくると箔がつくわけ。メディアもひたすらアメリカの流行のおっかけ。何とも自分の浅薄さを証明しているだけである。私はアメリカとはニール・アンダーソンと少し関わりがあるが、他はまったくコネはない。前にも書いたが、アメリカの"油注がれた器"たちから按手だ預言だを受けたと騒いでいる人たちは、どうも理解しがたい。

私はもっぱら英国であり、ヨーロッパである。それもルーツは19世紀にある。フランスのガイオン夫人、オランダのアンドリュー・マーレー、ウイリアム・ロウ、英国のJ.N.ダービー、オースティン・スパークスなどなど。現代でも例えばスウェーデンにはウルフ・エクマンというパワフルな器がいるが、日本ではほとんど知られていない。彼は台湾ではカンファレンスを開いているのであるが。

英国はまあビートルズはともかくとして、最近では映画や音楽などもあまり日本では流行らない。(そういえば、きょう何とかいうTV番組のBGMにメリー・ホプキンの"Let My Name Be Sorrow"が使われていて驚いたが。)アメリカの神学校で箔をつけたお人は、そのことによらず、ぜひ自らの霊性を深めていただきたい。<アメリカで学んできたヒト=すごいヒト>−この刷り込みによるこのような権威付けのパタンからそろそろ卒業しませんかね。

かくしてニッポンキリスト教はどうもアメリカ発のやばい目の器の御託宣をいただき、彼らのオッカケと化し、自らの足元を忘れている。あるいはキムチパワーの韓国系のカゲキな人たちに散々に消耗させられている感じ(ある人は文字通り命まで危なかったケースがある)。もっと落ち着いた霊性のあり方を深め、内なるキリストに焦点をおいて、淡々と、しかし着実な歩みをしませんか?フランス映画のように。チルチルミチルの青い鳥はどこにいましたか?私たちの内にいます方、キリスト・イエス−栄光の望みです。リバイバルとはこの方を見出し、この方に生きていただくことに他なりません。

武士道−サムライとは−

トム・クルーズの映画の影響で、新渡戸稲造の『武士道』が売れているそうだ−

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040115-00000002-mai-l03

私が武士道に惹かれるのはその精神性あるいは霊性のため。かつて禅に入れ込んでいた私は鈴木大拙の『禅と精神分析』との出会いを通して、柳生但馬の『活人剣』などによって剣に惹かれた。

サムライとは「さぶろう」が語源。すなわち「傍にいて仕える者」の意味。自分の命を賭して主(あるじ)に仕える。私は昨今のSMAPよろしく「あなたは神のVIP、なたはオンリーワン。ただひとつの花を咲かせましょう」的な浅薄な「福音」にはウンザリ。福音とSMAPの違いはどこになるのか!?

自己を失うか否か、これが鍵である。ドイツの実存主義哲学者のオリゲン・ヘリゲルの『弓と禅』などを読めば、実は福音に共通する霊性に触れることができる。自己を忘れた世界。自己から離れた世界。人の心に対する洞察と処方は東洋の方がはるかに優れている。柳生但馬は言っている、「およそ心の病とは心が滞ることなり」と。囚われである。

禅も剣も求めるところは同じ。「流れる心」である。「心は万境に従って転ずるところ実に良く幽なり」心がさらさらと流れる時、それは注意が自己から離れたまことの自由の世界。これが囚われない心。霊的ないのちの違いは別として、禅者もキリスト者も魂のいのちの経験は同じ。達人の境地である。しかし鈴木大拙は「わしはイエスが覚者であるとわかるが、聖霊だけはわからん」と言った。ここが両者を分ける分水嶺である。

これ以上の詳細はトピックの

「信仰と精神分析」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/faith_psychoanalysis.html

および

「意識の取り扱い方について」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/consciouness.html

をお読みいただきたい。

これからの日本のリバイバルの鍵は、主のサムライが出ることであり、これは少数でよろしい。ギデオンの場合もエリヤの場合も、残された者たちによって神は御業をなされる。人受けする「VIP福音」はヒューマニズムにすぎない。神は「私のためにいのちを捨てる覚悟があるのか」と問うている。

 「ご覚悟はできていますかの、おのおの方。」

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『白い巨塔』がけっこう面白くなってきた。唐沢財前の顔がどんどんケンが立って、悪くなってきているのがいい。設定も以前のものより現代的にヒネリを効かせてあり、別の作品として見ることができる。

ホッと一息

今日で大学の講義は終わり、補講期間を経て試験、そして冬休みとなる。一応ホッとしている次第。ちなみに私たちの1年は3ヶ月単位で回るのですね。前期、夏休み、後期、冬休みと言う感じです。このリズムにけっこうなじんでいますので、いわゆるサラリーマンのベターとした勤務形態にはとても耐えられません。

外見はともかく、気分的にはいまだに学生気分でいられるのもこのためでしょう。ちなみに私は教会のMSG、バイブルカレッジや大学の講義もほとんどGパンでやっております(てゆうか、ジーンズ系しか持っていない!)。ジャケット(or背広)やネクタイは肩が凝るし、自分らしくなくなるので苦手ですね。家ではもっぱら禅の坊さんよろしく作務衣です。朝起きてバルコニーで裸で乾布摩擦して作務衣を着るとシャキっとするわけ。

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さて、さて、休み中にすること:現在私のPCの中にサーヴァを立ててあり、このWEBはその中から発信していますが、ISDN回線のためジャムるとレスポンスの低下が著しくなってきました。夏にはアメリカの準専用サーヴァを借りたのですが、容量が250Mであっという間にパンクしました。

そこでPCをひとつ新調し(今のは4年前ので、アシュロン1Gですから少々つらい)、チャペルの回線を常接ADSLとして、そのPCにサーヴァを立てます。少しはジャムが解消するでしょう。メールサーヴァも立てれば、kingdomfellowship.comドメインのメアドも発行できます。(ちなみにこのドメインは前に誰かが持っていたのですが、祈ったところ、その人(会社)が放棄して、手に入ったものです。)

で、昨日のチャレンジ項目をどれだけつぶせるか・・・。

レッツ・チャレンジ!

▼う〜ン、ノドがいがらっぽくてどうも風邪か?ついでに胃に来るようで、胃が重苦しい。フルではないと思うが。

▼CDは今英国と交渉しておりますが、向こうでもあまり数を用意していないらしく、値段も若干高めの設定になっています。しかし日本からの注文ということで、格別に計らってくれるようですので、少々お待ちくださいませ。

▼私は1日のうちPCの前で過ごす時間が長いのですが、家の書斎と大学の居室の二箇所にPCがあるわけです。これまでデータをメールで送ったり、FTPサーヴァを立てて、ファイルを交換したりしていたのですが、今回XPのリモートディスクトップを使ってみることにしました。要するに自宅のPCに大学のPCからアクセスして、自宅のPCを大学のPCで操作できるわけです。自宅と大学をシームレスにできるわけです。(しかし70年代後半、4ビット、8ビットのマイコン時代から比べると隔絶の感がありますね)。

▼これも自宅にサーヴァを立てているのでできるのですが、一応使えました。が、何分レスポンスが悪い。回線が細いためですね。最近はこのHPもアクセス数が多くなり、ジャムるとめっきりレスポンスが悪くなり、皆様には御迷惑をかけております。レンタルのサーヴァで容量がGレベルで、回線も太いのですと、専用サーヴァになり結構値が張るのですね(数万/月)。しばらくはチャペルの回線をADSLにして、サーヴァ専用のPCを置きましょうか・・・。

▼これからチャレンジしたいこと。VHSビデオのDVD化。カレッジのレクチャーのデジタル化。セレブレーションのビデオ配信。カレッジのオンライン指導。KFC出版部の設立。チャペルのIT化によるリソースの共有化と事務処理のシステム化。2,3月には少しは着手できるか?

More Than Enoughの発売

を前向きに検討します。少々値段設定が高めになると思いますが。

バラード系、スウィング・ジャズ系、ポップ系と多彩なアレンジです。

ヒルソングと比べても遜色ないと思いますよ。

KFCの立場

前に私どもは聖霊派とは何らの関わりがないと書きました。といって、福音派とも、正統派とも関わりがありませんが。

私のスタートはこれらの既成の「派」とはまったく離れた教会なんですね。ウォッチマン・ニーの流れの教会でしたが(少々問題ありとされています)、89年にそこをよくあるゴタゴタで出たわけです(向こうは除名したようですが)。

そして英国のKFMと関わったのが90年ですから、すでに14年です。コリンは元々聖公会の地区牧師でして、彼は70年代に聖霊のバプテスマを受け、ウォッチマン・ニーの書物で霊的な目が開かれ、独立したわけですが、当時彼はいわゆるペンテ・カリスマは何も知らなかったわけです。

というわけで、私もペンテコステ・カリスマ・第三の波とは何らの接点もなかったわけで、今もありません。私の書き物やMSG、さらに聖霊理解や預言などの賜物の取り扱いは聖霊派とは異なります。もちろん個人レベルでは兄弟姉妹として交わりがありますが、運動や組織などとは明確に一線を引いています。特にアメリカ系の「油注がれた器」たちにはある意味で警戒しております。

私の聖霊理解の原点はアンドリュー・マーレーの『キリストの御霊』であり、霊的経験は「聖霊様経験」ではなく、イエスとの関わりにあっての「キリスト経験」です。ニーの『キリスト者の標準』あるいは"The Spiritual Man"の影響が大きいですね。預言の理解と経験はニーや彼と交流のあった英国のAustin Sparksによります(日本ではごく一部の人しか知りません)。ニーも英国(ブラザレンなど)との関係が深いですが、私も同じです。

そこで私は日本のいわゆる聖霊派の礼拝がどんなものかごく一部しか知りませんが、どうも私たちのセレブレーションはいわゆるカリスマ派よりも、なおcharismaticであるようです。今回、少しだけ祈りや賛美のさわりだけ御紹介しますが、かなりにぎやかです。

私たちは私たちに対するアノインティング(油塗り)に従っていくだけです。主はヨハネの運命を気にするペテロに「あなたとは関わりがない、あなたはわたしに従え」と言われました。私たちも○○派や○○運動に従うのではなく、私たちに対するユニークな主のアノインティングに服し、従うのみです。

BGMはいかがですか?

バイブル・カレッジが始まりました。今回のは実践編です。ただしレジメなどは著作権の関係で公開できません。

BGMはいかがでしょうか?アレンジが洒落ているでしょう。これは英国KFMの別のアルバム"More Than Enough"に収録されているのですが、この他にもこんな感じのアレンジの曲が何曲もあります。あとYouth向けCD、さらにDVDビデオもあるのですが、日本で販売するかどうか、今検討しています。

原始に帰れ!

これまでのカレッジのレクチャーをすべてテープからデジタル化しようと試みているが、2時間のレクチャーでは1.4Gを超えるため、CD2枚になってしまう。

よって1コース当たり24枚のCDであり、これではカセットテープよりも大変だ。DVD-AUDIOもそろそろ普及してくれれば、1枚に4.7Gかその倍入るので、けっこう行けるかも・・・。

いずれ地方で通学できない方のために、ネットでオンラインのレクチャーコースを設けたいと考えてます。さらにはオンデマンド・ビデオ・コースも行きたいですね。質問やレポートもネットで対応できればと思っています。

しかし実は、けっこうこういったものは原始的なメディアが便利なのですね。昔パソコンが普及すれば紙は不要になると言われていましたが、かえってノウハウ本やマニュアル類があふれています。紙は永遠です!

私などは大学や予備校ではいまだにチョークの粉にまみれて講義していますが、チョークのルーツははるか昔紀元前のエジプトにあるそうです。チョークは炭酸カルシウムですから、私たちはカルシウム不足になることはありませんが(笑)。

教育も同じなのですね。「ゆとり教育」で日本の教育レベルは北朝鮮に負けるが(あの超人的な幼児たちはスゴイ!)、実は昔ながらの暗記とソロバンと書道が大切なのです。論語の暗記や、写経などの機械的な作業を繰り返すこと、手を使い、口で語ること、これが教育の原点なのです。「総合学習」とかわけの分からない机上の空論で日本は下手をすると白痴化の一歩手前にありますよ。信仰も同じ。変な預言を受けるより、キリストのことばを内に豊かに住まわせなさいって(コロサイ3:16)。

なにしろ、「マルクス・エンゲルス」をひとりの人の名前と思っていたり、1/2+1/3=2/5とか、sinθ/cosθ=in/co(※)とする大学生がいますからね(汗)

※正解はtanθですが、彼は分母と分子のsとθを"約分"しちゃったわけ!

久しぶりに

「ちょっとディープなトピック」の更新をしました。実はキャラクターもまだ未完ですし、いろいろ書きたい記事があるのですが、ここ2年ほどメッセージとカレッジで追われており、何となく時間がない次第。2,3月は少し余裕ができますので、更新に努めたいと思います。

長女が車の教習で高速実習をしてきたそうです。ハンドルを握るのに力が入り、かえって車がフラフラしたが、力を抜き軽く手を添えるコツをつかんだら、車は自然と真っ直ぐに走って楽だったと言っております。クリスチャン生活も同じなのですね。記事にも書きましたが、力を抜き、いのちの法則に任せれば律法は自然と満たされているのです。

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CDはいのちのことば社流通センターから流してもらえることになり、全国のキリスト教書店で発売されます。昨年は通販のみでしたが、けっこう売れて、在庫はそろそろ切れ掛かっています。こちらもまた注文して書店に流しましょうか。お楽しみに。

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【お詫び】
本日10時ごろからサーヴァが落ちていたようです。cgiプログラムがフリーズしていたようです。アクセスできなかったみなさんにはお詫びいたします。

精神のアイドリング

「徒然」にも書いたことがあるが、霊的領域では受動性に陥ることは危険性が高い。多くの「明け渡した」クリスチャンたちや「御霊の声」を聞くカリスマ系の人たちが、この罠に落ちている。

最近でもある教会のカルト化がネットのあちこちで話題となっている。この教会もいわゆる「預言」なるものが売りであるが、メッセージを聞いてみるとやたらと「・・・と主は言われます」が耳につく。御言葉から離れた「預言」やイエスから切り離された御霊の「臨在」はきわめて危険である。BBSにも書いたが、KFCは聖霊派(ペンテコステ・カリスマ・第三の波など)とは何らの関わりがない。私は数年前まで福音派とか聖霊派とかの定義や日本の実情はほとんど知らなかった。(まああまり知らないほうがよいかも・・・汗)

しかし、私は精神を安全な領域であえてアイドリングしてリラックスをはかっている。映画鑑賞や、Mr.マリックの超魔術や(今日もSPをやっていました)、口上売りや、さらに温泉やドライブなど。江ノ島の海をぼお〜と見るのも好きだ。UFO番組やネッシーの話なども大好きである。最近ではNASAは本当に月に行っているのか、といったテーマも興味がある。

かくしてあえて騙されることにより、精神の緊張が解かれる。精神は絶えず張り詰めてもだめ、絶えず弛緩していてもだめ。弛緩と緊張、緊張と弛緩がリズム良く繰り返すこと、これが精神衛生の鍵である。

しかし昨年の結婚式でMr.マルークの「チョット魔術」はけっこう受けたので、見るばかりでなく、やる方の快感も知ってしまいました。ちょっとはまりそうな気配です。

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BBSでも度々カキコして下さっている、辛口な「地の塩ミニストリー」(http://www5.ocn.ne.jp/~ikemoto7/)のSaltさんが日記を御披露するようになりました。彼は詩人でもあり、ギターの弾き語りもこなし、作詞作曲もできるというマルチな人で、大変面白い視点で物を書いています。御紹介します:

"seasoned with Salt"
http://app.memorize.ne.jp/diary/24/57910/

訂正:「武士道」を書いたのは新渡戸稲造でしたね。