日記

雪見風呂

昨日は天気が荒れて、ノーマルタイヤで雪道を恐る恐る走りました。でも4WDはさすが安定していますね。

今、山奥の村営保養センターで雪を眺めながら風呂を楽しんだところです。ここにいると時間が普段の3倍はゆっくりと流れます。芯から癒されますね。

(しかしここにもネット環境があるとはね^^)

私たちの人生

私たちの人生はカオスであると言いました。決定論(神の意志)と偶然論(私の意志)が区別できないのです。それらは共に綾なされて人生の日々を紡ぎます。私たちの過ちも神の召しを無効にできません。安心して今日一日をいのちのままに生きることです。なぜなら、

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに(詩篇139:16)。

神学者の虚しい議論に巻き込まれないことです。御言葉に書いてあるところにとどまってください。

あなたがたには聖なる方からの塗り油(原語)があるので、だれでも知識を持っています(1ヨハネ2:20)。

その知識とはいのちから生まれるものです。それぞれのいのちに従って造られましたし、それぞれのいのちに従って生きるのです。下のワンコちゃんたちを見てください。安息しているでしょう?

伊丹重三の「マルサの女」の中で、悪の権藤商事会長が無邪気に遊ぶ子供たちを見て、ふと名台詞をもらします:「心は安らかな方がいい・・・」と。安息とは何もしない無為ではなく、いのちにあって信頼し、いのちが喜ぶとおりに活発に生きることです。

終わりました〜♪(T-4days)

本日で大学も終わり。一息です。私たちはこういったリズムがあるのでやっていけるのですね。普通のサラリーマンのように年中ベタ〜と仕事なんてとても勤まりません。主は私の特性をよくご存知でいて下さり、もっとも適切な仕事場を与えて下ったのです。

で、明日は寒気が強いようですが、福島は大丈夫だろうか?

ご紹介

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ブヒさんのおうちのワンコちゃんたちです。実に表情がイイので、ややこしい話が続きましたので(まだ絡んでくる人がいるのですが・・・涙)、お口直しにここでもちょっと紹介します。ニンゲンが失った何かを彼らは持っていますね。それが私たちを癒すのです。

今年の仕事は終わりました:T-7days

今日でセレブレーションは終了。来週は賛美と交わりの会です。元旦はお休み。一般的には元旦礼拝とかするのでしょうけど、私たちは家族で水入らずで過ごしたいのですね。というわけで、メッセージも新年8日まで更新いたしません。ワーシップは少し長めに収録して置きました。

大学の講義もあと残すところ3日。木曜日から週末までは福島のS兄弟の山小屋に泊まりに行きます。そして来週月曜日からは温泉と・・・。ここのBlogでもややこしい話もあったり(こういったサイトを開いていると変な人たちに絡まれるのは宿命かな・・・^^)、今年もイロイロありましたが、それぞれが主ご自身と主の真実を経験し知ることができたことは幸いでした。これだけが主とお会いする時まで残るものです。

すべては主を知ることのゆえに配剤されてあることを感謝します。

ピグマリオン症候群

って何?と質問をいただきました。ちょっとややこしいことを述べますが、私たちが何かのリアリティ(物理的・精神的・霊的)を認識するとは、それを適切な感覚器を通して内側に取り込み、それを言語化することなのです。言語は世界の映像です。ところがその映像をリアリティを差し置いて大事にすることがあるのですね。

ある所にピグマリオンという彫刻家がいまして、美女の像を造ったのですが、本人を差し置いて自分の作品の像に恋してしまったわけ。これが「ピグマリオン症候群」です。一種の倒錯的状態ですね。

私たちは人と関係するときに、その本人とつねに関係を持つわけで、その経験を通してその人のプロファイルを構成していきます。この人は明るいとか暗いとか、活発だとか内向的だとか。このような何かを記述する言語を「メタ言語」と言います。

カルバンにせよ、ウエスレーにせよ、彼ら自身の神との関係からそのプロファイルを作り上げたわけですが、そのプロファイル書を読んで、本人を分かったつもりになるとしたら、これはおかしいわけです。あるいは本人を差し置いて、互いの報告書を批判し合うと。神学者はメタ言語内でこのような議論をしているわけです。

私たちにはすでに聖書と言う主イエスの第1次のユニークなプロファイル報告書があります。ここにとどまればよいのです。さもないとカルバン神学の講解、さらにまたその講解・・・と言う無限後退性のジレンマに落ちます。ウエスレーについてBBSでどなたがお書きになりましたね。誰々によるウエスレー神学の解釈とか。ナンセンス!

へブル8:11にこうあります:

また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。

主は、「マイ・ジーザス」であり、「マイ・ゴッド」。そしてスウィートな方です。無意味な疲れる論争は専門の神学者に任せて、私たち普通のおじさん・おばさんは主ご自身をエンジョイしましょう。

土曜日の楽しみ

私の休みは実質土曜日だけ。実に待ち遠しい。土曜の朝の楽しみは『ぶらり途中下車の旅』。もう10年近くになるのでは。この番組で紹介される苔のむしたような石垣や、下町の雑然とした町工場の群れ、裏町のさびれた小道や、町のおっちゃん・おばちゃんの生活、手作りの作品の店、ちょっとした粋な小料理屋など、ああ、人が生きている、と言う安堵感を覚えるのですね。

こんな商売していてやっていけるかなとかも思うときもあるのですが、今日のアメリカ式の大量生産・大量消費のメガストアなどにはない、人の営みと温もりが感じられる。LAなどは方眼目盛りのような計画街路で、規格品的な家並みが続き、整然としていてもある種の渇きを覚えてしまう。

日本の町並みは雑然とするようであるが、あの角を曲がると何が現れるか、といったワクワクする作りなのですね。それはまさにカオスであり、複雑系なんですね。日本人でよかったと実感できる番組です。

さて、これからプールとサウナ。午後は『キングコング』を観てまいります。

主をあがめます

Salt氏のお父上が勝利の凱旋をされたことのゆえに、主を褒め讃えます。

「生」の共有−鈴木大拙と西田幾多郎

彼らは生涯禅を通じての盟友であり続けた。鈴木禅学と西田哲学の創始者であることは言うまでもない。彼らの哲学は、一言で言えば(禅は「不立文字(ふりゅうもんじ)」であることを知りつつも)、「生きること」そのものを定式化したものであり、大拙は「即非の論理」(A∧¬A、つまりAがAでありかつAでない)、西田は「多即一の絶対矛盾的自己同一」と表現した。要するに私たちの限りあるオツムで静的にこねくり回すと矛盾に見えることが、動的に生きることにおいて、その生的実存において矛盾なく成立すると言うこと。

これは例えば、「神は父・子・聖霊の三位格をお持ちで、かつひとり」と言う、人間の知性には収まり切らない実存が、いのちなる神においては何らの矛盾もなく成立することと同じ。またイエスは神にして人であるわけだが、いのちなるイエスにあっては神性と人性の結合は矛盾なく成立している。もちろんイエスは自分の意志をお持ちであったが、彼の意志は常に父のそれと矛盾なく同時同在し得た。そのクライシスはゲッセマネで起きたが、なおその危機をイエスは十字架によって乗り越えた。

これらを神学では、私たちの知性に納まるように「神は3つのペルソナをお持ちでひとつのウシアを持たれる」とか、「神と人のヒュポスタティク・ユニオン」とか表現するわけだが、これですでにいのちから離れている。神は定式化される方ではなく、いのちそのもの。いのちにあっては、もっと言えば、実存的生そのものにあっては、三が一であって、何ら矛盾はないのだ。

大拙と西田はダイナミックな「生」、「生きること」そのものを共有したが(もちろんアダムにあるいのちではあるが)、果たして今のニッポンキリスト教のクリスチャンたちは、そのようないのちの共有を経験的に了知し得ているであろうか。それとも立体的で動的ないのちの次元から落ちて、いのちを喪失した平板な静的な議論によって、無残な荒れ果てた状況が展開しているであろうか。

娘とデート

長女が公務員試験対策の本を探すとのことで、手伝って欲しいと請われ、横浜のモールの有燐堂で待ち合わせて、しばしの探索。で、その後喫茶店でコーヒーを飲みつつ、1時間ほどを過ごす。周りのおばちゃんたちがチラチラと私たちに視線を送ってくるのに気づいたが、アブナイ関係じゃあないんだよ^^

彼女が生まれた夜のことははっきりと覚えているが、あの泣き声がいまだに耳にこだまする。イロイロあったが、節目節目で主の御手を感じてきた。それが今や就職に向けてアレコレ迷っているわけ。主が道を用意して下さっていることを話し、自分の責任を忠実に果たせばいいんだよと、ちょっと金八先生的な話をしている自分に気づいてしまった。

こうして娘とデートできる当たり前の生活にあって、ますます主の配剤と恵みに感謝するのみ。家の駐車場に車を止めて、ふと空を見上げると、放射冷却がきついだけあって、満月がやけにキレイだった。

蚕のように・・・

メタモルフォーシスはひたすら霊なる主の働きによる。私たちは何もせず、ただ主にぶるさがればよい。そのとおりです。それは主の責任の領域です。

では、新しいいのちを宿した妊婦はどんな生活をしますでしょうか?そうです、食べるのです。特にカルシウムや鉄分が不足しますから、あえてソレ系食品を食べるのです!胎児のために。

私たちも同じです。蚕のようにひたすら食べる。何を?御言葉です。御言葉はケンケンガクガクの神学論争のネタではなく、霊のいのちの糧、全栄養素をバランスよく含んだ、霊的食品です。頭の痛くなる神学書を読む時間があったら、単純に御言葉を祈りつつ読みましょう。私たちの霊は豊かに潤され、養われます。

みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。

ある日、ついに脱皮して、栄光に与ります。

単純と簡単

下で「霊的成長は単純」と書いたら、けっこう気に障る人がいるのですね^^どうもこの手の人は人の書いた文章をそのままに読めないで、自分のオツムの中で勝手に読み込むようです。私は「霊的成長は簡単」とは書いていません!

単純と簡単−お分かりになるでしょうか?

そうこうしているうちに・・・

主イエスは(Dr.Lukeではない!)、「夜寝て、朝起きて、そうこうしているうちに種は育つ」と言われます。カルバンでもなく、ウエスレーでもなく、バルトでもなく、あのイエスが言われるのです!

日常生活の当たり前を当たり前に、普通のことを普通に行なうこと、これが「そうこうする」ことです。再臨が起きたとか起きないとケンケンガクガクやってる人々に対して、パウロは1テサロニケ4:11で

私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。

とアドヴァイスしています。きわめて現代的なアドヴァイスです。これが「そうこうする」ことの実際です。私は人の本質はその立派なご意見ではなく、日常の些細なことで判断します。

霊的成長って、単純でしょ!

(陰の声:Dr.Lukeは理屈だけで本当の聖化の苦しみを知らないからだと思われた方、長年のクルシチャン生活ご苦労様です。私は主と共に生きることを楽しんでいます^^)

人を変えるもの―メタモルフォーシス

アップロードファイル 78KBオツムのよろしい神学者は言うかもしれません:「人は救われるだけじゃだめ。聖化される必要がある。だから神学の聖化論を学ぶ必要があるのだ」と。さあ、これでまたウエスレー様とかが出てきて、ケンケンガクガクの論争と分裂が起きるわけで・・・!?(とにかく彼らは魂のエネルギーがすごい!)かくしてハードコア・セッションでも赤子さんが問題提起してくださっていますが、クルシチャンを大量生産するのです。

では御言葉は何と言っているでしょうね:

ヘブル12:2−信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

Q.創始者はイエス、では完成者は?

ピリピ1:6−あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

Q.私たちがなすべきことは?

マルコ4:26-29−神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。

Q.種はどのように成長しますか?

妊娠した女性が受精卵の分裂と分化、つまり発生学の知識を持たずとも、胎児は着々と成長するのです。それがいのちの法則だからです。かくして皆さんの中にもキリストが霊的に受胎し、その形ができつつあるのです:

ガラテヤ4:19−あなたがたのうちにキリストが形造られる・・・

これを「メタモルフォーシス(昆虫などが変体すること)」と言います。

それは

2コリント3:18−私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、霊なる主の働きによるのです。

Q.誰の働きによりますか?モーセ律法の適用によるのでしょうか?

そしてパウロは警告しています:

ガラテヤ3:3−あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

Q.あなたはどうですか?これは再建主義者だけの問題でしょうか?

主は私たちにこう言われます:

わたしに信頼し、わたしがあなたに与えたいのちに信頼し、十字架と共に御霊によって働くいのちの御霊の法則に委ねますか?委ねるならば、わたしはあなたを内も外もわたしと同じ姿に変えましょう。」

かくして究極的には

ピリピ3:21−キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

1ヨハネ3:2―愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

あなたは信じますか?

ヘブル4:10―信じた者は自らのわざをやめて安息に入ります。