No.1404の記事

どの声に聞き従うか

何気なくサイトを開いてすでに丸7年。この3月で8年目に入る。この間、クリスチャンと称するいろいろな人と出会い、いろいろな意見や聖書解釈や実行を見聞きした。その印象を一言。病んでいる!健やかで満ち足りた自立的な信仰生活を送っている人があまりにも少ない。私にとって当たり前のことが、彼我にとっては当たり前ではなく、その逆も言える。

BBSで誰の声に聞くべきかとの問いかけがあるが、これは現在そして今後きわめて本質的な課題となる。イエスは言われた、「私の羊は私の声を聞き分けて、私に従う」と。また「何をどう聞くかによくよく注意せよ」とも。

現代の霊(アイオーン)の流れが、ひとつはメガチャーチに象徴される「パワー崇拝」と、ひとつは今回のイスラムの騒動に象徴される「狂信志向」(その対象が聖書であれ、コーランであれ、病理的には同じこと)である。そのどちらにも強烈なエネルギーを秘めた魂(自己・セルフ)が息づいている。前者には増長した自己、後者には傷ついた自己。心を病む人々は、弱いからではなく、強すぎるためであると前から指摘しているが、彼らは苦悩するほどの魂の鬱屈したエネルギーを蓄積しているのだ。傷つきやすい人は強烈な自己を秘めている。しかも自分の病の中に逃げ込んでいる。真に弱くされた人は、苦悩するエネルギーもない。

お分かりになります?「パワー崇拝」は自己を喜ばせ、自己を満足させるものであり、「狂信志向」は病んでいる自己が何かに自己のアイデンティティを置こうとする(すがりつきの病理)である。前者はアメリカを、後者はイスラムをあおる。この二つは自己の裏表、ネガとポジとも言える。世界が主の十字架によって真に弱くされるとき、真の平和(=キリストによる統治)が実現するが、世界は自己を低くし、自己を否む十字架を排除しようとする。<アメリカvsイスラム>対立の本質的なルーツは自己にある。いわゆる<勝ち組vs負け組>も同じこと。

キリスト教界でも、ヒューマニズム的キリスト教会は自分が負うべき十字架を語らない。なぜなら信徒が減るからである。彼らは信徒をつなぎとめておくためにきれいに飾られたキャンディボックスを提供する。ヒューマニズムを徹底的に批判する再建主義者も十字架を語らない。なぜなら彼らの統治は霊的パワーによるものだからだ。見かけは正反対であるが、実は共に自己に仕えている。

現在、われわれが直面している本質的な問題は、<自己vs十字架>と言える。もっと具体的にいえば、真のリバイバルは、教会が強くなることによるのではなく、真に弱くされる時、究極的には「死」を経るときに成就する。十字架は自己にとっては過酷なのだ。(自分の病の中に逃げている人をあえて十字架に導く必要もないとも最近は感じている。)

現代において聖霊が語るとき、それはイエスの声であり、主はこう言われる:

わたしに従いたい者は、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい。



【蛇足】霊的弁証法として、「自己をテーゼ、十字架をアンチテーゼとし、それらをアウフヘーベンするとキリスト」って言ったら、これもバルトが論じているのか知らん(笑)