最近の日記

大丈夫かな、貴乃花

お兄ちゃんが相続放棄したことで、貴乃花が「勝氏は自分の軍門に下った」と宣言しているとのこと。やれやれ、大丈夫ですかな、彼は。ちと物が見えなくなっているような・・・。前にちょっとパラノ(被害妄想)が入っていると書きましたが。「肉を切らして骨を切る」は剣の極意ですが。

http://www.excite.co.jp/News/entertainment/20050715100003/17590.html

オープンキャンパス

でした。1,000人ほど来て下さって、教員がツアーコンダクターになって、ゾロゾロとキャンパスを案内するわけです。結構疲れますね〜。でも炎天下こういった単純な肉体労働を終えて、クタ〜と疲れて、風呂入って、冷奴でキンキンに冷えたビールを飲むと、これが幸せなんですね♪

で、今焼酎に凝っておりまして、ガイドブックを読みながら研究を始めました。本日の私のガイドはあんまり良いガイドと言えませんが、世のことも霊的なことも、良いガイドに出会うことは物事の上達の秘訣です。的をはずした苦労はなるべくしたくないですから。自己流でまったく別の寺を拝んで帰った仁和寺の和尚を思い起しました:

 何事にも先達(ツアーコンダクター)はあらまほしきかな(吉田兼好)

またまた来ました・・・

献金の申し出が。今度はクエートからで、アフリカの大使館で働いていたダンナが莫大な遺産を残し、自分も乳がんを患っていて・・・と。スジは前のと同じです。で、その額なんと250万ドル!私はそんな金はいらないっちゅうの。

ところが、たまに本物があるのだそうです。某大教会の有名牧師先生はこう言った申し出で、みんなが信じなかったのに、彼だけ出かけていったら、何と1億円をもえらえたそうです。250万ドルじゃなくて、250万円位なら食指が動くかも。貧乏人根性ですね、私も・・・^^

開かれました!

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N兄弟が私と会ってくれることになった。オペがかろうじてできることになり、26日の予定。主が彼の心をここまでほぐして下さったことに感謝。

ウォッチマン・ニーは言っている:どのような代価を払っても、何にも増して兄弟の交わりの維持を第一とすること。主にある兄弟を拒否することは、それに関わる領域において主ご自身を拒否することを意味する。

彼がもし私を拒否し続けるのであれば、主を拒否することになり、決して平安なことではなく、それは私にとっても心痛むことである。私は彼との交わりで決して良心に反することはないが、それでも彼の心が私に対して開かれるのであれば、そして兄弟が主にある平安を得ることができるのであれば、私はすべてを下ろして、兄弟の前でひざまづこう。

Tヨハネ3:16−
キリストは、私たちのために、ご自分の魂のいのち(原語)をお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、魂のいのち(原語)を捨てるべきです。

God's Presence(9)

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主よ、私がこの世に持っています信頼とはどういうものでしょうか。また天下に目に見えるあらゆるものから私が得られる慰めのうちで、一番大きいのは何でしょうか。それは言うまでもなく、あなたではないでしょうか。その方の慈悲心は数え切れないほどだと言います。

お力によらないで、どんな場合に私が幸福だったでしょうか。あなたを失くして富むよりも、むしろ私はあなたのために貧乏でいることを望みましょう。あなたを失くして天を持つより、むしろ私はあなたといっしょに地上をさ迷うことを選びます。あなたがおいでになるところ、そこがすなわち天です。それに引き換え、あなたがたおいでにならないところは、すなわち死と地獄です。

あなたこそ私が願い求めるところのものです。それで私はあなたに向かって嘆息し続け、叫び続け、切に乞い願わざるを得ないのです。結局のところ、私の神であるあなたお一人以外には、いざという大切な場合に、私の求めるにふさわしく援助を与えて下さるようなお方としては、どんな人でも十分に信頼できません。

あなたこそ私の望み、私の信じ頼る者、あなたこそ私の慰め手、万事につけてこの上ない真実なお方です。−トマス・ア・ケンピス

God's Presence(8)

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ある人が言うには、「人々の間に出かける毎に、私は前よりもいっそうつまらぬ人間になって帰って来た(別訳:良心の汚れを受ける)」と。私たちも長く人と話し合っていると、こういうことを実に度々経験するものである。

物を言って行き過ぎないより、全然何も言わないでいるほうがずっとたやすい。家に引っ込んでいる方が、外へ出て十分に自分の見張りをする力をもつより容易である。

それゆえ、内面的な、かつ霊的な徳を成就しようと志向する者は、イエスに従い、群衆から身を退くべきである。−トマス・ア・ケンピス

在主感謝

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みなさまからお心遣いのメールをいただき、感謝です。医学的には決して楽観できる状況ではありませんが、主の御手による深い部分での働きを見ることができています。

主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。

God's Presence(7)

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わが思いはあなたがたの思いとは異なり、わが道はあなたがたの道とは異なっている、と主は言われる。

天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

In everything and everyway, I will worship You.

真実に直面すること

あさってS兄と共に彼の奥さんに会えることになった。医学的には私の持つ知識と統計データによってひとつの判断がある。1週間前に検査をしたそうだから、おそらく彼女の口から真実を聞くことになろう。

2月くらいから、正直言って、かなり苦しかった。心の真ん中にジリジリ・ヒリヒリと焼けるような焦燥感が居座って、もがいていた。しかしここ数週間は、主によって取り扱われている、という解放感と安息を覚えるようになってきている。確実に主の御手の介入を感じる。

I surrender all to YOU, Jesus.

God's Presence(6)

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良心が清らかである者は、たやすく満足し、たやすく安らぎを得ることができる。世の賞賛を博したからと言って、それでいっそう聖人になるわけでなく、悪口されたからと言って、それでいっそうつまらぬ者になるわけではない。あるがままのあなたがあなたであって、神の見たもうところ以上に出ることはできない。自分の心底がどんなかをよく省みれば、世の人があなたのことをどう言おうとも、気に病むことはなかろう。

人は表面のことを見るが、神は心中を見られる。人は行いを考察するが、神は意図をおもんぱかれる。常に行いを修め、自分をつまらぬ者とみなすのは、謙虚な魂のしるしである。何かの被造物によって慰めを得ようとしないのは、すぐれた潔さと内面の真実のしるしである。

自分のためにいかなるものも証しとして外界に求めない人は、明らかに自身をまったく神に委ね切っている者である。心の中で神とともに歩み、外ではどんな執着にも拘束されないこと、これが内面的な人間の姿である。−トマス・ア・ケンピス

God's Presence(5)

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苦難を誉れとするのは、神を愛する者にはつらいことではない。そのようなほまれを覚えることは、主の十字架をほまれとすることである。

世間の人が与え、また受けるところのほまれは短い、一時のものである。この世の栄光にはいつも悲しみが伴う。よい人のほまれは、彼の良心の中にあって、世間の口にあるのではない。

正義の人の喜びは神について、また神においてある、また彼らの喜びは、真理についてである。真実で永遠な栄光を願い求めるものは、この世の誉れを気にかけない。

またこの世の栄光を求め、これを心底から蔑んでいないものは、確かに天のほまれを愛することのより少ないものである。世の賞賛も、非難をも、気にかけない人は、大いなる心の平安をもつものである。−トマス・ア・ケンピス(岩波版)

God's Presence(4)

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                 十和田湖

私は神に至るいろいろな方法や、霊的生活の実践的なことについて書かれている書物をたくさん読みましたが、私の求めていた願い、すなわち、いかにしたら完全に神のものになることができるかということ指導してくれるものはなく、むしろ惑わされてしまうものばかりでした。

そこで私はすべてを得たいために、すべてを放棄するという決心をするに至りました。神にまったく自分を捧げ、神を愛することのゆえに、神に属さないこの世の一切を捨て、この世にあっては、神と私以外の何者もないとして生活を始めました。

時には、神の御前に自分がまるで裁判官の前に立たされた哀れな罪人のように思えました。そしてある時には自分の心の中で、神を私の父、私の神と考えるほどに親しく感じられました。

私はできる限り神を礼拝して、自分の心を神のきよい臨在の中に保ち、自分が神から迷い出た時には、何回でも神のもとに引き返しました。このように訓練することは自分にとっては決してやさしいことではありませんでした。

そして、不本意にも主の御臨在から迷い出ることがあっても思い煩ったり、不安を感じたりしないようにいたしました。どのような忙しい仕事に追われているときも、毎時間、毎分、決められた祈りの時間と同じように、私の心の中に神を覚える思いの妨げとなるものを追い出すようにしました。−ブラザー・ローレンス

手離すこと

6月10日に、若貴問題の解決はどちらか(貴乃花はムリだろう)が大人になって下りるしかないと書いたが、勝氏の見事な肩透かしで幕引きのようだ。彼は弟に花道をつけ、自由でいることを選んだのだろう。そしてこのような場合、モロモロの訴えをした側の歪んだ心の様がむしろ露にされる。

God's Presence(3)

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                △冬の摩周湖▽

他の時にも、心を集中すると、すぐに私の霊も魂も晴れ晴れとし、心遣いや努力も要らずにそのまま続きます。さわやかに、動かされることなく神のうちに憩い、神が私のうちにいてくださるのを覚えます。

このような状態を怠惰とか、自己欺瞞、自己愛とか言う人もいるでしょう。たしかに、聖なる怠惰、祝福された自己愛とでもいいましょうか、そういうものがあることを認めます。魂がその中にあるときには、今このとき、神と交わることだけを考え、過去の行いなどに心を煩わすことはありません。

しかし、私は断じてそれを欺瞞と呼びません。神を喜ぶ魂は、ただ神のみを求めるからです。もし、私のうちでそれが欺瞞となっているならば、それを取り除いてくださるのは神であって、神はこのことで御心をなして下さるのです。私はただ神のみを求め、まったく神のものとなりたいと願っています。−ブラザー・ローレンス