日記

人を救うもの(2)

次の思考実験をしてみて下さい:

ある無人島にひとりだけあなたがいます。全知全能の神は選びの予定に従って、難破船から聖書をあなたの元に流れ着かせます。あなたはたまたま海岸を歩いていて、それを拾って読みます。これはあなたの側から見れば偶然ですが、実は神の手が働いています。そしてあなたは誰からも強制されず、「イエスさま、私はあなたを私の救い主として信じ、受け入れます」と祈ります。

では質問です:

0)ここに働くのは誰の意志でしょうか?

1)あなたは救いを受けることができますか?

2)その際、あなたはカルバン(決定論)とアルミニウス(偶然論)との論争を知っていますか?

3)神はご自分のわざをなすのに、人の組織した神学を必要としますか?

4)無人島で神学書も読めないあなたは果たしてクリスチャンであり続けることができますか?

5)この島の中に互いに異端のラベルを張り合うだけの神学の「派」ができるでしょうか?

6)この島の中で一致を叫ぶ必要があるでしょうか?

7)では、人を救うのは何でしょうか?

私の回答は次の通りです:

0)神の意志に沿った私の意志
1)YES:救いはイエスを信じることによるから
2)NO:言うまでもない
3)NO:言うまでもない(聖書があれば十分!)
4)YES:クリスチャンとは神の霊から生まれた者だから
5)NO:言うまでもない
6)NO:この島ではひとりだが、信じる者はキリストの体にバプテスマされているから
7)言うまでもない

最も本質的なものから離れないことです。今日騒がしい声が多くなってきています。初めから聞いていた教えに留まること。

羊はわたしの声を聞き分け、わたしに従う。

人を救うもの

真に人を救う存在はひとりのお方Jesusこの方との出会いが救いなのであって、「イエシュア」とは「神は救い」と言う意味。神学なるものが「学」としてもあまり程度の高いものではないと分かったが、そもそも人を救うのは神学ではない。それはいのちの抜け殻。救いとはいのちの主であり、いのちを与える方を知ることである!

あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。

もうけたあ〜♪

明日は入試の当番で、またまた面接で受験生のワンパタンの答えを聞かなくてはと、ちょっと気を張っていたのですが、何と無罪放免。小市民Dr.Lukeとしては、こういったささやかなことに無上の喜びを覚える次第^^さあて、どう過ごそうか、と・・・。るんるん♪

「間」のリズム感

いわゆる笑いは「間」のリズム感から生まれる。人の精神はこの緊張と解放のリズムがないと病む。退屈しない話や映画はこの緊張感と解放感のリズムが絶妙なのだ(専門用語では「カセクシス」と「カタルシス」と呼ぶ)。能では「序・破・急」と言う。

そのリズムのスペクトルを見ると1/f型。これは自然界の快適な音、例えば小川のせせらぎや、そよぐ風などのパタン。あるいは快適なクラシックなどの音楽。これは前に述べたカオスとも関係する。

私の最近のここのカキコを心配気に読んでくださっている方々が多いようだが、実はこのリズムがかなり密になっているため。ハラハラ感はこの密度の高さから生まれる。私的には内側から沸いてくるものを忘れないように書き留めているわけ。

神との関係、つまり霊的領域においても同じようなリズム感がないと人は霊的に窒息する。ある本に霊はkinkすると言う表現があったが、まさにそのとおり。糸がもつれて玉ができるのだ。これがほぐれないといのちの流動性がなくなり、内的生活は新鮮さを失うし、時には圧迫を受けることになる。

神は私たちの人生において絶妙に「緊」と「放」を配剤して下さる。かくして人生は縞模様を生み出す。この配剤に信頼して委ね、いのちが流れている時、サラサラと生きることができる。多分私たちの健全な霊的歩みはカオスであり、スペクトルは1/f型であろうと夢想している。

「間」の病理

分裂病の精神病理の専門家木村敏氏の著書に『間の病理』がある。要するに精神分裂病は人間関係の病理であり、「間」の取り方が狂っているというわけ。病んでいる人はこちらにその意図がなくとも、自分の「間」を犯されると感じると、恐れや妄想や幻覚を生じるのだ。私たちの「間」とはかなり食い違う。

私たちも対人関係で混乱を覚える場面は、下にも指摘したように、「間」の取り方を侵食される時なのだ。私の著書でも「間」とはある霊的な何かを指しているかもしれないと述べたおいたが、これはあまり見当はずれではなさそうだ。魂と霊が相互作用する緩衝領域のような印象を受ける。神学では「中間領域」と言い、私たちは「間」と言うわけだが、どうも同じ何かを指しているようだ。

山本七平氏が日本を「空気の社会」と呼んでいたが、「空気」も「間」と同一視できるかもしれない。さらに『甘えの構造』の土居健郎氏は、自身もクリスチャンであるが、「気」の精神病理を論じていた。この「間」とか「空気」とか「気」とか言う対象は、何か同一の「霊と魂の緩衝地帯」を指しているのだろう。

日本文化はすべからく「間の文化」と言える。和室や日本庭園は無駄な空間が実は何かを表現している。武道なども同じ。自分の「間」で、「気」を入れるとき、勝負が決する。

ニッポンキリスト教はこの「間」に対するデリカシーがほとんどない感じなのだ。もちろん信仰は、究極には「自分か、キリストか」の排他的選択を迫られる。これは一種のクライスである。が、それを超えた後はまたある種の「間」ができる。ところが教界ではこの「間」が何か人工的な作為的なものになっている。これがクリスチャンや、特に牧師たちから受ける違和感なのだ。

同じように、私の「間」にフィットする方は私のメッセージを受け入れて下さるようだが、私の「間」を嫌う人はまったく受けつけないようだ。ここにはある種の霊と魂の相互作用から生じる感受性が大いに関係するようだ。

いずれにしろ教界は「間が病んでいる」と言え、木村氏の理論によれば一種の分裂病状態と言える。

ニッポン・キリスト教村のしきたり

ある方がメールを下さって、このサイトでは英語の"born-again"を「再生」と直訳しているが、これはあまりにも初歩的なミスで、日本の神学では「新生」が正しい用語だから訂正されたし、とご忠告をいただいた。「はあっ?」と一瞬思いましたが、「はい、ありがとうございます」と、丁重にお返事をした。ちなみに岩波訳では「再生」と訳しているのですね。(本音:どっちでもいいじゃん)

ちなみにうちのカミさんも薬剤師として薬局で働いているのだが、「お勘定をお預かりします」と答えたら、「それは預かるじゃなくて、・・・だろ!」とマジに"クレーム"をつけた客がいたそうで・・・、こわかったと。

まあ、このキリスト教と言うギョウカイ、どうもそれぞれにシマと申しますか、一定の「何か」を共有できる領域に分かれておりまして、それぞれに方言があり、しきたりがあり、村長(むらおさ)がいて、村民の言動に目を光らせておられるようです。

ある地域には「ありのままでよい」と人気を博している村長、別の地域には「すべてはモーセ律法だ」と叫ぶ戦士、また他の地域には「クリスチャン天皇を擁立したキリスト教国家ニッポンの建国を」と旗を振る元気な衆、はたまた「日本民族一億総伝道福音化運動」を提唱する長老さんたち、これでもかと「現代の使徒・預言者による現代の宗教改革を」と旗を振る革命家たち・・・と。で、普通のオジサン・オバサンたちは何だか物も言えず、ひたすらじっと息をひそめ、窒息していると言うか、霊の息を深呼吸できないでいる。

以前から「このギョウカイは要塞化している」と感じていたが、どうもこれはマチガイナイ。モラトリアムで遊びの多い私などはとても属するところがないというか、入り込めないというか、コワイなあ、と感じるのだ。ちょうど踏み絵を踏まされる感じ。私が言う「遊び」は神学用語では「中間領域」と言うのだそうだが、ここは「普通の感覚」が支配している領域。どうもキリスト教ギョウカイから受けるコワサはこの領域を侵犯される時に生じるもののようだ。

閉鎖社会ニッポンの中の閉鎖社会ニッポン・キリスト教界。ここに属することは私的には主イエスが来られる日まで、いやその日でもできそうもないなあ〜。

すべては実で判定せよ

このところ再建主義の富井氏のBBSとかつて彼と激論を交わされた山谷氏のBBSを行ったり来たりしていたが、かなり面白い、そして重要な論点を拾えたと思う。

再建主義の自己矛盾的分裂病的性質はすでに明らかであるが、彼らが触れている論点はとても大切なもの。そしてニッポンキリスト教がほとんど抜けている部分である。

実は私自身も再建主義のこれほどに深刻な病理は知らなかった。人をどう理解するか、神は人に対して何をしてくださったか、また下さるのか−ここがすべての出発点。これが狂うと、聖書を用いながら、人を忘れた「神学」はある種の狂気へと走るのだ。

すでにゲイリー・ノースは「外れ預言」の前科者であるわけだが、果たして他の再建主義者たちはどのような実を刈り取り、どのような人生を送るのだろうか。これが今の私の最大の興味の中心である。

人間性のあり方

「ヒューマニズムについて」でも少し触れましたが、再建主義の人間性否定は予想以上のものがありますね。富井氏は、ヒューマニズム(=モーセ律法を適用しないこと)に犯されて再建主義に反対するクリスチャンは・・・悪魔の支配下にいる、と主張しています。

やれやれ、スゴイことです。まあ、この手の人に対してはあまりエネルギーを削がれたくはないのですが、論点としてはとても大切なのです。聖書は人間性についてどのように語り、主は私たちをどのように見て下さっているのでしょう:

(1)神は人になられた。イエスは人であるままで天に上られた。ステパノは人の子を見た。そしてそのままの姿で戻って来られる。つまりイエスはいぜんとして人である。

(2)イエスは人としてサタンに勝利し、世に勝利された。アダムが失った傷のない、純粋な人間性は、人の子イエスの死と復活にあって、回復され、さらに栄光化された。その人なるイエスの内に生きた御霊は、私たちの内にイエスを証し、復活のキリストのいのちを実体化される。

(3)古いアダムにある私は肉と共に終わった。霊が再生された私たちは、キリストが回復し栄光化して下さった人間性をも得ている。それはイエスの霊と魂の中で進展してたいのちの再現、あるいは追体験である。

(4)御霊によって私たちのうちにキリストの形が造られるとは、この御霊が届けてくださるイエスの人間性が私たちの霊から魂へと再現することである(メタモルフォーシス)。

(5)小羊はいずれ私たちを花嫁として迎える。それはイエスが分けて下さったいのちを共有する存在であり、新エルサレムでは、神と人が共に住まう。

(6)主は現在もまだ贖われていない私たちの体が弱いことを知っていてくださる。この弱い人間性をイエスは経験され、大祭司として私たちの弱さを思いやり、私たちがチリにすぎないことを心に留めてくださる。

(7)私たちの責任は、アダムにある私の有様を守ることではなく(これが「ありのまま」的ヒューマニズム)、死と復活を経て、キリストのいのちを内に生かすこと。

(8)かくして人間性は神にとってきわめて尊いものである。そもそも敬虔の奥義とは、神が肉において現れることであり、キリストはそれを100%成就された。私たちもその幾分かに与るものである。神は人の中に住まい、人を通して栄光化される方である。

(9)人間性は神にとってとても大切な要素であり、人間性を慈しんでくださる方である。ただし、十字架の適用が必要。なぜなら御霊は十字架によって働くから。それは私にとっては痛みを覚えることもあるが、しかしその時こそ神は甘い。その十字架を経るならば、古いものを脱ぎ捨て、栄光のイエスの人間性を味わうことができる。再度繰り返します:

 内なるキリスト−栄光の望み!

世界の行方

また山谷氏のBBSに興味深い記事がありますね。再建主義のゲイリー・ノースは、再建主義社会が実現する条件は、一度現在の世がカタストロフ(破局)を経る必要があると言っているようです。これに対して財前二郎氏が質問しています:

再建主義はポスト・ミレ、つまり現在はすでに千年期・新天新地であり、これからの世界はあまねくモーセ律法を適用する神の統治による社会となり、この地上に神の国が成就して後、イエスが再臨されると信じます。

一方ディスペンセイションではプレ・ミレ、つまりこれからの世界はますます悪くなり、滅びがおとずれ、その悲惨の極みに主イエスが再臨され、サタンを千年間穴に閉じ込めて地上に王国を設立すると信じます。

再建主義はこの見方を悲観主義であると非難します。が、何とそのメインの論客自身が自分達の主義社会の確立のためには、一度今の世が滅びる必要があると語っているとは!?驚きです。

では、果たして聖書の預言はどちらなのでしょうか。素直に読めばプレ・ミレと読めるのですね、私的には。私の個人的立場はプレ・ミレですが、あえてこれをケンケンガクガクと主張するつもりはありません。その預言を成就されるのは神だからです。

私があえて主張するのは、今この時、いのちを阻害すること、いのちを抑圧する教えに対しては、かなり反応します。私たちは将来に生きる者ではなく、また過去に生きる者でもなく、今に生きる者だからです。この時にいのちを育て、生きることが私たちに課せられている責任だからです。再建主義はあきらかにこのいのちを阻害します。

偶然と必然

山谷氏の掲示板で外科医さまの提起された刑法に関して、決定論か、非決定論かの議論が展開されており、なかなか面白い。

で、われわれ自然科学者からすると、実は、偶然と必然は区別ができないのだ。

例えば、コインを投げたとしよう:

 (※) 裏、表、表、裏、表、裏、裏、裏・・・

と続く時、皆さんはこれを見て、これは必然によって生み出されたか、偶然によるのか、お分かりになります?実は数学的には区別ができないのです!

今ここに非線形変換を

 (※※) a(n+1)=λa(n)(1-a(n))

と定義します。これはa(1)を与えれば、この規則(決定論)によって、a(2),a(3),a(4),...が一意に決まってしまいます。

一方で(※)の系列は実はコイン投げの結果です。さてここで(※※)のλをうまく取り、a(n)が0.5以上ならば裏、未満ならば表に対応させると、あーら不思議。(※)の系列を決定論的な上式(※※)によって作り出すことができるのです!

 つまり偶然を必然から作り出すことができるのです!

このような理論を「カオスの理論」と呼び、現代のひとつの大きなサイエンスの分野を構成しています。

私たちサイエンティストから見ると、神学は単なる言葉遊びにしか見えないが、果たして神学はこういった分野を取り扱うことができるのでしょうか?ニュートン以前と言ったらむくれてしまわれたようであるが、富井氏もぜひ謙虚さを身につけて、もう少し学んでほしいところです。

あと、2週間と3日・・・だ

ふう〜、今日もまた終わり。いよいよカウントダウンです。今年の仕事納めは21日。で、22,23日と福島のS兄弟の山小屋に行く予定。その後26,27,28日と伊豆の温泉。そして歳越しと・・・。

しかし、早い。本当に早い。来年は50ですよ!?私は50なんてのは老人だと思っていましたが。いざ自分が迎えることになるとは!

でもね、本人はいまだに学生気分。何せ、いつも接している連中がみな20歳前後ですから、自然と彼らと同一視しているようです。告白しますと、50歳とかの人と接する時には何だか年長者と接するような気分で、気を遣うのです。言葉もつい敬語になってしまいます。以前、子供たちの参観日などに出かけると、何だかやたらとオジサン・オバサンばかりで、圧迫感を覚えたものです。

まあ、確かにGパンとヨットパーカーでさせてもらえる仕事はそうはありません。と言うわけで、私はどこにいても同じなのです。この「素」と言うか、「地」でいられることはけっこう幸いなんですね。「当たり前さ」の祝福です。こんな感じで「その日」まで生きていくんだろうなあ〜。

というわけで、どうもあまり生活感がないらしいのですが、これでも32歳で5,400万の借金をして、自己破産に直面したこともあるのです。ちょうど今の偽造マンションの住民の方々のように、多額のローンだけを背負わされてね。この裁判は8年かかりましたが、主の約束がありましたので、けっこう楽しかったですね。東京駅前でプラカードをぶら下げて、デモもやりましたね。

ちょっとお話しますと、裁判官はけっこう移動があるのですが、途中で変わった裁判官が元司法修習所の所長で、これが偉ぶっているわけ。原告である私たち庶民に対して目一杯威張りくさって、被告の大企業にはペコペコ。で、私はすぐさま彼をプロファイリングして、その弱点が見えましたので、彼に丁重にお手紙を書いたわけ。

で、これがズバリ!次回の期日からわれわれ原告の顔色をチラチラするようになって、最後まで私たちのペースでしたね。偉ぶった人ほど、実は内面の弱さを隠しているのです。そこを突けばコロリです。300億の残債をチャラにして、7億5千万の和解金を取りました。

みなさん、裁判というものは、実は、法廷の外で決まります。そして弁護士を使うなら共産党系の弁護士を。損得勘定抜きで彼らの正義感と情熱はすごいです。彼らには本当に敬意を払いますね。クリスチャンが共産党員に助けてもらったのです。

(なお、念のため、私が書いたのは脅迫状ではありませんよ!)

民営化の限界

本日で駿台は終了。これで木曜日が空きます。受験生はこれから、私も大学の方は入試で忙しくなるわけ。一方で受験生を大学に入れる仕事を、他方で学生を取る仕事をしていますから、何だか不思議な立場ですね。で、医系予備校あたりでは、裏ルートなどもできてしまうことがあるとかないとか・・・。

審査をされる側とする側が共に同じ利害関係のベクトルを持つと、今般の建築設計書偽造事件になるわけです。この辺が民営化の難点でして、やはり国家でなくてはできない分野があるのです。

ところが再建主義では、(モーセ律法を採用しない)国家はすべからくヒューマニズムの権現ですから(よって、神に敵対する)、例えば、教育なども子供たちを国家に委ねるな、という発想になるのですね。自前でモーセ律法を叩き込むことが彼らの教育の目的です。これがホームスクールやチャーチスクールのルーツです。

しかし民営化で市場原理に基づいて自由競争する領域とそれをけん制する機関が必要なんですね。で、クリスチャンは国家のために祈ると・・・。そもそもこのような国家不要論的思想は果たして聖書的でしょうか?初期の兄弟姉妹はローマ帝国に服していましたよね?また、そうせよ、とパウロは命じています。当時のローマはモーセ律法を採用していましたか?私たちの信仰と良心を犯さない限り、私たちは国家に服するのです。

このように再建主義は「律法をすべての領域に適用せよ」と言いながら、もっとも本質な御言葉を自分が無視していることに気がついていない。「御霊に従えば律法の要求は満たされる」と書いてあるのに!?彼らは自己矛盾です。だから議論がもつれるわけ。しかもそれに気がついていない。病識の欠如は重症です。

すべての権威のルーツは神です。霊的にも、家庭的にも、社会的にも、適切な権威に服することは、私たちの健やかさにとってきわめて重要なファクターです。服していれば、自動的に油が垂れてくるのですから。

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

ヒューマニズムについて

再建主義に関してはすでに十分なほどに判断材料が揃ったと思います。それぞれで判断がなされることと期待いたします。

で、ひとつ確認しておきたいのは、Dr.Lukeもヒューマニズムを批判しているが、富井氏はDr.Lukeをヒューマニズムと批判している、どうなっているのだ、とのご質問を受けました。

これは実に面白い論点でして、「ハシ」と言っても、「端」なのか、「橋」なのか、「箸」なのか・・・と言うことなんです。

再建主義では超民族化・普遍化されたモーセ律法を適用される領域が神の御国であって、教会からこの世へとその適用範囲を広げることが御国の拡大なわけです。現在は法的に千年期であり、新天新地であるから、これが実際的にも全地に成就されるときに、主イエスが再臨されるわけです(ポスト・ミレ)。

つまり彼らからすれば、モーセ律法が適用される領域とされない領域しかなく、適用されていない領域がヒューマニズムに冒されている領域になるわけです。そこでは「生まれつきの価値観」に従うわけで、すると獣姦も犯すと言うわけ・・・(言うべき言葉が見つかりません)。お分かりになります?彼らの踏み絵は、「あなたはモーセ律法を受け入れますか、拒否しますか」なんです。

しかし私の言っているヒューマニズムとは、私の十字架の適用を排した「愛」とか、「赦し」とか、さらには「福音」なのです(主の十字架はすでに成就)。十字架とは、すなわち、死と復活の原則です。「最初のものは肉のもの、後から来るものが霊のもの」(1コリント15:45)。この自己の経験的死を経ていないものがヒューマニズムです。

私の言うメルキゼデク系の律法とはいのちの御霊の法則であり、これに従えば自動的にモーセ律法の基準はまっとうされます(ローマ8:4)。これが再建主義者には分からないのですね。何度もWindowsとMS-DOSの関係で説明したのですが。先入観とは恐るべきものです。この法則は十字架、つまり死と復活の原則に従って働くのです。

ポイントはアダム系いのちから、キリスト系いのちへの乗り換えです。私のいう御国の拡大とは、自己ではなく、キリストのいのちの領域の拡大です。だから昨今の砂糖まぶしの「ありのままのあなたでよい」と言った「福音」に対して、私は警鐘を鳴らしているわけです。ご理解いただけましたでしょうか?

ご苦労いただいておりますm(_ _)m

何だかけっこうアチコチで物議をかもしているんですね、私のMSG。牧師先生に知られるとヤバイとか、地下でかなり回っているようで、大手の教会の兄弟姉妹の間でも密かに回っているとか。「うちの先生はこう言っているけど、ルークさんはそう言っていないから・・・」とか。サーヴァーのログを見ても日曜日の夜から月曜日はアクセスが殺到しています。で、回線がふさがってしまって、御不便をおかけしているのですが。

ここでぜひお願いしたいのは、「ルークさんがこう言った」ではなく、御自分で聖書を開いて確認して頂きたいのですね。

ここ(ベレヤ)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

今朝石原慎太郎氏が、新著を紹介しつつ、「子育ての秘訣はエゴの発達した自律した人間にすること、そのためには殴ることも必要。しかし私は理解されない人間だが、自由でいたいのだ」と言っておりましたが、私的には結構賛同なんですね。まあ、ニッポンキリスト教ではまずアブナイ思想となるんでしょうけど。しかし彼の得た実(4人の息子たち)とニッポンキリスト教の牧師の実(ビョウキの息子たち)を比べて御覧なさい。どちらが真理かは一目瞭然でしょう。箴言をご自分で読んで見てください。子育てについて何と書いてあります?

こんな次第で、ニッポンキリスト教はすでに御言葉から離れ、むしろ世の価値観、それも相当に病的な価値観に染まり、倒錯した世界になっているわけです。表向きは「世から聖別されよ」とヒステリックに叫びながら、実は世に働いている霊の幼稚な教えにドップリです。一方でいのちを無視した再建主義のような思想が入っているのです。

ぜひ、『カッコーの巣の上で』というジャック・ニコルソン主演の映画をご覧下さい。精神病院を舞台としているのですが、患者たちが正常で、ドクターやナースが異常と見える倒錯した世界を描いています。もし周りがみな分裂病や妄想性人格障害者だったら、こちらが異常となるわけ。で、これがすでにニッポンキリスト教界では起きているんですね!エクソダスして、関わらないことが無難です(くれぐれもビョウキの人とはガチンコしないこと)。

同様に、議論でも相手をねじ伏せる必要はありません。そんな「勝利」はナンセンス。相手の病理性を議論の過程で暴き出せば良いのです。まともな人ならば、その人の主張の是非ではなく、その人の人格の現われを判断するはずだからです。このあたりはトム・クルーズ主演の『ア・ヒュー・グッドメン』をお勧めします。ジーン・ハックマンが偏執質者のイイ味を出しています。

まあ、時が中世ではなくてよかったです。私などは一発で異端裁判で処刑されるでしょうからね^^今のところ映画も温泉も楽しめますしね。今6階の窓の外に見えるイチョウの木々もま黄色に色づき、そろそろ葉も落ちて、木々が裸になりつつあります。このサイトもまた冬ヴァージョンにしなくてはと思いつつ、移りゆく季節を味わい、生きることを愛でたいと感じている今日この頃です。もちろんインマヌエルなる主と共に。

Blessings!