日記

荒川静香の舞い

実に美しかった。日本女性もここまで来たかと。コーエンやスルツカヤにまったく遜色なく、むしろ彼女たちを圧倒するオーラがありました。鶴のような気高さを感じますね。感動をありがとう、と言いたいです。

(影の声:同じ静香でもK氏とはえらく違うなとか、ふと思ってしまった・・・)

村主はミスはなく、表現も豊かだったが、伸びというかダイナミクスさがいま一だったか。2,3位は転んでいるのに、彼女たちに勝てなかった。

美姫ちゃんは4回転失敗で、後は頭が真っ白になってしまったようですが、観客が「ありがとう!」と励ましていた光景にも感動でした。こういった高貴な交流は人を生かしますね。キリスト教界ではあまり見られない人と人の関わりです。彼女は精神的な不安定さがありますから、あまり期待したり追い詰めると、プッツンする可能性があります。拒食症や過食症などになり得ます。彼女のペースで成長させてあげたいです。

やらねばと思いつつ・・・

わが部屋を片付けないと、と思いつつ、つい先延ばしだ。それも新しく作ったAthron64ビットのPCがエラーでクラッシュするので、何とかしようと2週間ほどもがいているが、Microsoftのデータベースにもfix法がない。これが尾を引いて次のことに手が出ない(と言い訳をしている)。しかし、いつクラッシュするかハラハラしながらPCに向かうのも何とも不安感がつきまとって気持ちがよくないもの。64ビットCPUはまだ不安定ということだろうか?ビデオなどの編集に特化しようと考えているのだが。

 * * *

花粉症がそろそろ・・・・。年中行事のはじまり。

今週の気にかかる事

その1:どうも咳が止まらない。メッセージでも途中で咳き込んでいますので、お聞き苦しい点、すみません。

その2:オリンピックにメダルが出ない。ジャンプもだめ。あとはフィギュアのみだが、果たして・・・。

その3:民主党による武部氏関連メール疑惑。次の一手は、形勢不利と見せかけての隠し玉か?銀行口座を把握しているとか、ほんと?それともブラフ?

その4:株式市場が軟調。外人が売り越し、日銀の政策が変更されることへの思惑。単なる一時の調整か?

嗚呼、何ゆえこれまでに・・・

ほんとにワンパタン、入試の面接。あまりの単調さに、今日はちょっと意地悪なツッコミを入れて、やや困ってもらった。「まっすぐ相手の目を見て」とか言うマニュアルがあるのだろうけど、やたらとにらむように視線を固定する生徒もいて、おいおい、それじゃコワイよ、かえって印象が悪いでしょう。適度に視線ははずすんだよ。まあ、面接で楽しいのは、人の顔って実にイロイロということ。ニンゲンって、ほんとにおもしろいですね^^

最近は映画以外は専ら家に篭っているので、たまに都内に電車で出てみると、世間の風に触れることができて、いい刺激を受ける。帰りに蒲田で人身事故があり、京浜東北が不通。はて、飛び込みかな?イロイロな人生があるんだなとか思いつつ、京急に乗るが、この線ははじめてだ。私について言えば、学生時代、お昼ごろまで寝ていて、世間が動いていることについて、「ああ、世の中って、僕とは関係なく動いているんだなあ」と変な感覚を味わったことがあるが、最近もそんな感じかな?しかし何があっても電車に飛び込んじゃいけない。

「あなたは結婚した頃から生活がまったく変わっていないのね」とカミさんによく言われるが、確かに。だいたい家にいる時間が1年のうち50%はあるだろう。学期中も出勤は9時すぎから。しかも夏などはGパンとポロシャツ。ネクタイは今日みたいな日だけ。マンションの新しい管理人は不思議そうな顔で挨拶をする。すべて学生時代から変わっていない。何だか一生浪人生活をしているようなもの。確かに主が来られる日までの・・・。

ただしねぇ、やたらとエラクなりたがる人や、○千人教会作る野心に萌えている人や、ややこしい神学を狂信している人や、「リバイバル音頭」の幻想を追っかけてる人や、被害妄想もった人格障害系の人などなど、ニッポンキリスト教のスバラシイ諸兄と関わるようになって、静謐な(?)私の生活がけっこうかき回されたことは事実。何でこういったクリスチャンが出来上がるのか、ほんとニンゲンっておもしろいです、ふ〜。

主の真実

私の友人のIさんが、この度ピッタリの会社に正社員として採用になったとのお知らせをいただいた。Iさんとは知り合ってもう5年になるのですが、この間、ある意味で試みを経られたわけですが、主は真実です。エレミヤ書の

バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あたなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あたたがたをこの所に帰らせる

という御言葉が与えられ、祈り始めてからちょうど2年目に不思議な導きで与えられたそうです。

すでに50に近いIさんですから、今のご時世、普通であればほとんど不可能に近いことを主はなされたわけです。アンドリュー・マーレーの言葉に「主の答えは遅くなるように見えても、間に合わないことはない」とあります。必ず間に合うのです!

この間、ひじょうに厳しい仕事を忠実にしてこられたわけですが、私たちの側の責任は小さなことに忠実であること。何も起きないと見える間も(この間が人にはしんどく感じられる)、着々と主は備えを用意されたのです(信仰は見えないことの実体化です)。主はその環境の中でIさんの同僚を通してチャンスを備えられたのです。Iさんの主にある真実さが同僚の方にも証しされていたのでしょう。本当に励まされます。

「風」の行方・・・

外科医さまとSkyさまに漢方の処方を教えていただき、ありがとうございます。咳は風邪のみでなく、少々寒冷アレルギー的要素があるようで、冷たい空気を吸うと反応が出るようですね。漢方を試してみたいと思います。このサイトには臨床医の方々が何人もいらして、心強い限りです。

 * * *

オリンピックがどうも風がアゲインストのようです。2004年がちょっと調子良すぎたようですが、この「風」というのがとても面白い。エペソ書には、「赤子のように、吹き回る教えの風に振り回されるな」とありますが、ニッポンキリスト教界ばかりではなく、世の中もこの「風」の向きですぐに変わるわけ。株をやるとこの「風」で相場が動く様子が実に良く分かる。

小泉氏あたりはこの大衆が求める「風」を敏感にキャッチして巧妙にそれに乗った感じがあるが、ここへきてライブドアがらみで武部氏の息子への資金供与疑惑まで出てきて、支持率を落としている。与党は事実無根としているが、さてその行方は?

私はこの種の事件があると「論○同○会」のサイトを覗くことにしている。泣く子も黙る某大物総会屋のサイトであり、97年の拓銀破綻の3ヶ月前に内部情報としてその予告が出て、まさかと思っていたら、夏に破綻して驚いたことがある。つまり内部告発的裏情報が取れるわけ。

今回のライブドア事件は武部氏はまだ表層で、A氏がらみのもっと深層がありそう(ヒューザー事件は露払い)。大事件に発展する可能性は立花隆氏も指摘しているところで、ちょっと日本の根幹を揺るがしかねないとも感じている。「風吹けば桶屋が儲かる」ならぬ、「風向き変われば、日本がころぶ」ともなりかねない。まことに「風」の方向は量りがたい。

終わりの時代、御言葉によほど意識的にしがみつかないと、容易に「風」で飛ばされてしまう危険性を強く感じている。

オリンピックとムカデ

モーグルの上村が5位、里谷は15位。原田は勘違いで200g重量が足りず失格。ああ、なんと・・・。後はフィギュアとスピードくらいか。メダルを5つと控えめの目標だったが、どうも妥当な線かもしれない。

選手のインタビューを聞いていると、大体勝てるかどうか分かってしまう。「勝つよりも楽しみたい」とか、「今回はプレッシャーもあまりない」とか言っている人はたいていうまくない。自分を見てしまっているから。フィギャアの真央ちゃんなどはただ滑るのが楽しいと言う雰囲気。自分から意識が離れている。

美空ひばりの『柔』に「勝つと思うな、思えば負けよ〜」とあるが、ポイントは自分に意識が向かないこと。心のエネルギーが自己に集中すると、体の動きのコントロールに配分されるエネルギーが損なわれる。勝負の鍵は自分から離れているかどうか。ムカデが自分の足の一本一本を気にし出したらどうなるだろうか。彼らはいのちのままに生きているから足がもつれないのだ。人間は緊張すると右手と右足を同時に出してしまうというちぐはぐに陥る。

その意味で見栄えの良い選手をクローズアップしたり、CMに起用したり、脚光を浴びせるのはまことに気の毒と思う。雅子さまと同じように、むしろ萎縮させてしまうからだ。かくしてニッポンは互いに縛りあってしまうわけ。ただ、楽しむことを許してあげたいと思うのだが。

(しかし、原田よお〜、何でだよ〜、と言いたくなった・・・)

どの声に聞き従うか

何気なくサイトを開いてすでに丸7年。この3月で8年目に入る。この間、クリスチャンと称するいろいろな人と出会い、いろいろな意見や聖書解釈や実行を見聞きした。その印象を一言。病んでいる!健やかで満ち足りた自立的な信仰生活を送っている人があまりにも少ない。私にとって当たり前のことが、彼我にとっては当たり前ではなく、その逆も言える。

BBSで誰の声に聞くべきかとの問いかけがあるが、これは現在そして今後きわめて本質的な課題となる。イエスは言われた、「私の羊は私の声を聞き分けて、私に従う」と。また「何をどう聞くかによくよく注意せよ」とも。

現代の霊(アイオーン)の流れが、ひとつはメガチャーチに象徴される「パワー崇拝」と、ひとつは今回のイスラムの騒動に象徴される「狂信志向」(その対象が聖書であれ、コーランであれ、病理的には同じこと)である。そのどちらにも強烈なエネルギーを秘めた魂(自己・セルフ)が息づいている。前者には増長した自己、後者には傷ついた自己。心を病む人々は、弱いからではなく、強すぎるためであると前から指摘しているが、彼らは苦悩するほどの魂の鬱屈したエネルギーを蓄積しているのだ。傷つきやすい人は強烈な自己を秘めている。しかも自分の病の中に逃げ込んでいる。真に弱くされた人は、苦悩するエネルギーもない。

お分かりになります?「パワー崇拝」は自己を喜ばせ、自己を満足させるものであり、「狂信志向」は病んでいる自己が何かに自己のアイデンティティを置こうとする(すがりつきの病理)である。前者はアメリカを、後者はイスラムをあおる。この二つは自己の裏表、ネガとポジとも言える。世界が主の十字架によって真に弱くされるとき、真の平和(=キリストによる統治)が実現するが、世界は自己を低くし、自己を否む十字架を排除しようとする。<アメリカvsイスラム>対立の本質的なルーツは自己にある。いわゆる<勝ち組vs負け組>も同じこと。

キリスト教界でも、ヒューマニズム的キリスト教会は自分が負うべき十字架を語らない。なぜなら信徒が減るからである。彼らは信徒をつなぎとめておくためにきれいに飾られたキャンディボックスを提供する。ヒューマニズムを徹底的に批判する再建主義者も十字架を語らない。なぜなら彼らの統治は霊的パワーによるものだからだ。見かけは正反対であるが、実は共に自己に仕えている。

現在、われわれが直面している本質的な問題は、<自己vs十字架>と言える。もっと具体的にいえば、真のリバイバルは、教会が強くなることによるのではなく、真に弱くされる時、究極的には「死」を経るときに成就する。十字架は自己にとっては過酷なのだ。(自分の病の中に逃げている人をあえて十字架に導く必要もないとも最近は感じている。)

現代において聖霊が語るとき、それはイエスの声であり、主はこう言われる:

わたしに従いたい者は、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい。



【蛇足】霊的弁証法として、「自己をテーゼ、十字架をアンチテーゼとし、それらをアウフヘーベンするとキリスト」って言ったら、これもバルトが論じているのか知らん(笑)

終着点

長女が管理栄養士の国試に向けて準備中なのだが、実習で学校や保健所などを回っている。で、本日は老人ホーム。帰ってきた彼女、疲労感と脱力感をにじませて一言:「へこんだあ、人間って、あんなになっちゃうんだ・・・。」

私も老人ホームの現状は知っているが、普通の神経ではちょっとまいってしまう。これは精神科病棟なども同じ。大学の福祉系の学生が1,2週間の実習から帰ってくると、たいていは自分の適性と進路について考え込んでしまう。「福祉」という単語のイメージと裏腹に、現実の厳しさに参ってしまうわけ。そんな彼らに私は「それは君が普通の人だからだよ」と声をかける。

すでに25%が60歳以上のニッポン。私たちもそろそろ老後に備え、死に際に備えなくてはならない時期に入っている。発つ鳥、後を濁さず。大勢の人を呼んでの葬儀などはまっぴら。インド像のようにひっそりと自分の死に場所を用意したいと感じている。家族だけに見取られたい。

ロシアの思惑

ハマスの政権に対して、ロシアはハマスの代表者に自国を訪問するように呼びかけているようだ。イスラエルはこれに反発。英米の反ハマス姿勢に対して、ロシアは独自の姿勢をとって、存在感と影響力を保とうとしている。どうもプーチンは元KGBだけあって、何を考えているか不気味だ。エゼキエル書のディスペンセイション的預言解釈によれば、ロシアはリビア、エチオピヤなどと同盟して、イスラエルに攻め込むわけ。今後の世界のキーワードは、イスラムに加えて、ロシアも入れる必要があろう。

【参考】バイブルカレッジ/真理の探究コース:「預言とその成就」をご参照下さい。

イスラムの脅威

どうも咳が止まらない。気管に炎症が残っているようだ。私の義兄も医師であるが、同じ症状で1ヶ月きているようで、診察の時も患者さんに気を遣って大変らしい。で、気管支を拡張するクスリを処方されたのですが、これは動悸の副作用とともに、どうも筋肉弛緩効果もあるようで、手足が震える(筋肉が疲れた時のように「笑う」)のですね。年寄りみたいに、足腰がふらつき、手の細かいコントロールができないのです。キーボードも打ち間違えてばかり・・・(パーキンソンの人たちの苦しみが少し分かるか・・・)

 * * *

ムハンマドを風刺した漫画の掲載をめぐって、デンマークにはじまったイスラムの暴動は、世界的に広がりを見せている。彼らにとっては、人間の作った憲法に基づく「表現の自由」などは一切認められず、あくまでも最高の預言者ムハンマドによる神の言葉であるコーランがすべての法律に優先するわけ。つまりムハンマドへの批判は神への冒涜となる。

信仰のない人々でも殺人や盗みは悪いことと知っているわけだが、これはローマ2:14-15にあるとおり、生まれつきの人の中にも良心として律法が書き付けられているからに他ならない。これがいわゆる自然法の根拠であり、これを明文化する時に法律ができる。対してイスラムでは、殺人や盗みが悪いのは、神の命令であるコーランが禁じているからである。が、ムハンマドを冒涜する者は、(私の大学にもそのご夫人がおられるが)、『悪魔の詩』を翻訳しただけで首を切られたI助教授のような運命を辿る。

このあたりは自然法を一切認めない再建主義と酷似している(まあ、彼らが殺人を実行することはないであろうが)。再建主義でも殺人や盗みが悪いのは、良心の問題と言うよりは、モーセ律法が禁じているからである。今、再建主義の富井氏の掲示板に、「再建主義に批判的な人の閲覧を禁じる」と大書されてあるが(自分が金を払って再建主義啓蒙のために主催しているサイトだからだそうが、ネットでこう主張されるのもいかがなものか・・・。IDの必要なClosedなBBSにでもしたらよかろうと思うが)、そう、彼の反応とイスラムの反応はそっくりである。

一方でパレスチナでは、テロ活動をしていたハマスが政権を取りそうな気配で、パレスチナ自治政府のアッバス議長と緊張関係が生まれた。イスラム勢力のパレスチナの中でも分裂が始まるようで、中東和平は危ういことになってきた。NHK「クローズアップ現代」でもレポートされていたが、ハマスは、互いに意地の張り合いになっていることは認めつつ、あくまでも問題はイスラエルの側にあると主張している。対してイスラエルは車椅子の老人であるヤシン師をミサイルで暗殺する(!)というパラノイドに陥っている。

お分かりになりますか?いずれもビョウキなのですね。これからの世界のキーワードはイスラムである。

Y遺伝子の行くえ

秋篠宮家にコウノトリが飛来したとのこと。このタイミングで実におめでたい。男だったらこれはグッドタイミング(なんだかそんな予感がするが・・・)。天皇は万系一世、つまり男系できたわけで、私的にはぜひ守ってもらいたいと感じている。つまりY遺伝子を連綿とつなげて来たわけ。おいおい、クリスチャンが天皇制を擁護するのかと、一部の過激な人々はおっしゃるでしょうが、私たちは良心と信仰に反することを強要されない限り、どのような国体の下でも生きることができる。

一方で、一部では万系一世の天皇家にはユダヤの血が流れており、大いなる神のご計画が封印されていると説く方々もいる。確かにロマンがあるが、仮に天皇家にユダヤの血があっても、霊的にはなんら変わりはない。私たちは淡々と今得ているいのちの道を歩むだけ。もし女系を許せば、Y遺伝子が断絶するわけで、彼らにとっても困ることであろう。

Y遺伝子ははたしてどこへ向かうのだろうか?

魂を否むこと=魂の真の救い

昨日の独り言にいろいろなメールによるご意見や証をいただきました。そのひとつに「魂を否む」とはどういう意味ですか、とありました。これはよく勘違いされるところで、下手をするとクルシチャンを生み出します。「自我を十字架につけて〜」というエキセントリックな説教になるわけです。

みなさんは風邪の引き始めの状態をご存知ですね。体がかったるく、ほわ〜っとして、ある種気持ちがいいのです。この時って、普段よりも心が穏やかになりませんか?これが魂を否むことです。この時には内的精神的エネルギー(たぶん生理的現象と関係しています)が風邪のために弱くされているのです。そこで魂の中に注ぎ込まれるエネルギーのレベルが落ちているのです。これが独特の平安と安らぎを生み出します。でも魂の機能は損なわれていません。私は私ですし、好みもありますし、物事も考えていますし。パウロとヨハネの文書の味わいが違うように、それぞれの魂の形は違ってよいのです。

お分かりになりますか?魂のエネルギーが落ちること、そのときに御霊の霊のエネルギーが魂を駆動するのです。魂の機能そのものは壊れることもありませんし、むしろもっと豊かに機能します。知性はクリアにされ、感情は豊かに、意志はやわらかくなります。魂を否むとは、私がなくなったり、別人格になるわけではありません。だからパウロは、

もはや生きているのは私ではなく、キリストである。今、肉にあって生きている私は、神の子の信仰によって生きている(ガラテヤ2:20)

と証しています。生きているのは私ではないのに、肉にあって私も生きているのです!御言葉を勝手に読み込んで、勝手な解釈(特に日本人は儒教あたりの匂いが強いです)で、自ら苦しめて、ビョウキに落ちているケースがあまりにも多いのです。その一方で、その反動かのように「ありのままのあなたでよい。すべては受け入れられている」式の砂糖まぶし的ヒーリング・ミニストリーがはやっています。そこには真の十字架がありません。十字架は魂のエネルギーを霊のエネルギーに切り替える働きをするのです。

自分を知ること

老子でしたか、荘子でしたか、「自分を知り、敵を知れば、百戦危からず」と言ったのは。私たちサイエンティストはつねに自分の認識し得る能力と射程を意識しながら、物事に当たるのですね。

「学」とは、「何か」を客観的に対象化して説明することなのですが、実は物理の最前線では、この客観化がなし得ないわけです。すでに主観と客観の線引きができない領域に立ち至っているわけです。ここで前に述べたような、カオス理論や、量子力学における観測の限界を与える不完全性原理や、論理自体の限界を与えるゲーデルの不完全性公理などが発見されているわけです。

ところが神学では、すべての創造主なる神を客観化して説明しようとする!?われわれからすると何と大胆と言うか、無理なことをするものぞ、と感じるわけです。もっと言えば、ドン・キホーテ。時空間を超え、われわれの知性のフレームを超えている存在を、われわれの認識の中に収めようとしている。

神学の最も根源的な問題はですね、人間を知らないこと、なのです。デジカメで画素数がいくらかを知ることは、デジカメがリアリティをどれだけ正確に写し取ることができるか、つまりその性能を決定する最も本質的な要素でしょう?ちなみに私たちの視覚だって、すでに相当に騙されているわけ。だからマリックさんやセロさんたちが商売できるわけです。

自分を省みることができない人、自分を知らない人は、病んでいる人です。人から批判を受ける時、私は「ああ、この人の心にはこう写っているのだな」と見るわけです。つまりその人の心の平面が平面ではなく、相当に歪んでいるわけ。で、このような心から生まれる「学」ははたしてどのようなものになることでしょう。神学オツムの方々にはぜひその辺を再考していただきたいと感じている次第です。