信仰

言葉と実体

昨日紹介した本では聖書の写本の歴史や本文を再構成する手法などが紹介されており、知的にはかなり面白い。例えば一つ紹介しましょう。

1テモテ3:16に

キリストは肉において現れ、聖霊によって義とされ・・・

とあるわけですが、KJVでは

God was manifested in the flesh, Justified in the Spirit...

と「神が肉において現れ、聖霊によって義とされ・・・」となっています。

この相違はどこから出るかということですが、ある写本を見ると"ΘΕΟΣ"(God)と言う単語を短縮形で"ΘΣ"(上に短縮の記号バーを付ける)と書くそうです。ところが写本を良く見るとこのバーが他の部分とは違うインクで書かれており、後代の付けたしと分かり、しかももっとよく調べるとΘの中の横棒は実は裏に書かれたインクの染みだと分かったとか!つまりここの単語は"ΟΣ"(関係代名詞のwho)だったのです。そこで正しい意味は、「肉において現れたところのキリストは聖霊によって義とされ・・・」と言うわけです。で、これでキリストの神性が削除されます。

皆さん、いかがでしょう。インクのシミとか、ちょっとできすぎだよと感じませんか?(松本清張の小説に油絵の中についていた昆虫の羽根が犯人特定の決め手になったのがあったが、何だか似てるぞ・・・)こうして新約聖書の中にはキリストの神性を明示している箇所はないのだ、と聖書本文学的には結論されるのだそうです。エホバの証人が喜びますね。

ここで問題は聖書テキストだけを相手にして信仰を持とうとする姿勢ですね。信仰は聖霊が内側で私たちの霊に働きかける結果として生まれます。すでに存在する霊的リアリティを語って下さるわけです。ですから原文はギリシャ語であったとしても、日本語訳に触れる私たちでも信仰を持ち得るわけです。白黒の文字で指し示されている霊的事実を実体化することが信仰の作用です(ヘブル11:1、ダービー訳)。

アップロードファイル 70KBかくして理屈を超えて分かるわけですね。そうでなければギリシャ語どころか、日本語すら危うい私たちのような者が救いに与ることができるでしょう。マックスウェルの電磁気学は4つの微分方程式で書かれていますが、それを知らずとも、あるいは試験でちょっと×と・を間違って書いてしまっても、誰でも電磁気の恩恵に与ることができるのです。それが眼です。眼の網膜による電磁気(光)の情報処理手法を知らなくても、単純に瞼を開ければ、光は入ってくるのです。視力は電磁波を実体化するのです。実にありがたいことです。と、思いません?

信仰は望む事柄の実体(substance)であり、見えない事柄の証拠(evidence)である(KJV)

今日の一言

茨城県のある姉妹との交わりが与えられ、4人で交わりの時が持てた。とてもリラックスして交わりをエンジョイできた。その中でS兄弟が教えてくれたウォッチマン・ニーの言葉を思い巡らしているところです。彼の生涯はここでも何度も紹介していますが、その彼がよく語った言葉:

・・・あなたは神です

深いです。

地上の幕屋を脱ぐ日

わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。

とパウロは言っております。若い頃は肉体を思うままに使っていたものですが、最近はけっこう不自由を覚えるようになっています。と言うわけで、術後の炎症でやや熱が出ておりますので、早めに寝ることに致します。皆さまからお見舞いのメールをいただきまして、ありがとうございます。

アップロードファイル 497KBウチから見える富士百景。表情がけっこう変わります。

CT包囲網

昨年の10月から関わってきたクリスチャン・トゥデイ問題ですが、一応教界の共有問題として、同紙やACMを監視する日韓での"公"の働きができました。先にそれを匂わせて置きましたが、公知の許可がおりました。詳細は少佐のBlogを参照して下さい。私的には個人レベルでの問題意識と追求を離れたということで、CT側から約束の財務諸表の提出がなされ、諸々の一次資料が整い、彼らとの会談の条件が満たされるまでは、本件とはやや距離を置こうと考えております。少佐もとりあえずここまでご苦労様でした。

ぶよとらくだ

いやあ、実に興味深い。Dr.K氏の御言葉の解き明かし。主の御言葉は旧約の実体化としつつ、ぶよとらくだの喩えを解き明かされています。繰り返しますが、実に面白い・・・。ちなみに前の日のへらず口を読みますと、主も相当に皮肉屋さんだったと分かります。律法学者がトサカに来たのも分かりますね^^

みことばざんまい

うれしいメールをいただきました

Mさんがこの秋から英国のKingdom Faithのバイブルカレッジで学びを始められるそうです。現在日本のあちこちでThe Way of the Spiritの学びを始められた兄弟姉妹が起されていますが、まだKFCはほとんど知られていません。こうして日本から向こうに行って学びをされる機会を得られたことは素晴らしいと思います。Mさんの学びに豊かな祝福と油塗りがありますように!

こんにちは。
以前、英国KFCについておうかがいしたMです。
 先日、英国へいってまいりました。カレッジのオープンデイに参加し、今秋の入学を許可していただきました。感謝です。とてもいい雰囲気のカレッジですね。
 またホーシャムでの礼拝と、ロンドンのKFの礼拝に出席することができ、すばらしい賛美と力強い聖霊さまの臨在に満たされ、喜び踊りました!
 神様をほめたたえることに焦点をあてた本物の賛美に出会うことができ、とってもうれしいです。
 夏のフェイスキャンプからイギリスでの生活を始めたいと願っています。
神様の守りの中、すべての準備をすすめていくことができ進むべき道が開かれるていくよう、さらに祈り求めていきます。

石打刑を骨抜きにするようなキリスト教はキリスト教ではない

と再建主義の富井氏が言っておられます。

つまり、新約時代において、律法は、「確立された律法」に変わったというのである。

つまり、旧約時代の律法は無視できるものに変わったという今日のクリスチャン一般が信じている教えとは逆に、聖書は、旧約時代の律法は確立され、バージョンアップした、と述べているのである。
・・・
むしろ、「石打刑をバージョンアップすると何になるのか?」という疑問を呈するべきである。
・・・
「あなたがたは○○と聞いています。しかし、私は言います。・・・しなさい。」
これは、バージョンアップである。新約時代の律法である。
「姦淫するな」というのは旧約聖書の律法である。しかし、イエス・キリストによれば、それは「情欲を持って女を見るものはすでに心の中において姦淫を犯した」という律法にバージョンアップしたのだ。
・・・
ディスペンセーショナリズムは、恵みの時代の人々にとって律法はもはや無効である、という。
そうじゃない。むしろ、厳しくなったのだ!!!
それは発展し、確立された律法に変化した。

だから、石打刑についてもこのように考えるべきである。
・・・
神のこのような戒めを実践するときに、我々は自分が思い描いていた神と、実際の神との違いに気づくだろう。
神は、義なるお方でもある。そして、その神の義は、犯罪者に石をぶつけて殺すことを要求するのである。
・・・
それに気づいて聖書の神観念を受け入れられるならば、あなたは、真のクリスチャンである。
もし受け入れられないなら、あなたは偶像礼拝者である。
・・・
もしあなたが、殺人犯に対して石をぶつけて殺すことができなければ、あなたの宗教とはキリスト教ではない。
・・・
律法は、一点一画たりとも廃棄されていないのだ。律法は、むしろ確立され、不動のおきてとして心の板に刻まれているのだ。
・・・
誰でも石打刑から何かの要素を取り除き、その律法をダウンサイズしたり、劣化させるならば、その人は偶像礼拝者である。
神の義は、故意の犯罪者を石で打つことによって処刑することを求める。

この律法は確立された。この義のおきては、バージョンアップされた。バージョンアップされたということは、「やさしくなった」ということを意味しない。

姦淫が実際的行為だけではなく、心の姦淫も含むというように厳格な方向に変化したように、石打刑も厳格な方向に発展した。

このような考え方をしないキリスト教とはキリスト教ではなく、ヒューマニズムである。

「ヴァージョンアップ」と言う言い方は私の影響でしょうか^^が、どうも通じていないわけです。ニッポンキリスト教界、実に、ほんとにイロイロです。

『金妻』クリスチャン・ヴァージョン^^

昨日の『金妻』に対してとても楽しいレスをいただいておりますので、ご紹介します:

Yさん:いやー、最後の『金曜日の妻たちへ』には爆笑しました。

こちらではなんだか、親戚・友人・兄弟でもうやっておりますよ、楽しくお食事を。ガス問題をかかえつつも、ますます集まりそうな予感・・。

これにいのちを感じるクリスチャンの小さな交わりがプラスされた感じ。(これがすごいもりあがり、あたりまえだけれど・ノンアルコールでね♪)

それではー。

小生:そう、こういった交わり(コイノニア)があちこちにできるのが私の夢なのです。

Yさん:交わってみてすごいのは穏やかなものが流れ、まるで温泉につかったようになります。ただ一緒にいるだけで。それで、また交わりたくなるんです、皆同じ気持ちですね。「御霊に満たされなさい」お言葉どおりです。

小生:そう、これこれ、この体験ですね。牧師なんて不要でしょう(笑)

ちなみにemiさんも同様の証しをされています(→コチラ)。信徒の交わりこそが教会(エクレシア)の表現なのです(使徒2:42)。教会を牧師の野心実現の場あるいは牧師の生活維持の場としないように。「現代の宗教改革」などの妄想に振り回されないように。「リバイバル音頭」なども踊る必要もありませんし、自然と、力を入れず、楽しく、ぬくぬくと、キリストを中心に集まり、キリストとそれぞれの生を共有すればよいのです。あえて言えば、リバイバルとは牧師が失業することでしょうね(笑)

Is'nt it so simple, is it?

CT雑感A

午前中、人間ドッグ。いつもどおりの検査項目で、脳ミソ以外のひとおりの臓器を確認した。

 * * *

クリスチャン・トゥデイについて、今回はその精神病理的側面について、もうちょっと書いておきましょう。

彼らの病理的特徴に二つの顕著な点が見られた:

1)パラノイド傾向
これは自分の中にある敵愾心や憎悪を相手に投影することにより、相手が自分たちに敵意や憎悪を抱いていると感じる心理機制である。これが昂じると周りの人が自分を攻撃していると感じる被迫害念慮、さらに進むと被迫害妄想まで至る。カルトの教祖や独裁者(さらには牧師も)がよくこの病理に陥り、自分の身を守るために彼の目から見た"反逆者"を粛清することがなされる。訴訟を次々に連発するものこの病理による。一言で言えば、疑心暗鬼の心理。「やられる前にやる」わけ。

事実記者の矢田氏は私に対して「クリスチャン新聞が私たちを日本から排除するために偽りの文書を撒いたために、自分たちは迫害を受けた。先生には事情を正確に理解していただいて、自分たちの味方になってほしい」と言っている。また高柳氏は、当初救世軍側から御茶ノ水OCCビルでの会談の提案がなされていたのだが、不明の理由によって病的なほどにそこを避けた。彼の過剰防衛の姿勢の現れの一つであるが、完全にパラノイドの心理状態にあると判断される。

彼らの目から見ると、なぜ自分たちがこれほどに批判を受けるのか分からないのだろう。会談でも心証によって判断されることを極度に警戒しており、客観的証拠を提示せよと訴えていた。ちなみに彼らからは何も証拠が出ないのだが。ここでも他者の評価を病的に恐れる心理が垣間見える。財務諸表などが出るかどうか不明であるが、会談の時には「親から金をもらったとか、外国のCTから援助されたとかが明らかになると、CTの信用が失墜する」との旨を訴えていたが、これも疑心暗鬼と警戒心からの発言であろう。

現在の彼らからすると、周りがすべて敵に見えるようになりつつあるのだろう。かくして会談でも主張したように、彼らは裏に福音主義の自分たちを排除しようとする陰謀があるのだとすべてを解釈するしかなくなる。これはオウムでも見られた現象である。原因が自分たちにあることの認識がほとんど欠如しているままに。

2)虚言性向
以前、私に対して矢田記者は、自分は学生ではないと明言していたが、今回の会談の時に学生であることを認めた。また高柳氏の言葉上は、CTがベレコムや財経新聞社と人的また資金的な関係がないとしつつ、登記簿によれば役員がほとんど兼任されている。ここで彼らの頭の中での世界像と、現実に乖離があることが分かる。このように嘘で固める手法はしばしばカルトでは行われるのだが、これで彼らは墓穴を掘る。

この虚言性向は彼らが現実と乖離したある種の仮想空間に生きていることのひとつの兆候である。先に書いたとおり、彼らの認知と行動はわれわれの世界から乖離したプロトコルによってなされているわけ。これがために社会と常に齟齬や摩擦を起し、その外部の反応を自分たちに対する故なき批判や攻撃と捉え、(1)のパラノイド傾向をさらに強めていく。かくして現実との乖離とカプセル化(孤立化)が極点に達する時に、オウム的犯罪なども成立し得る。

3)まとめ
以上のパラノイド傾向と虚言性向は、実はひとつの病理=現実との乖離・遊離=によって生じるものであり、すでに会談に参加した3人についてはこの兆候が見られている。このような点から見ても、彼らについてはティピカルと言わざるを得ない。

自然法の否定?

再建主義の富井さんが、再建主義の批判者は自然法論者であるが、自然法はすでに理論的に消滅していると主張されています。実に面白い。これについてはロマ書2:14-15の御言葉を指摘すれば事足りるが、ちょっと突っ込みましょう。

彼は「認識論で失敗すれば、すべてを失敗したことになるのだ」と主張される。ところが再建主義の基礎であるとするカルヴァン神学自体がわれわれの認識能力によって判断し得ないことを判断していることによって自己撞着に落ちているのだから、再建主義は根底から破綻するのです!

・・・と言っても聞く耳を持たないでしょうね(→こちらを)。特にカルヴァン神学あたりを信奉するオツムのよろしい神学者の精神病理から診ますとね(苦笑)。われわれサイエンティストからすると、神学者の議論は・・・あ、繰言になるのでやめましょう。

CT雑感

本件について前回の会談に立ち会った限りにおける私の印象をメモっておきます:

1)3人について:とてもまじめであり、純粋さを感じますね(これが危ないわけですが)。ただk氏のBlogなどもそうですが、幼稚さが目立ちます(山谷さんをサイバーテロリストにするとか)。その分、一度はまるとまっしぐらになるわけです。この3人に限って言えば、社会経験と常識の欠如が顕著で、自分内の論理とプロトコルで動くために認知と判断が普通とはずれるわけです(カプセル化現象)。例えば私と何の面識もないのに、いきなり自宅に電話してきて、明日会え、と求めることの非常識さがまったく理解できていません。よって、会談でも申し上げたとおり、今後も問題を起すでしょう。

2)ACMとかダビデ張あるいはその団体の歴史や背景について、彼ら自身もあまり知識と評価がないような印象を受けました。そのあたりに対する突込みがないままに、今見た光景に感激して血気にはやってこの働きに邁進しているというか。ある面で利用されている部分もあるのかなと。ただジャーナリストとしてはこれは致命的な資質の欠如です。記者として記事を書いたツモリになっているのでしょうが、ゴッコの世界です(苦笑)

3)結局、新聞が公器と言う認識がほとんどなく、小学校の壁新聞作りのノリなんでしょうね。あくまでも彼らの団体の中でのメディアにとどめておけば、つまり一種の同人誌的性格にとどめておけば、何も問題がないのでしょうが、この業界で公器としての立場と評価を得ようとするところに無理があります。

4)彼らの反応については、カルト特有の要素を多々覚えますが、これがカルトの病理だけなのか、若さゆえの視野狭窄的反応なのか、前回だけでは判断ができません。おそらくこれらの要素が混合していると思います。ある種昔の学生運動のノリも感じますし、昔東大の駒場キャンパスで自治会を乗っ取ろうとする原理研の連中とやり合ったときの臭いがぷーんとしてきて、懐かしくもありました。

5)山谷さんによりますとACMの教義は出版物もほとんどなく、その学びも秘密化されており、ネット学習でも段階を経て開かれるようなシステムがあるようですから、この教義の検討は困難かも知れませんが、今後きわめて重要になると考えます。表向きは福音主義を唱えるわけで、本音と装飾が乖離しており、しかも巧妙にカモフラージュされていると推測されます。現時点では脱会者ノートが頼りとなるわけですが、「モノ」が入手できることを願っております。しかし彼らとの議論では水掛論になるでしょうね。これがそもそもおかしいわけですが。

という訳で、私としてはハードエヴィデンスである財務諸表の提出を求めたわけですが、どうもあまり触れられたくない点のようですね。

パワー・フォー・リビングに想う

このCMはかなりあちこちで議論を醸しているようだ。かつてオウム真理教がらみで活躍したドクター苫米地氏も「狂っている」と言っている。彼もオウム・シスターズの長女と結婚して物議を醸したのだが、本件では私も同意である。

私的にもこういった金にモノを言わす伝道は生理的拒否反応を覚えると書いた。このところCTがらみでリバイバル新聞の谷口氏と意見交換をする中で、この話題も出てきたのだが、彼の表現が面白かった:いわく「日本人を理解しないアメリカ的なB29の絨毯爆撃のような感じである。日本人は大間のマグロのように一本釣りの美学を持つ国民である」と。「マグロの一本釣りの美学」にネタになるぞと私も感じ入った次第。彼はこういった手法自体を否定はしないが、一対一の伝道ができていない現状に危惧を感じているようだ。

日本人の感性を一切理解しないいかにもアメリカ式伝道。本の内容自体はごく一般の福音トラクトではあるが、またこれで無神経な「アメリカ式」にかきまわされると思う。昨年のベニー・ヒンが『君が代』を歌わせた一件も、同氏は「精神的レイプ」と表現されるが、まさにそのとおり。歌わされた女性歌手のことがやや心配である。

ニッポンは対米関係において、開国で<政治的去勢>、敗戦で<軍事的去勢>、バブル崩壊で<経済的去勢>を受け、そして本件などで<霊的去勢>を受けつつあるのだ。子供が少なくなるのは物理的だけでなく、霊的にも言える。霊的特殊合計出生数は果たしてどのくらいだろう。下手をすると「牧師は信徒を生む機械」説も出るかも・・・。

このような中で神のご計画におけるニッポンの使命とかを追求し出して、例の日ユ同祖論などが魅力的に見えてくるわけ。肉のものと霊のものを混ぜ合わせる危険性は以前にも増して高まっている。ここにパワー志向、メガチャーチ志向、そして「キングダム・ロスト」の世界への憧憬が生まれるのだ。しかし私的にはニッポンキリスト教は一度完全なる死を経る必要があろうと感じている。業界で商売している人々にはあまり歓迎されない真理ではあるが。

律法のゆくえ

再建主義のBBSではまたもや「律法は廃棄されたか」の議論が再燃しているようですね。例によって富井氏はこう言われます:

ガラテヤやヘブルなどで、パウロが「律法は廃棄された」というような表現があるのは、動物犠牲などの「影」がキリストという「本体」に変わったということを表現したものです。・・・

旧約時代に特定民族(ユダヤ)に与えられた律法は、新約時代に全民族に与えられたのです。・・・

それゆえ、民族的な戒めは、超民族的な戒めに代わりました。・・・

律法の一点一画たりとも廃棄されておらず、それゆえ、律法を研究して、それらを我々現代の日本社会に適用することが必要です

つまり律法の本体であるキリストが来られて律法を成就され、その律法は超民族的にされたと言うわけです。つまり適用範囲を広げたわけで、これがメルキゼデク系祭司制度の律法であると。・・・かすっているのですね。

キリストは律法の本体、そのとおりです。キリストは律法を廃棄するために来たのではなく、むしろ成就された。そのとおりです。そのキリストが今私たちの内に住まわれ、私たちのいのちとなって生きてくださる。だから石の律法は不要になったのです!私たちの内に働くいのちの御霊の法則を信仰によって生きるとき、私たちは石の律法の基準も自動的に満たすのです。だから

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。

なぜなら

肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。

すなわち

一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。律法は何事も全うしなかったのです。他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。

さらにすぐれた希望とは何でしょうか。

神学論争の本質は、実はきわめて心理学的なもの。認知と認識のフレームの違いなのですね。一度色眼鏡をかけてしまうと、そのフィルターを通してしか見る事ができなくなります。しかも神学者は立派な方が多いのでしょうが、残念ながらその人間の認識の限界を知らない。それゆえに<カルヴァンvsアルミニウス>と言ったナンセンスな議論に落ちて、互いに異端だカルトだとレッテルを貼るわけです。この世界、実にご苦労様なことです。こう言う時には

野の花を見よ、空の鳥を見よ

と言う主イエスのことばが沁みるわけです。

で、今晩はクリスチャン・トゥデイと山谷少佐の会見の証人として出て参ります。私も2,3突っ込んでみようと思っていますが。

ご紹介

天理カナン教会のSalt氏の音声メッセージのアーカイブができました。いずれも私とは違った味わいがあります。こちらをどうぞ。

salt of the earth:messages (mp3)