独り言

福井総裁・・・

困ったことになりました。福井氏の金融コントロール手腕は、クリスチャンであった速水氏よりも上であると思っているのですが、残念ですね。こんなことで辞めさせられてしまったら、他に適材がいません。確かに下手をすると究極のインサイダーになるわけですから、やや脇が甘かったと思いますが。せっかく株も切り返してきていますし、今、日本経済にとってとてもクリティカルな時期なのですから、彼の個人的な部分と公的な働きの部分を分離して考えて欲しいとも思うのですが。彼を追い詰めれば、けっして日本経済にとって益にはなりません。私的には、人間味と愛情豊かで倫理的にも立派ではあるがメスの切れない外科医よりも、冷酷で愛のない倫理も劣るがメスの切れる外科医にオペをしてもらいたいと前から言っているとおりです。

訂正:下の綾香ちゃんは9歳でした。それにしても最後の食事が180円のカップ焼きそばとは・・・・。

痛ましい・・・

鈴香さんは、週刊新潮によると解離性同一性障害傾向を見せているようです。いわゆる多重人格障害です。綾香さんの告別式の後、喪服のままでコンビニで1時間も立ち読みをしていたり、とにかく普通ではないとのこと。他者との人間関係が築けず、大人しくいるかと思うと、突発的に怒り出すなど、境界性人格傾向も混ざるようです。聖霊派あたりでは「悪霊に憑かれている〜」とかやるのでしょうが、私的には精神病理学的に非常に興味を引かれるパーソナリティですね。

しかし刑事さんたちからするとこれはなかなか大変です。自供を引き出しても、果たして公判を維持し得るだけの効力があるかどうか。客観的な証拠固めを相当にしておかないと、下手をすると法廷で何の躊躇もなく供述を覆します。多分弁護側は精神鑑定を要求して、責任能力の有無を争うでしょう。宮崎勉事件と似てきました。

そしてもっとこわいことは、綾香さんに他殺だけでなく、自殺の可能性も浮上しているとか。たった6歳の子がこの世に居場所がないとして、死にたい、と漏らしていたようです。家に男が来ているときには、カップラーメンにお湯をもらいに近所を訪ね歩いたりと、なんとも悲しく、痛ましいことです。

何か変だよ

鈴香容疑者の供述を弁護士が詳細に記者会見でしゃべる光景。「どうしてうちの彩香だけがいないの。苦しくて、切なくて・・・気がついたら力一杯・・・」と言う彼女の主張。しかも供述も二転三転。被害者家族が聞いたらどう思うだろう?彼女は相当に狡猾でしたたかですよ。虚言性人格障害の兆候は明らか。彼らの得意技はマニュピレーション(人を操作すること)。オウム裁判でもあったが、「人権」と言う大義名分の下、弁護士が振り回されると言うか、利用されるパタン。この点では再建主義の富井氏に賛同したい。

WC2006

私はあまりサッカーは好まないので(観ていると疲れるのだ)、昨日も11時に寝てしまった。俊輔が何気に蹴ったボールがラッキーにも入ってしまったところだったが、「これを守る姿勢になったらダメだな」と思って寝た。案の定、今朝起きてみると、最後の10分で3点取られたと・・・。ドーハの悲劇もそうだったが、最後勝利を目前にすると緊張の糸が切れてしまうのだろう。体力的にもきついようだ。これから王さんのような劇的な逆転が起こるのだろうか?(しかしサポーターの人は元気ですね〜)

心模様

高校時代、ギターを鳴らしつつ、井上陽水の『心模様』にはまった時期があった。鈴香さんの供述の様を見ているとまさにエレミヤ書の言葉どおり:

人の心ははなはなだしく病んでいて癒し難く、よろずのものよりも偽る。

病んでいる心に映ることばは、その心の凹凸を繁栄して、歪曲されている。人がペラペラと語ることばには真実はまずないと見るべき(村上君も同じ)。人は自分の真実を突かれると必ず怒り出すもの。それほどに真実には触れられたくないわけ。主はサマリアの女や律法学者に対する際、あえてそこに触れた。女は渇きを癒されたが、律法学者は主を十字架につけた。現代の教界の十字架を回避した人を気持ちよくするカウンセリングなどは互いに偽りのロールプレイング・ゲームをしているだけ。すでに商売だから。教会が商売になったらまさに絶望だけ。商売をする先生たち、それはぜひこの世で大いにやってもらいたい。

完落ちか、半落ちか・・・

秋田の事件では自供を始めたようですが、まだ30%程度しか語っていませんね。しかも相当に自分に都合がよくなるように脚色しています。私は心を病んだ人たちの話はまずまともには受けません。彼らは被害者になるのが得意であり、人の同情をとてもうまく引く術を心得ています。特に女性の言葉はまず真に受けてはなりませんよ、殿方たち。霊的には自己憐憫の霊がなせるわざ。

このような人々を相手に刑事さんは「落とし」ていくわけですから、キリスト教界の生半可のカウンセラー(このギョウカイのカウンセラーなどはほとんどインチキです、実際)以上に、人の心の機微を知っているわけです。最近テレビでよく見かける元刑事の北芝さんが「心の液状化現象を作る」と言っていたが、なるほどイイ表現。

ちなみに刑事には二種類おりまして、人情を知り尽くした「落とし系」と、強面の「実戦系」があります。かつて寿町で教会の留守番をしていたら、パンチマーマで黒背広の二人のお兄さんたちが来たわけ。「自分たちは昔ここの先生にお世話になった者だが・・・」と、静かだが有無を言わせないエラク迫力を伴った声で言うわけ。私はてっきり組の方々と思ったのだが、話をしているうちに実は刑事だったと分かり、なるほど組の事務所と刑事部屋は同じだと納得した次第。いやあ〜、スリルがありました。実際の話として、寿町では某組の組長だったおっちゃんとも知り合いましたが、彼らの方が現役の刑事よりも柔和なんですね、以外にも^^。

鈴香さん―これはなかなか手ごわいですよ。

何か変だよ!

民間取り締まり5505件5日間で、作業スムーズに

「人が安息日のためにあるのではなく、安息日が人のためにあるのだ」ならぬ、道路は何のためにあるわけ?配送業者や道路端のラーメン屋さんが気の毒。暇をもてあました警察OBの隠居仕事。確かにイギリスでも民間人がやってますが、道路はけっこう駐車場として自由に使われていましたよ。

人格障害者と犯罪

今回の秋田の事件で公開された彼女のビデオにおける行動と発言を見ていると、自己愛性人格障害および虚言性乃至演技性人格障害あたりが疑われる。自分の娘の死に対しては実に巧みに「被害者」を演じており、また男児の事件でも「親しかった者」の役割を実にうまく演じている。あれが演技やウソと思う人は、少なくともビデオを見る限りないであろう。彼らはそうやって生き抜いてきているから。自分でもその役になり切ることができるのだ。

この点、和歌山カレー殺人事件の真澄氏ときわめて類似する。彼らの特徴は自分本位な価値観と世界観に生きることにより、一種の異様な雰囲気を漂わせる。そして発言も周りの空気が読めないため、浮き上がる。かくして孤立感を強め、そのはけ口として子供などにあたることはよくある。今回最悪の場合、女児も同じ手によって殺害されている可能性が高い。孤立感・疎外感を持つ人格障害者による犯罪はまさに人間のつながりが切れてしまっている現代の象徴だ。

村上ファンドvs地検特捜部

また金曜日の午後のひと時、iTunesのJazzでまったりしております。しかし日の経つのが早い・・・。

昨年10月16日村上ファンドが気に食わないと書いておいたが、今回ついに特捜部が入るようだ。彼はどうもどこか病的な感じがしますね。目がおかしい。価値観がただ金だけ。自分のコンプレクスの裏返しとして金で成り上がっているような印象。特捜部が動く以上、逮捕でしょう。

主はやはりこの世の王でもあります。「再建主義」社会を作らなくとも、主は検察を用いてご自身の義を実現することができるのです!でもね、富井さんも言っていますが、例の放置自動車の民間人による摘発はちょっとご遠慮。窒息社会ができてしまうでしょう。遊びが要るのです。再建主義は厳格なモーセ律法の適用と説くのに、このようなテーマでは私と同じことを語る・・・不思議なのです。意見が一致する部分がかなりあるのですね。

仕事と遊び-歎異抄から-

これらは区別がない方がよい。橋田先生的には「仕事をしている時も、遊んでいる時も、同じ心持であるべし」となるかな。区別する心が苦痛を生むわけ。生と死を区別すれば、死は恐ろしい。人間の苦悩は善と悪を知ってしまったこと。この二元論的世界に生きること、これが苦悩のルーツである。歎異抄の親鸞の言葉に次のようにある:

みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ、さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まうすところの念仏をも自行になすなり。

要するに善悪の二元論に生きることは、法則の不思議に頼らず、自分の心のやりくりに頼むことであり、自力の業である、と言うわけ。まさにクルシチャンの精神状態だ。かくして親鸞の結論は

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

弥陀の誓願不思議に助けられて生きることが極楽浄土への道であると。聖書的にはいのちの御霊の法則に助けられまいらせるわけ。これが神の国に生きるコツ。道元もこう言っている:

佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

そしてわれらの主はこう言われる:

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の魂の命(原語)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために魂の命(原語)を失う者は、それを救うのである。

鍵は自己を忘れ、自己から離れること。心身脱落・脱落心身。

合掌(あ、ついに使ってしまった・・・)

長年の疑問が・・・

センター試験でマークシートを記入ミスした生徒の処理をどうしているのか、私自身もマークシートで採点する場合があるので、長年疑問に思っておりました。受験番号や学籍番号をミスすると採点ができないのです。

ちなみに私は教育的配慮から(^^)、私のところに問い合わせてきた学生については、マークシートの山(800枚)から自分のを探し出してもらい、そこで学生自身に採点させるわけです。通っていれば、修正報告してあげると(微妙なやさしさだ・・・)。

さて、センターの場合は・・・、何とミスしたものはできる限り本人を特定して、センターの方で対応してあげていると・・・涙。これが23年前から行われているとのことでした。

私は共通1次もない時代で、東大には独自の1次試験があったのですが、理系でも社会2科目なんですね。でも英数国理で十分取れるので、社会は過去問を調べた結果、4択で「2」の正解率が統計的に有意に高い!で、本番では・・・。これで通ったのどかな時代だったのです。共通1次だったらダメでしたね。

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今日はようやく砂漠の中のオアシスで休みが取れました。午前中はプールとサウナ、午後は映画『ポセイドン』を観る予定。

ある禅者の悲劇-橋田無適-

禅的生き方をした人物はあらゆる分野におられる。東大医学部生理学教授の橋田無適(邦彦)先生もそのお一人。わが師が学生時代に同師の正法眼蔵講義を聴講したと言っておられた。橋田先生はつねに、「研究室で研究している時も、家にいる時も常に同じ心持ちであるべし」と教えておられたとのこと。医学的には人間をパーツのアッセンブリーと見るのではなく、一個の統合体として診ることを教えられた。これはキリストの体=エクレシア=についても同じ。しかし時代の流れは過酷なもの、最期は自決された(こちらをどうぞ)。先生の教えを端的に表す言葉がある:全機。すなわち如(タタター)。けだし名言である。

意外な人が・・・

またまた本日は疲れております。これから風呂に入って、ビールをと・・・。

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ご質問いただきましたが、私はいわゆる万民救済論を唱えておりませんので、そこんとこヨ・ロ・シ・ク(しばらくぶりだ・・・)。禅ではもちろん永遠のいのちは得られません。

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あの秋田の事件はやはり意外な人が犯人のような感じですね。田舎は人が朴訥としてイイとは言えないようです。かつての音羽の事件と同じ臭いがします。それにしても悲劇です。

因縁

禅にはまっていた私が何ゆえにクリスチャンになってしまったのか。不思議な因縁(仏教用語ですが)がある。私が若い頃薫陶を受けた師(ご自身もカトリックの洗礼を受けておらられる)は内村鑑三の子息内村裕之教授主催の東大精神医学教室の出身。また先生の旧制高等学校時代の漢文の師が秦慧玉師であり、後に永平寺の76世の住職(明峰慧玉)となられた。この師から私は多くを学んだが、見事にキリストと禅が提示されていたわけ。当時は気がつかなったが、この方との出会いも主の御手にあったことを、今自分が50を迎えて深く覚えている。そして今そのわが師は97歳。大往生の日も近い。